第十二話 四年後

「ふう……」
 軽い溜息と共に顔を手団扇で仰ぐ青年が、初秋に入り始めてもなお下がらない気温に頭を悩ませながら田舎道をひた歩く。
 人っこ一人、建築物の一つも見えない道をただ歩いて行く青年のいる付近一帯には普通の人間は立ち寄らない。いや立ち寄れない。そういった特殊な術が働き、またそういった特殊な一族がこの先の集落にはいる。
 しばらく無心で歩き続け、ようやく帰るべき場所の入り口が見えた時。そこで片手を振って安堵の表情を浮かべている少女の姿を認めた。リン、リン、と。体の動きに合わせて伸びた黒髪を括る青い結紐に付いた鈴が音を奏でるのがこの距離からでも聞こえる。
 片手を振り返し、声の届く距離まで歩み寄ってからやんわりと青年は笑う。
「おかえりなさいませ、旭兄様」
「うん。ただいま、昊。学校はもう終わったの?」
 熱っぽい視線で見上げる陽向昊は、旭の問い掛けに浅く顎を引いて頷く。
「はい。そろそろお帰りの頃合いかと思ったので、お待ちしておりました」
「帰還の時程なんていくらでも変動するんだから、そんなことしてなくったってよかったのに」
 学生鞄を両手で握る昊と隣り合い、藍色のスラックスに純白の半袖ワイシャツといった面白味のない仕事着の旭は他愛の無い話を振る。
「勉強は大丈夫?」
「大丈夫です、本日もつつがなく。宿題も帰ったらすぐ終わらせます」
「うんうんそれがいい。その辺だらけてると、晶納みたいに是才ぜさい先生にどやされるからね」
 互いに控えめな笑みを交わして、ふと話題に上がった同輩のことが気掛かりになった。
「その晶納だけど、まだ戻ってない?」
「そうですね…まだだと思います」
 そっか、と返して旭は晶納が任されていた任務について思い返す。おそらく荒事になるだろうからと、自他共に適任であるとして向かわされた凶悪な人外討伐の依頼だ。
「ま、晶納なら大丈夫か」
 今の陽向晶納に勝てる人外などそうはいまい。ずっと前に対峙した、強力な人外を仕留め損ねたあの日からより一層強さを求めるようになった彼に、勝てるような人外などは。
 昔ながらの木造建築の家々を過ぎて自宅への道程を二人で進んでいると、先の十字路から見知った顔が現れた。
「お、日昏」
「……旭か。おかえり」
 挨拶に返答し、ほとんど同時期に別々の依頼で出立したはずの日昏がもう集落でのんびりしていることに多少ながら驚き、そしてすぐさま納得した。
「相変わらず効率が良いというか無駄が無いというか、さくっと終わらせて直帰した感じかな?」
「ああ。俺の方はさして難しい任務ではなかったからな」
 せっかく外に出れる機会なのだから少しくらいは出掛けたその地を満喫してくればいいものを。そんなことを言い掛けて、日昏にはあまり興味が無いことだったかと思い直して口を噤む。
 ちなみに旭は任務を終えて二日ほど街を散策していた。外の世界での食事は、集落の質素な食事よりもずっと胃と心が満たされるようで旭は任務で外に出る時は毎回のようにその地での名物や名産を口にして帰るのを一つのノルマとしていた。
「あー!日昏様っ」
 いきなり隣の昊が日昏の顔を見て声を上げる。正確には顔ではなく、その口に咥えられた紫煙を立ち昇らせる煙草を見てだ。
「またそんなもの吸って、よくないですよ?」
「心配するな、ちゃんと携帯灰皿は常備している」
「そこじゃないですよ!吸うことそのものを言ってるんです」
「わかった、歩き煙草は控える。だからそんなに怒るな」
「いやだからそうじゃなくてですねっ」
 わかっているだろうにわざと素っ頓狂な答えを返して面白がっているのが旭にはわかった。ひとしきり昊がわたわたしているのを楽しんでから日昏は短くなった煙草を胸元のポケットに入っていた携帯灰皿に突っ込み、
「しかし正味のところ、別に構わないだろう。数年前ならいざ知らず、今は成人している。特に問題は無い」
「それは…年齢の話じゃないですか。身体への悪影響はいくつになったって同じです」
「安心しろ、肺にまでは煙を送り込んでいない。ただの伊達煙草だ」
「そんな伊達メガネみたいな感覚で煙草咥えるくらいならもう吸わなくていいんじゃ…」
 思わず口を挟んでしまった旭だが、日昏がなんとなくのポーズで咥え煙草を好んでいることは知っている。未だに昔見た映画に登場したハードボイルドなヘビースモーカーの主人公に憧れを抱いている真似事だというのが、この陽向日昏の妙に可愛げのあるところであることも。
「家に帰るのか?」
「うん、たった今戻ったばかりだしね」
 日昏も暇を持て余しているのか、なんとなくの流れで旭の帰宅についていくことになった。
 陽向家という一つの家系の人間だけで構成されているこの集落では、大抵全ての家とその親子達は深い仲で繋がっている。よその子が家に無断で入ってきた程度のことは日常茶飯事であり、親やその兄弟も邪険に扱ってくることはまずない。むしろ実の家族のように接してくるのがここの常だ。
「ああそういえば、旭。日和が退屈そうに彷徨っていたぞ。お前がいないとあの子はいつもそうだ」
「相変わらず友達を作らない子だなー日和は…」
 昊と同じく幼い頃から面倒を見て来た少女の名を聞き、旭は微苦笑を浮かべて家への足取りをほんの少しだけ早めた。
「むー…日和ちゃん、ですか」
「お前は十歳の子供になんの対抗心を燃やしているんだ」
 僅かな歩調の変化を察して、憧れの兄を取られかけていることに片頬を少し膨らませた昊を見て日昏が肩を竦ませ嘆息。
 三人でとりとめもない話をして自宅の前まで来た時、横合いから旭を呼ぶ者がいた。
「なんか帰ってきたばかりで忙しいな…」
「次期当主筆頭候補であれば妥当じゃないか」
 ほとんど確定しているような座への重圧に顔を少し顰めながら、遠目からでもよくわかる筋骨隆々で長身の男を見て顰めた表情を綻ばせる。
 旭達が高校生だった頃に勉学と退魔師の訓練の両方で面倒を見てもらった教師にして教官でもある陽向是才だ。
 日焼けしたわけでもないのに真っ黒な表皮で遠くからだとシルエットが歩いてきているようだったが、間近まで来るときちんとその顔も確認できた。ついでにとんでもない体格の良さに毎度の如く圧倒されて一歩後ずさる。
「先生、こんにちは」
「うむ、無事に任務は終えたようだな。それと先生はやめろ、もうお前達は学生ではない」
「あ、はい是才さん」
 呼び方を改めて、旭は呼び止められたことについて訊ねる。
「それで、僕に何か?」
「長老に、お前が戻り次第屋敷へ足を運べとの伝令を任されていてな。ちょうど良いタイミングで見かけたものだ」
 満足げに頷く是才に対し、旭は再び引き攣った表情で冷や汗を一筋垂らした。
「……もしかして、また任務とかだったり?」
「もしかしなくとも、だ。次代の当主を担う相応しい働きを期待されているのだろう」
 ぽんと岩石みたいな手を肩に置かれ、関節が外れるかと思うほどの衝撃に思わず“倍加”を巡らせた両足で踏ん張る。
「おお、すまん。元教え子が次期当主になるかと思ったら、つい力が入ってしまった」
 つい入った程度の力でこれだけのパワー。天敵であると認めている晶納をして『筋肉魔人』と呼ばれるだけのことはある。完全に脱力し切った状態からの異能発動で予期せぬ反動を受けながら、さらに引き攣りを悪化させる旭はもはや苦笑すら作れなかった。

