カリンちゃんさん……もとい濡尾花凛がその腕を全力で振るったら、何が起きるか。
 七百年前の人間には、それが妖術の類にしか見えなかったと言う。

 腕を振り上げるどころか息を吸うだけで数十の人里と数百もの祓魔師を腹に収めてきた濡尾花凛に、人々が絶望している時。
 出羽の牛鬼、『極卒喰らい』猛屠を打ち破った双錫杖の男……
 袁螺なる男が彼女の討伐に向かった。
 彼こそが、日ノ本の危機に突如現れると言う伝説の人物……『紫の守』であるとさえ噂される程の傑物だった。
 酒、肉、女をこよなく好む、破戒僧。今で言う生臭坊主ながら、不動明王か帝釈天か毘沙門天(日によって言う事が変わる)の依り代を称するその法力は神通力を通り越し、天変地異の領域にまで達していた。
 袁螺は確かに強かった。何せ、濡尾花凛相手に一刻半も渡り合ったのだから。
 三日三晩妖を狩り続けた後で寝ずに女を抱く程の精力を有した袁螺も、あまりにも多すぎる致死の連撃を避け続け、髭がすっかり白くなってしまう程に摩耗していた。
 極度の疲労に危機を覚えた袁螺は、このままでは負けると確信し乾坤一擲とばかりに濡尾花凛の懐に飛び込む。
 天の雷あまのいづち
 宵闇を眩しく照らすその雷光は、百里先にまで届く一種の『神罰』。
 山の向こうで光芒が奔った時、一人を除く誰もが彼の勝利を確信した。






「……ありゃ、雷の光じゃねェな。面白い坊主だったが、あいつもしくッたか」




 
 その光は、『発火』の唐紅色。
 濡尾花凛に殴られるとどうなるのか。
 答えはただ一つ。
 その場で断熱圧縮が発生し、塵一つ残らず燃え尽きる。

 喜びの歓声が、狸の咆哮一つでぴたりと止んだ。
 それと同時に、紫色の瞳をした女性のように美しい男が。
 団子を齧りながら立ち上がったと言う。

「やれやれ。如来サマでも観音サマでも閻魔サマでもいいけどよォ……
 仕事を変わってくれるなら、しっかりしたのを派遣してくれよなァ」

 ……とは言え、相手が悪かったのも事実。
 袁螺なら、光姫さん相手に勝てる可能性がもしかしたらほんのちょびっとだけあるかもしれない(初代様曰く『瑙乃の倉庫にある玩具でも呑み込ンで腹壊してたら千回戦って二、三回泣かせられるかもなァ』)と言うくらいの実力者だからだ。
 瑙乃を除けば現代の祓魔などほとんど比べ物にもならないだろう。本当に相手が荒れ狂う土地神だったとしたら(誰一人信じちゃいなかったけど)、彼の勝ちは揺るぎなかったと言う。
 おっさんに才能があると言われた僕ですら、一生鍛えても彼の領域に到達できるかは自信がない。
 そんな男が、傷らしい傷をつけられなかったのが彼女。
 濡尾之大狸。
 その名を、花凛と言った。


 









「ぐっ……」
 あわあわと起き上がる光姫さん。彼女と彼女の視界を共有する僕の目に映ったのは。
「瑙乃の肉をちょいちょいつまんで妖力はプラス。万が一にも光年の身に後遺症を与えてしまうかもしれないと言ッた迷いがマイナス。
 しめて差し引きはだいたいゼロだ。昔と同じじゃ、俺には敵わねェよ」
 人間の姿となって倒れ伏すカリンちゃんさんと、服をやや煤けさせて銀槌に座る初代様の姿だった。
「ほいッと」
「ッ……!」
 立ち上がろうとするカリンちゃんさんに、ぺいっと封札を投げる。
「やッたー! にくべんきを つかまえたぞ!」
 元から捕まえてるけどな、と初代様は腰を逸らしてストレッチを始めた。
 決着はついたとばかりに。
「ふざ、け……るな……っ!!」
 力のせいか、瑙乃の縛りのせいか、封印こそされないものの、その拘束力は絶大であり。
 カリンちゃんさんにはもう、初代様に立ち向かえる状況ではなかった。
「ふざけちゃいねェよ。花凛、俺はいつだって本気だぜ。冗談は言うが、嘘はついたこともないし真剣な状況でおふざけする奴じゃない。知ッてるだろ?」
「嘘を、言うでないよ……! 大ホラ吹きの、年中おふざけ男が……!!」
「そういう風に見られていたのか。ちょッとばかしショックだぜ」
「あたし、を……幸せにしてくれる、って……言ったのに……」
 初代様の微笑みが、消える。
「俺の、女にしてやる、って……寂しかったろう、一人にはもうさせない、って……。
 あたしは、滅鬼の器でも、瑙乃の孕み袋でも、あんたの肉奴隷でも、よかった……」
 そこに、大妖怪の濡尾之大狸などいなかった。瑙乃の大母光女もいなかった。






