死ぬ、死んでいる、死んでみる

 
 
 当たり前だけど、人は死ぬ。それも、突然死んでしまう。僕らはそのことを普段、意識しないようにして、しすぎて、忘れてしまってる、ように思える。だけど人は、間違えようないぐらい、かならず死ぬ。ここで僕は、命の大切さについて語ろうとは思わない。じゃあ、何について語るのかというと、死ぬことの意味だ。
 どうして、そのことについて書こうと思ったのか。明確な理由と、あやふやな理由が二つある。そして、おそらく僕は、その後者のほうに、大きく突き動かされている。
 明確な理由は恥ずかしいぐらい単純で、最近、二週間前ぐらい、人が死ぬところを見た。その人は、駅のホームで、入ってくる電車の接続部分に首を引っ掛けて、そのまま引きずられて、電車とホームのあいだに首をはさんで、死んだ。彼女は妊婦だった。僕は、電車とホームのあいだに挟まれた首に連動した、か細い母体が、激しい力でバウンドしている様子を、今でも鮮明に思い返すことができる。死ぬということは、つまり、絶対だから、死は、どんな人でも、止められない。駅のホームにいた人たちの中には、彼女を助け出そうとしてる人もいた。僕は動けないことから、抜け出せないでいた。
 あやふやな理由については、ちょうどその前日に、僕はロボット学会の論文を書くため研究室にこもっていて、文章が書けなくなっていた。そのことに由来する。初めて論文を書くということもあったのだけど、自分がこれまでやってきた研究のことを、まったく説明できなかった。論理的に説明しようとすればするほど、文章が、上滑りしていく。一日中パソコンに向かっていたけれど、僕の文章は死につつあったし、たぶんどっかで死んだのだと思う。
 死因は明快だった。僕の文章は、主語と述語が繋がっていなかった。つまり「何が、どうした」という文章の頭と体が、バラバラに切り離されていたのだ。頭だけ、体だけの状態で。ならば、生き返る方法はただ一つ、主語と述語を意識することだ。主語には述語があり、述語には主語がある。それをちゃんと確認すれば、あらゆるものごとを説明できる。逆に言えば、「何が、どうした」を把握すれば、複雑な概念も理解することができる。これは(僕にとって)鮮やかな発見だったし、僕の文章はそれによって、息を吹き返した(と思う)。
 人が死ぬこと、それから、文章が生き返ること。これらが立て続けに起こって、僕は今、この文章を書いている。できごとが起こった順番は逆だけど、むしろ、人が死ぬところを見てから、文章が生き返ったことを感じたのだ。もちろん、本当に悲しい事故だったと思うし、当事者の方々は、きっと一生癒えない傷を負ったことだろう。ただ、被害者の女性とまったく関係のない、だけどその現場を目撃してしまった人間が後からぼんやり思ったことは、一つ。死ぬことに価値があるとするなら、それに触れることで、生き返ることができるということだ。
 生きることも文章を書くことも、よくよく考えてみればわかってないことだらけなのに、そこには絶対的な足場があって、僕らは安らかに生きている。何の疑いもなく。だけど、安らかに生きてるってことは、死んでいるってことなんじゃないか。そう、死ぬっていうことと、死んでいるっていうことは、違う。死んでいるっていうのは、なんていうか、それを疑いもせず、絶対的なモノだと信じ込んでいる状態で、死ぬってことは、その状態にゆさぶりをかける。自分の好きな子に嫌われていることを、知りたい人がいるだろうか。いるわけがない。だから僕らは、死にたくないのだ。知るぐらいなら、ずっと死んでいたい。死んでいたい。死んでいたい。
 だけど、ずっと死んでいて本当にいいのかな。死ぬ必要だって、あるんじゃないか。少なくとも、この世界がつまらないって思っているなら、たぶん死んでいるのだ。絶対的なモノを前にして、どうすることもできず、途方に暮れて立ち尽くしている。そんなとき、どうすればいいんだろう? 僕は、思い切って、死んでみることをオススメする。もちろん、抽象的に。だけど、どうやって死ぬのか。それは、もう、自分の思いつく限りの失敗をすることだ。望みのない相手に、愛の告白をするみたいに。