私とご主人様は幼い頃、近所に住んでいました。
 同い年で幼稚園、小学校と同じ……所謂、幼馴染と言う間柄でした。
 当時の私は『新月』。何をやっても失敗ばかりの、情けない女の子です。
 そんな私を、ご主人様……『ハルくん』は何かと気にかけ、助けて下さいました。
 ぐずだのろまだと心ない男子に虐げられていた時も。自転車で転び、泣いていた時も。
 私が授業中におもらしした時なんて、異変にいち早く気付いたご主人様が二階の窓を割って飛び降り花壇の花を片っ端から引っこ抜いて食べ始め、注目を引いて下さいました。
 そう……どんな時だって。あの方は、私を助けてくれたのです。
 当時は気付きませんでしたが、きっとあの時からずっと、私はあの方に惹かれていたのでしょう。
 
 小学校を卒業する日、私はご主人様から告白を受けました。
 私は家の方針により、中学からは私立校へ行く事を強制されたのです。
 ご主人様とは離れ離れ。それでも、恋人同士になればいつでも会う事ができるとお考えになったのでしょう。
 ですが、私は……それを断ります。
 私の家は父が大企業の社長で、裕福でした。親に生き方を決められていた私には、幼い時から既に許嫁が存在していたのです。
 『友達としてよくしてもらった事には感謝している。だが、それ以上の関係は許さん』
 そう言う父に逆らう事はできず……いや、できないのではありません。しなかったのです。
 父は厳格でしたが、私の事を心から考えてくださる人でした。
 本気で説得すれば。勇気を出してはっきりと『ハルくん』と生きたいと言えば。
 きっと父は相手方に頭を下げ、婚約を解消させてくれたことでしょう。
 私は……本当に愚かでした。自分の生き方一つ、自分で変えようともしなかったのですから。
 
 「そっか。そりゃ……残念だな」
 ご主人様の寂しそうな笑顔は、今も忘れられません。
 あの時あっさりと諦めた理由が、今になってわかります。
 ご主人様はきっとこう思われたのでしょう。
 「自分より、もっと幸せにできる人がいる」と。
 ……同じですね、マルカ。
 中学校に入り、私達は引っ越す事になりました。ご主人様は連絡を取ろうとはしません。
 私も、あまり執着すると父に怒られそうだと思い自分から連絡することも無くなりました。
 家庭教師を付けられた私は、どうにか難しい授業に付いて行きました。
 彼がいなくても頑張らなければ。そう思って、私は彼の影を心から消して勉学に励みます。
 こうして、一旦二人は離れ離れになりました。

 当時、私の家族は四人。
 母は妹の幻月を生んだ翌年に病気で亡くなったので、父と私、それに齢の離れた弟と妹で全員です。
 弟の残月……マルカより少し上くらいの子ですね。
 あの子は聡明で、私なんかよりよっぽど出来の良い子です。
 幻月はまだ八つの甘えん坊です。
 母の顔もほとんど覚えておらず、姉の私を母親のように慕っていました。
 最近は顔を合わせていませんが、二人はきっと元気ですよ。
 そう、二人は。
 父は、私が高校生の時に殺されました。
 専務を始めとする派閥……父を快く思わなかった者達が結託し、罠にかけたのです。
 彼は濡れ衣を着せられ、責任を強要させられて……自殺しました。
 『お前が死ねば家族は助かる』とでも言われたのでしょう。
 ……もちろん、そんな話はありませんでした。
 借金は実に十億円。高校生の小娘に、そんな額は身体を売っても到底手に入りません。
 当然、借り入れ先は真っ当な所ではありませんでした。利子だけでも返さなければ、残された私達は『路頭に迷う』では済ませれなくなります。
 父を謀殺した専務は既に、私を陵辱し兄妹を売り払う算段を立てていました。
 親の仇である豚のペニスを咥えさせられ。才気ある弟が、まだ就学もしていない妹が、心ない者の毒牙にかかる……
 それだけは。それだけは、どうしても嫌でした。
 せめて私がどうなっても、あの二人だけは。私の家族である残月と幻月だけは、真っ当な生活を歩んで欲しい。
 そんなささやかな希望すら、力のない私にはどうすることもできません。誰も、助けてはくれません。
 許嫁の約束をしていた家にすら、見捨てられてしまったのです。
 これ以上無いほどに、私は嘆きました。
 いっそここで心中してしまった方が、あの子達も幸せなのではないでしょうか。
 そう考えるほどに、私は追い詰められていました。
 でも。どうして私に愛する弟と妹を手にかける事ができましょう。
 私には、現実の残酷さを呪いながら泣くことしかできませんでした。