「あんたが、隣にいてさえくれれば……
 あたしは、ずっと……いつまでも……幸せだったのに……」





 瑙乃光時に恋をした少女、花凛がいるだけだった。


「…………」
「可愛い子供達は、みんな、あたしより先に死んでいって……あたしは、いつも取り残されるだけ……。
 いくらあたしが、人を、情け容赦なく喰らい……日ノ本に仇なす、最悪の、妖怪だったとは言え……ここまでされる仕打ちが、あるのかい……?
 教えてよ、光時……あんたにとって、あたしは……簡単に騙される、馬鹿な、使い捨ての、肉穴だったの……?」
 初代様は何か言おうとして、目を閉じた。
「……今回出てきたのは、そういう話をしにきたわけじゃねェ」
「……!!」
 開いた目は、こちらに……光姫さんに、向けられていた。
「いや……そういう話、か。『光女』がお前の重荷になってるんなら、その荷を下ろしてやンねぇとな」
「およし……!! 光姫は、ただの、人間だよ……!! あたしの代わりなんか、務まるわけない……!」
「試してみなきゃ、わかんねェだろ」
 一歩一歩、初代様が迫る。
 僕の方……いや、光姫さんの方へ。
「お母様、私、は……」
「このクズの……言うことなんて。聞いちゃダメだよ、光姫……!
 こいつは、女を……いや、自分以外の全てを、なんとも思っちゃいない……外道の、バカたれの、詐欺師の、鬼の、悪魔だから……!!」
「……花凛よォ。あまり言うと、俺だッて傷つくぜ」
「傷付くんなら、いくらでも言ってあげるよ……!! 女たらしっ、男女っ、なるしすとっ、左曲がりっ、早漏っ……!!」
「俺は何発でも撃てるからいいンだよ……! お前だって『ああん、光時様、絶倫っ……! すごいっ……!』って悦んでたろうがッ……!!」
「女を見下してる癖に、鏡の前で女装してほとを弄るきちがいおなにすとっ……!!」
「まんこ付いてたんだから別にいいだろォがよォ!! LBGTへ配慮しろお前はッ!!!!」
「まだまだあるよっ……!! 何百個でも言ってあげるよ……!!
 あんた、男は興味ねェとか言いながらあたしにマラを生やさせて」
「うるさーいッ!! シャラーーーップッ!!! お口チャック!!!!
 終わり!!! 閉廷!!!!!」
「むぐぐっ……!!」
 二枚目の封札がカリンちゃんさんのお口に張り付き、喋れなくなる。
 ……真面目な雰囲気だったのに初代様のアレな性癖が次々と暴露されてしまい、緊張感が台無しになってしまった。
「……お母様、に……まら……お、おちんちん……?」
 おい。
「はっ……な……なんでも、ないよ……?」
 ぺしぺしと近くから音がする(たぶん光姫さんが自分のほっぺたをぺしぺしった音だ)。
 気持ちを切り替えて、彼女は初代様と相対した。






「私、は……お母様の代わりに、瑙乃の、うつわに、なり……ま、す……」
「……そうか」
 初代様も気付いただろう。
 彼女の答えには、迷いがあった。
 母親を救いたい気持ちは本物。
 だが、カリンちゃんさんの本心を知ったのは、つい先ほどだ。
 たとえそれが本物だったとして、覚悟をするには不十分すぎる時間。
「……じゃあ、まァ。運が無かったと思ってくれ。こんな家……瑙乃に生まれてな」
「……」



 僕はその言葉に、かちんと来た。

 運が無かった?
 運が無いって、なんだよ。

「……みーの、くん……?」

 光姫さんは、瑙乃に生まれて不運だったって言うのか?
 瑙乃に生まれて、不幸だったって言うのか?

「……何だ。みーのの兄ちゃんよォ。文句でもあんのか?」

 カリンちゃんさんは、昔は悪い妖怪だったかもしれないけど……僕には当たりきっついところあるけど……。
 少なくとも、光姫さんや光年くんの母親としては、悪い人に思えない。
 光年くんだって、お姉ちゃんを想ういい弟だ。中学生にしたらちょっと引くレベルのモデラーだけど、カリンちゃんさんの言うようにしっかりした子だ。
 おっさんだって、変態のロリコンで限りなく犯罪者に近いけど……妖怪の少女は心から懐いていたし、なんだかんだ言いつつも女の子以外の弱い妖怪も守っていることも知っている。
 お義父さん……じゃなかった、当主の光空さんだって。会った事はないけれど、光姫さんだって光年くんだって、信頼を寄せていた。いいお父様に違いない。
 瑙乃はそりゃ、特殊な環境なんだろう。異常とも呼べるかもしれない。
 
 でも、それで光姫さんの人生を不運であると断ずる理由にはならない。
 瑙乃と言う環境が、光姫さんを不幸に落とす事など。
 あるはずがないし、あってはならない。 


「ついこないだ瑙乃どころか祓魔の存在を知ったお前が、何かわかったつもりなのかよ」
 ついさっきまであの世でおねんねしていたあんたが、何もかもわかったと思ってるのか。
(光姫さん)
「でも、みーの君……」
「無駄だ。お前には何もできない。何も変えられない。部外者はすっこんでろ。
 ……これは善意の忠告だぜ?」
「そう、だよ……。みーの君には、何も、できない……。
 ……何の、力も、ない、から……。出てきても……。
 ……。迷、惑……」

