昼飯を求めて町を彷徨っていると街角の店に貼られた張り紙が目についた。
『冷やし中華始めました』
 冷やし中華か……。そういえばこの夏はまだ食べてなかったな。もう夏も終わりなのに『始めました』の張り紙がまだ出ているというのも中々趣きを感じるではないか。どれ、一つ入ってみるか。のれんをくぐって引き戸を開ける。
 中は中華料理屋というよりは昔からある定食屋という風情だ。カウンター席は木製で背の低い椅子の上にはクッションが敷いてあり、奥の座敷は禿げかけた畳にこれまた背の低い机と座布団が敷いてある。座敷の壁は障子と襖で仕切られているし、よく見れば床の間のようなところもあるし、まるで蕎麦屋か何かのように見える。障子の上には紙に書かれたメニューが並ぶが、古いのと字が汚いのとでほとんど読めない。その下に、障子に被せるように色褪せたビールのポスターが貼ってあるところだけが、唯一中華料理屋を彷彿とさせる部分だった。店内を一しきり見物した私はカウンターに座り、店員に声をかけた。
「冷やし中華一つ」
 水とおしぼりを運んできた店員は怪訝な顔をした。
「今はやってないですよ」
「え、もう終わっちゃったんですか?」
「終わったっていうか……」
「分かりました。じゃあ何ならあるんですか?」
「えーとそうですね……メニュー見ます?」
 店員がカウンターの奥から取り出したメニューをを開いて愕然とした。中華料理が一品もない。あるのはそばとうどん。ところどころに丼ものもあるが、ラーメンも、チャーハンも影も形もなかった。店を間違えてしまったようだ。恥ずかしさに身体が火照るのを我慢しながら注文をした。
「じゃあ、天ざるを一つ」
「え、ないですよそんなの」
「ないの!?」
 思わず大声を出してしまった。じゃあこのメニューは一体なんなんだ?
「あ、すいません! 古いの出してた……」
 慌てた店員が別のメニューを出してきた。さきほど出したのはここに前に入っていた蕎麦屋のものらしい。新しく貰ったメニューを見ると、今度は間違いなく中華料理屋のものだ。『冷やし中華』の文字があった。私は思わずまた叫んでいた。
「あるじゃないですか冷やし中華!」
「ですから、まだ始まってないんです」
「え、でも店の前に張り紙が」
「あのクソ店主、去年の張り紙まだ剥がしてねえのかよ!」
 店員がブチ切れた。ブチ切れたいのは私の方なんだが。どうやら冷やし中華初めは当分お預けのようだ。