 ここで話は切り替わります。
 ご主人様の家庭も、かなり裕福ではありました。
 日本人のお祖父様がこの地で財産を築き上げ、こちらで育ったお祖母様と結婚なされたそうです。
 この屋敷は、そのお祖父様が遺したものと言うわけですね。
 ご主人様の家はお金持ちではあるものの、あまり子供にお小遣いを過剰に渡すことなどはしませんでした。
 これは自分で努力して成功したお祖父様を見習って、お金は自分の手で稼ぐようにと言う教育方針だったとのことです。
 衣食住に困ることなどありませんが、ご主人様の財布はいつもからっぽでした。
 お小遣いも少額、子供だからバイトもできない……そんなご主人様に、一つだけお金を稼ぐ手段がありました。
 賭け将棋です。
 物心ついた時から母方……日本に居る方のお祖父様の将棋を見ていたご主人様は、幼稚園生の時点で小学校高学年と互角に差す程の腕前でした。
 小学生時代は地元での戦いではほぼ負けなしとして、研修会と言う所へ入りました。
 プロになる気はさらさら無く、常勝無敗の真剣師……ギャンブラーになりたかった。
 日本各所を旅しながら金を稼ぎ、プロより金持ちになってやる、と思っていたそうです。
 ご主人様はお金が好きでしたが、お金そのものよりも、お金を稼ぐ過程が好きだった。そうおっしゃっていました。
 ……今は、あまり好きではないそうです。
 高校生のある日、ご主人様はアマチュアの大会で見事優勝なさいました。
 丁度その日はご主人様の一族全員が集う親睦会がありました。
 こちらに住んでいたお祖父様お祖母様やその家族達全員も呼んだ、豪勢なパーティーです。
 意気揚々と、既に始まっているパーティー会場の自宅へとトロフィーを持って帰るご主人様。
 もう家が見える所まで来て、彼は異変に気付きました。
 何故か、そこには人だかりが出来ていて。
 何故か、サイレンの音が鳴り響いてて。
 何故か、自宅が聳えているはずの場所に、炎の柱が立っていて――
 ご主人様がトロフィーを落とした音も、誰にも聞こえなかったそうです。
 放火、でした。
 「あのデカい建物でわいわいやってるのが気に食わない」。
 そんな下らない理由で、ご主人様はご家族を全員失いました。
 父も母も姉も弟も祖父も祖母も従兄弟も叔父も叔母も……他の親族も。
 全てが焼け焦げて誰がどの死体だかもわからないままに、ご主人様は財産を手にします。
 自分の手で稼ぎたかった大金より、遥かに多額の遺産を。
 ご主人様は酷く嘆いたそうです。
 「俺は、こんな金が欲しかったんじゃない」
 ……と。

 私はその事をニュースで知り、慌ててご主人様に連絡を取りました。
 電話の向こうでは心ここにあらずと言った様子でしたが、ご主人様だけは難を逃れたことに私は安堵します。
 その時既に、ご主人様は病気を患っていたそうです。
 家族を失ったPTSDによる、性依存症。
 ご主人様の身体は、精神は、とても寂しがっていたのです。欲していたのです。
 愛する人を。家族を。
 
 ご主人様の話を聞くうちに、私はあることを思いついてしまいました。
 『私が彼に取りいれば、二人は助かるのではないか』と。
 私は、最低の人間です。
 いえ、もはや人間とも呼べません。唾棄すべき、畜生以下の存在です。
 家族を全員亡くして不幸のどん底にいて、病気まで患っている人を。
 かつて私のことを好きだと言ってくれたにも関わらず、正面から向き合おうとしなかった相手を。
 自分のために利用しようと、考えてしまったのです。
 自らの薄汚さに吐き気すら催しながら、私はご主人様に言いました。
 「会って話をすることは、できますか?」


