名犬マーシー

 
 
 名犬マーシーは犬のくせに麻薬中毒だ。
 だから僕は散歩の途中マーシーが幻覚を見て発狂すると、気絶するまでなぐる。そうすると愛護団体が黙ってないが、マーシーが薬物中毒犬だと知るやいなや、見て見ぬふりして去っていく。
 マーシーはもともと麻薬捜査犬のエースだった。僕は麻薬捜査官の父を持つツテで、マーシーと出会った。初めて会った頃のマーシーは、犬のくせに、この世のすべての悪を根絶やしにするといった表情をしていた。
 それから半年もたたなかった。マーシーが、犬用の宿舎で自分のフンに含まれる微量の麻薬成分を求め、食糞しているのが発見された。
 じつは僕がマーシーのエサにクスリを入れたんだ。
 こうしてマーシーは麻薬捜査犬の資格をはく奪され、保健所で処分されることが決まった。僕は父に頼んで、マーシーを飼いたいと申し出た。父は露骨にイヤな顔をしたけれど、マーシーの功績を考えたら殺処分はあまりにヒドイと泣き落として、とうとう父は折れた。マーシーは僕ら家族の一員になったんだ。
 とはいえマーシーは普通の犬じゃないから、禁断症状が出ると手当たり次第に人を噛み、後遺症が残る怪我を近隣住民にまき散らした。
 近隣住民はマーシーの殺処分を申し出たけど、僕は断固拒否した。
 マーシーは常によだれを垂らしているし、まっすぐ歩けないし、あちこちぶつかるから傷だらけだし、右目が白く濁ってるし、左目はイッちゃってるし、真夜中にとつぜん吠えるし、噛んだものは千切れるか気絶するまで離さないし、とにかく駄犬だった。
 でも、ママを噛み殺してもらうまでは、マーシーを処分されるわけにはいかなかった。
 
 
「ただいま」
 パパが帰ってきたとき、ちょうど僕は右目の上にできた腫れに消毒液を塗って、絆創膏を貼ったところだった。
「おかえりなさい」と、僕は平静を装って言う。
「ママは?」
「もう寝てるみたい」
 パパは、不意に深刻な顔をして、絆創膏を指して言う。
「……その傷は?」
「学校で、転んでしまって」
「そうか。それならいい」
 マーシーが人を噛み殺すには、まだ狂気が足りない。まだ、マーシーにはエースだった頃のプライドが残っている。そのプライドを捨ててもらうには、もっともっとクスリに依存させる必要がある。
 僕は、街外れのスラムのバーに顔を出して、より強いクスリを求めるようになった。クスリは、僕みたいな子供でもお金さえあれば手に入った。
 
 
 チャンスは不意に訪れた。
 その日も父の帰りが遅く、僕はコナゴナに割れたお皿を片づけていた。ぼやけた視界の中で母の寝室に目をやると、ドアに隙間ができていた。見間違いかと思って僕はしばらく呆然としていた。
 犬一匹がかろうじて通れる隙間だ。
 僕は部屋に戻って、机の引き出しの奥に用意していた野球ボールを取り、再び寝室の前に立つ。野球ボールには、微量のクスリがまぶしてある。
 僕はそのドアに触れることができない。触れようとすると、目の奥が縛られるように痛む。けどマーシーにとって、クスリ以外の物質はすべて意味がない。ただの障害物だ。
 野球ボールにまぶしたクスリの臭いに誘われ、マーシーがフラフラとこちらに歩いてくる。途中、家の壁やテーブルの脚に何度もぶつかる。野球ボールとの距離が詰まるほど、マーシーは狂暴になっていく。こんな日のために、僕はマーシーを禁断症状の一歩手前にしていた。
 もう我慢できない。
 マーシーが鋭く吠えた瞬間、僕は野球ボールを寝室の隙間に放り込んだ。マーシーは見えない首輪が外れたみたいに、寝室へ飛び込んだ。かつて、巧妙に隠されたクスリを発見し、社会秩序のために鍛えられた鼻が、今は自分の欲望を満たす道具として、マーシーを走らせる。でも、野球ボールにまぶした薬の量は、決してマーシーを満足させない。
 期待を裏切られた彼は、いっそう狂うだろう。
 怒りのあまり、手当たり次第のモノを、噛み千切るだろう。
 僕は裸足のまま家の外に逃げ出していた。吠える声、母の怒声、色んなものが倒れる音、割れる音。そういった音が聞こえないように耳をふさいだ。
 僕は、ママに死んでもらいたいと思う反面、死んでほしくないとも願ってる。だから、運命に任せてみたいと思った。ママが死ぬべきならマーシーに噛み殺されるし、生きるべきならマーシーの牙から逃れるだろう。
 
 
 パパが帰ってきた。僕は庭の隅で丸くなっていたので、気づかれなかった。それから救急車が僕の家の前にとまり、ママは救急隊員に運び出された。パパは致命傷を負ったママと一緒に救急車へ乗り込んだ。
 僕は動くことができなかった。
 それから数時間がたった。夜が明けようとしていた。
 何がキッカケだったのかわからないが、僕はマーシーみたいに、フラフラとあちこちにぶつかりながら、ようやく家の中に入った。玄関はメチャクチャになっていた。靴箱は倒れ、花瓶は割れ、姿見にはクモの巣のようなヒビが入っていた。
 マーシーはリビングに横になっていた。
 かろうじてまだ息はあった。だけどあちこちから血が流れて、水たまりに浮かんでいるようだった。
 マーシーは僕に気づくと、「クスリをくれ」と吠えた。実際にはワンと小さく吠えただけだが、僕にはそう聞こえた。それが最期の食事になることはマーシーにはわかっていた。だけど、じつはクスリは、もう切らしていた。
 気づくと僕は、スラムに向かって走っていた。
 もっと強いクスリを。もっともっと強いクスリを、持ってくるから。お願いだから、それまで死なないでくれ。
「クスリを売ってください」
「犬用の麻薬を探しているんです」
 僕は叫んでいたが、さすがにこの時間帯はどこのバーも開いていなくて、スラムは閑散としていて売人などおらず、ただ、酔っ払いだけがニヤニヤして僕と僕の背景を眺めている。
 我に返ると、太陽が完全に顔を出していた。汗がダラダラになって、足が棒のようになって、なにかに引きずられるように僕は家に帰った。
 パパとママはまだ帰ってなかった。マーシーは当然のように事切れていた。
 僕はマーシーを口に運んだ。
 とても硬くて、毛が鼻の中に入ってくすぐったい。噛んでも噛んでもなかなか千切れない。エキスを抽出するようにして、僕はマーシーの肉をチュウチュウ吸う。
 すると、マーシーの体内に残っていた麻薬成分が溶け出して、僕の緊張した脳みそを柔らかくする。

 天国があるとしたらどこだろう。

 僕はもう眠かった。マーシーの体を枕にして横になる。季節は夏なのに、とても寒い。

 マーシー……疲れただろう?
 僕も疲れたんだ。なぜだかとても眠いんだ……

 天使が降りてきて、僕とマーシーを天高く運んでいく。光に包まれた。僕らはネロとパトラッシュじゃないけれど、こんなことってあるんだね。
 
 
 
sage