 人面犬という人外騒動を基点に発生した特異家系者と妖精種を取り巻いた一件から早四年の経過を経て、四人一組での活動を続けていた旭・日昏・晶納は二十歳の成人となり、昊も十七歳の高校生となっていた。
 順調に退魔師としての研鑚を続けて来た彼らはこの世代での最高戦力とされ、陽向家の古株や大人達から多くの期待を寄せられる立場となっていた。
 より尖った戦闘能力に磨きを掛けた晶納、退魔師としての技能全てに高い順応を見せた日昏、陽をより光り輝かせる援護と支援の技術に特化し続けた昊。そして当主としての器で最も秀でた才覚を認められた旭。
 さらにこの数年で恐るべき速度で成長を続けて来た、陽向家の歴史においても稀代の天才とされる者がまた一人、静かに名を馳せ始めていた。

「ああ待て旭。もう一つある」
 ひとまず家に帰って一息ついてからでも遅くはあるまいとしてふらふら玄関へ向かった旭の背中へ、是才が伝えきれていない残りを告げる。
「日和を連れて行け。此度の任務、あれを同行させることになる」
「「……えっ!?」」
 齢十にして天才とされた少女の名を挙げられて、当事者たる旭とは別にその背中を付いて共に家へ入ろうとしていた昊とも驚愕の声音が重なる。
 唯一冷静に見えていた日昏でさえ、新たに取り出した煙草を取り落して咥えようとしていた口を半開きに固定したまま瞳を僅かに見開いて。その場の三人は必死に今しがた放たれた言葉の理解を求めて思考の海に沈んで行く。
 結局、納得のいく理解へ至れた者は一人たりとていなかったが。