 
 私は、助からなくていい。いえ、助かってはいけない外道だ。
 それでも、あの子達だけは何をしてでも助けなければいけない。
 彼がどれだけ怒ろうと、罵倒しようと、殴ろうと、私は受け止めよう。
 それこそ性奴隷程度で済むならどんな事でもするし、どんな薬を注入されようと構わない。
 腹を掻っ捌いて彼が喜ぶなら何度でも刃をこの身に突き立てよう。
 私はその日初めてメイド服を身に纏い、彼と相対しました。
 久しぶりに会った彼は、どこか寂しそうな、あるいは悲しそうな顔をしていました。
 それが自分の境遇に対するものなのか、自分のことしか考えることができない私を哀れんでいたのか。私にはわかりませんでした。
 意を決して私は彼に跪き、懇願しました。
 「貴方を利用しようとする薄汚い私の事など、どう扱っていただこうと構いません。何でもしますし、何でも受け入れます。
 私の身体にそんな価値は無いのは重々承知です。ですが、利子だけでも返せるならあの子達は真っ当な人生を歩むことができるのです。
 どうか何卒、私を――」
 「新月」
 頭に、温かい感覚がありました。
 とても優しい、いつだって私を助けてくれた……ハルくんの、手でした。
 「良かったよ。何の価値もねぇと思ってたこんな金で、お前の助けになれるなんて。
 大丈夫だ。全部、大丈夫だから。俺がなんとかしてやるから、お前は二人と一緒にいてやれ。
 

 たった三人の……家族なんだろ」


 私はこの時、どんな顔をしていたのかわかりません。
 一つだけ思ったことは……私は、人生三回分の恩を……いや、この恩は何百回、何千回生まれ変わっても返しきれない。
 潤む視界の中で、私は叫ぶように呻きました。
 「今しばらく……少し、時間を下さい……私は必ず戻ってきて……未来永劫、貴方のものとしてお仕え致します……!!」
 その時の私は、既に『新月』ではありませんでした。

 彼は僅かな生活費を残した財産の大半……この屋敷も含んだほぼ全てを私にお貸し下さいました。
 ご主人様は渡したつもりでしたが、私は必ず返しますとそれをお借りしました。
 私は無事借金を返し終わり、父を陥れ殺害した専務達への壮絶な復讐……の話は聞かせるべきではありませんね。
 過去を清算し、私は弟と妹にいずれ家を離れねばならない事を伝えました。
 二人は寂しそうな顔をしました。ご主人様も一緒にいてやれとおっしゃっていました。
 私はきっと、人間としてならず姉としても失格です。それでも私には、やらねばならないことがあったのです。
 こうして真っ当に暮らしていけるのもご主人様のお陰です。その恩を返そうともせずにのうのうと生きることなどどうしてできましょうか。
 そう言って、二人に強く生きるように諭しました。
 代わりと言ったら失礼ですが、同時に旧友を雇いメイドとして家族に迎え入れます。
 面倒見のいい彼女のことです。きっともう一人の姉として、二人も接してくれることでしょう。
 そして私は、メイドの修行を始めました。
 家事にとどまらず、ありとあらゆる全てにおいてご主人様の支えになれるように。
 とりわけ性奉仕については重点的に鍛えました。
 貞操はご主人様に捧げるので他の男性に試せず修行は熾烈を極めましたが、処女にして修行を仮完了させました。
 これについてはご主人様と再会して更に研磨することになります。
 修行をしている私の精神は、既に常人とはかけ離れていました。
 そして私は貯めたお金で屋敷を買い戻し、残りのお金も倍にしてお返しすると同時に。

 「名前? そんなん別にそのままでいいと思うが……じゃあ、性格がまるで反対だから――」

 『満月』として生きる道を、選んだわけです。