 わかっている。
 僕には力がないと言うことも。
 迷惑だなんて、これっぽっちも思っていないことも。
 光姫さんの嘘のへったくそさは、僕がよーくわかっている。





「……嘘、じゃない……。
 あ、なた、には……関係のない、話、だから……」

(関係なくないッ!!!!」
「!」
 
 母親そっくりの震える声。それを聞いた僕は押し通した。
 彼女は、押しに弱いんだ。

 ひとかけらのチョコレートから魂になった僕は、人間の姿を取り戻して彼女の前に立つ。
 そして、最強の祓魔師。
 初代様……いや、瑙乃光時の前に。
 彼は、大して面白くもなさそうに僕を見ていた。
 状況を何一つ変えられない者がいても、つまんないとばかりに。

「で?」
 一歩、迫る。
 どうする気だ、と尋ねる光時に、僕は言った。
「とりあえず、光姫さんに謝らせる。カリンちゃんさんにも、土下座させる。
 このままじゃ、あんまりだ」

 一枚ドローする。
 霊札。よし。

「で?」
 一歩、迫る。
 その後は、と尋ねる光時に、僕は言った。
「カリンちゃんさんも、光姫さんも犠牲にならない方法を探し出させる。あんたに。
 それが可能どうかは問題じゃない。可能にさせる」

 二枚目をドローする。
 牙札。いいね。

「で?」
 一歩、迫る。
 終わりか、と尋ねる光時に、僕は言った。
「あと、光年くんにも謝ってもらう。勝手に体を借りて好き勝手やってごめんって。
 彼は絶対に、あんたみたいなことしたくもさせたくもなかった」

 三枚目、ドロー。
 牙札。それに、重なっていた霊札もひっついてきた。こういう時はボーナスだ。
 ……僕、ひょっとして決闘者デュエリスト……
 じゃなかった。札術皇カードマスターの才能あるかもしれない。マジで。

「……で?」
 彼の足が、止まる。
 腕が届く距離。彼にとっては、羽をもいだ羽虫を握りつぶせる距離だ。
 それをどうやって成す、と煽る光時に、僕は言った。
(霊。霊。霊。霊。霊。霊)
(牙牙牙牙牙)
「顕現せよ、牙札――」








『力が必要か、ねぇ……。
 そんな思いつめるなよ詩屋少年。君なら木っ端妖怪にも雑菌祓魔師にも負けたりしないさ。
 とは言え、名のある祓魔とかち合ったら勝つのは不可能……
 ……なーんて、言うわけないでしょ。
 元とは言え瑙乃の符束デッキをなめちゃいかんよキミィ。ちゃんと、裏技も用意してある。
 例えば……気付いているかもしれないけど、君の牙札、獄門狗爪はパーツだ。霊札をありったけ使えば、他のとセットで顕現できる。
 封印されし、なんとやら……。五枚揃えれば、盤面を覆し得る力を秘めているから。
 ちょっと……どころじゃなく体に負担は来るけど、それ相応の出力は出せるよ。
 まぁ、イグアナの卵には劇薬だから本ッッ当に下手をすれば最悪の事態も考えられなくもない程度には危険だからオススメなしないけど……

 ぜってー引けねぇ死んでも譲らねぇ、って男の勝負の時が来たら、使うといい』





 ぜってー引けねぇ死んでも譲らねぇ、って男の勝負の時があるなら。

 今だ。






「――――『獄門大兇狗』ッ!!!!!!!!」

 

 頭。右腕。左腕。右足。左足。
 狂々しく猛々しく、そして禍々しく。
 瑙乃の煌めくそれとは異なる、淀んだ紫の焔を纏った山狗。
 それが、今の僕だ。


「…………で?」
 瑙乃光時が、ゆったりと構えた。
 その口元の緩みは、余裕であり。
 石だと思っていたら若干尖っていたガラス片だった程度の、予想外の笑みだった。



 力は取り留めもなく流れてくる。今の僕は、僕史上後にも先にも多分最強だ。 
 それでも、僕はたぶん、きっと、まず間違いなく、いや……絶対に勝てない。
 殴るどころか、触る事すら叶わないと思う。

 知るか。
 こいつは、僕の好きな人と、好きな人の家族を馬鹿にした。
 
 殴れなくても、罵ってやる。
 罵れなくても、嫌がらせしてやる。
 嫌がらせできなくても、その、なんか……呪ったりしてやる。
 逆になおさら効かなさそうになってきたぞ。
 
 とにかく、僕は叫びながら右腕を突き出した。
 なんか適当に、彼にダメージを与える文言を腦からひり出しながら。
 結果。












「てめぇでシコってやる!!!!!!!!!!!」

「やめろやッ!!!!!!!!!!!!!!!!!」





 二人の右腕が、お互いの頬を殴り抜いた。
 抜いたと言っても、シモの意味ではない。