12


 ボストンバッグの動く音がする。合皮を軋ませながらもがくように動くその姿は、さながら蛹のようだ。
 ふと目を見張ると、ジッパーが微かに開いていることに気がついた。じりじりとそれがもがく度にジッパーは下がっていく。
 開けてはいけない。閉じなくてはいけない。なのに動けない。
 開く、開く、開く。
 のたうち回るボストンバッグは羽化を待ち望む。その姿を晒すために。窮屈な孤独から逃れるために。
 やがて、バッグが開いた。
 その暗闇の先で、誰かの笑い声がした。
 甲高い女の声。
 鋏の音。
 悲鳴。
 アンモニア臭。
 鞄からはらりと何かが落ちた。
 恐る恐るそれを覗き込み、あざみは戦慄した。
 これは、ルナの髪だ。
 あたしが切った、ルナの髪が、落ちている。

 森に会ってから、あざみはこの夢を、毎日のように見ている。

   ●

 自宅に辿り着いて、潮はクローゼットを乱暴に開いて大量のビニールパックを漁り、部屋に放り投げていく。日付、時間、場所の詳細まで丁寧に書き込まれたあざみとの記念のかけらたちが、それを収集した本人の手によって粗雑なゴミへと変わっていく。
 もはやここにあるのは汚物だ。他人の使用した紙コップ、生理用品、好きだった映画のパンフレット、爪、くしゃくしゃに丸められ干からびたティッシュ。気持ち悪い。こんなものを仕舞い続けておく。想像しただけでも怖気がする。
 嫌いだ。あざみなんて嫌いだ。
 俺の好意を踏み躙りやがって、愛を裏切りやがって。
 美しい髪を粗末にしやがって。
 嘆きながら潮は【彼女との記念品】に当たる。これだけ愛したのに、どうして、どうして自分を裏切ったのか。腸にどろりと溶岩のような熱が溜まっている。それはどれだけ放出しようとしても決して熱を落とすことなく、むしろ発熱は強くなっていった。
 棚の奥の最後の一つを投げようとして、潮は掲げた右手を止めた。力なく膝をつき、あざみとの思い出を胸に抱える。
「どうして、裏切るんだ」
 こんなに、愛していたのに。
 どうして俺は、あの枝毛を見つけてしまったのだろう。
 気が付かなければ、あざみは失われることがなかった。いや、あの時の躊躇いが命取りだったのだ。潮が、あざみを殺したも同然なのかもしれない。
「あざみ……」
 目元を熱い涙が零れ落ちていく。大粒のそれが一粒、また一粒と頬を伝って落ちて、床に散らばるかけらたちを濡らした。
 涙のせいだろうか、目元が霞む。心なしか気だるさから意識も薄い幕がかかったみたいにぼんやりとしていた。剥がれ落ちていく輪郭の中、潮はその場にしゃがみ込むと額に手を当てた。
 思えば遠いところまできたものだ。はじめ、喫茶店であざみの別れ話を背中越しに聞いた時、とうとうチャンスが巡ってきたと思った。だがそれを森やルナに遮られ、そればかりか愛美まで。
 あの日を切っ掛けに、潮を取り巻く全てがおかしくなった。いくつもの後悔が絶え間なく脳裏を過ぎっていく。潮は這いずるようにしてベッドの縁に辿り着くと、頭をもたげた。目が回る。ひどい気分で吐きそうだ。
「あざみのせいだ」
 力ない声でそう潮は呟く。彼女には、それ相応の報いを受けてもらわなくてはならない。
 俺の愛を踏みにじったことを後悔させてやるんだ。潮は落ちていく目蓋を堪えるように歯を食いしばる。
 攻めて、攻めて、攻めて、攻めて、攻めて、完璧に、徹底的に、完膚なきまでに、丹念に、どこまでも攻め抜いて……。
 彼女を、壊してやる。
「潮、くん?」
「あぁ?」
 呻くような返事と共に潮は顔を上げた。
「体調、悪いの?」
 良質な髪がいた。
 彼女は慌てた様子で潮に歩み寄ると、額に触る。「熱っ!」と大げさに言って潮の脇から潜り込み、彼の体を支える。
「ちょっとだけ頑張って、ベッドに、横になったほうがいいから」
 頬に触れる髪の感触が、心地よい。健康的で、室内の灯りですら取り込んで繊細に光るそれを見て、潮は触れてみたいと思った。
(指先で溶けるように流れるんだろうな、きっと)
 ベッドに転がされ、彼女に上着とズボンを剥ぎ取られた。幾分気が楽になったが、それでも体調は最悪だった。
 潮は差し出された体温計を素直に受取る。しばらくして戻ってきた体温計の数字を見て、彼女は悲しそうに顔を歪めると、彼の頬を優しく撫でる。
「おかゆとかなら、食べられる? 潮君、病院はあまり好きじゃなかったよね。薬局でお薬買ってくるね。他に欲しいものがあったら教えて」
「ああ、悪い」
「いいんだよ、潮君の為だもん」
 彼女は笑う。髪を引き立てるような明るい笑顔を浮かべて、彼女は言った。

「私は、潮君の為に生きてるんだから」

 その笑顔を見て、潮は衝動的に彼女の髪に手を伸ばす。横で二つに結ばれた髪の先に触れると、痺れるような快感が体を走る。乾きを潤すような満足感があった。
「いいんだよ、何をしても。潮君だったら、いいんだよ」
 目蓋が落ちていく。この良質な髪を手放したくない。だがその思いと裏腹に、意識は薄れていく。
「いやだ……お前を、離したく……ないのに……」
 最後に彼女が浮かべていた顔。あれはなんだったのだろう。今はもうよく思い出せない。重たくのしかかる眠気と、衰弱した心と、脳裏を過るあざみへの怒りと、指先の髪の感触で、潮は一杯だった。
 だから、潮は気がついていない。
 今、自分が言葉にしたことの意味を。
 言葉にしてしまったことの、意味を。


 覚醒した時、潮はその後のことを何も思い出せなかった。
 浮き上がり、部屋中を見回すが、何の変哲もない自分の部屋だった。いや、元通り過ぎる。あの時散らかしたあざみとの思い出たちはどこへいったのか。
 布団を出ると、随分ひどい汗をかいたのか、下着とシャツがべったりと気持ち悪いくらい湿っていた。その寝汗とは裏腹に、潮の意識ははっきりとしていたし、気分も回復していた。ふとローテーブルに目を向けると、錠剤の入った瓶と空になったグラスが一つ、置いてあった。いつ飲んだのかは、やはり覚えていない。
 キッチンに向かうと、きれいに洗われた鍋と器、食器類がクロスの上にきちんと並べて置かれていた。どれもぴかぴかに磨かれていて、潮でもここまで丁寧に洗ったことはない。
 上着を脱いで浴室に入ってシャワーを浴びながら、誰かに介抱してもらったことを思い出す。色んなことで頭に血が昇っていたせいか、体調をひどく崩してしまったせいか、よく思い出せない。だが、とにかく良い髪質をしていたことだけは覚えている。
 一人、思い当たる女がいた。だが、彼女に自宅を教えたことはなかった。携帯を見ても連絡はない。いや、むしろ彼女ならこういう時、起きるまでいるはずだ。そうして自分がいかに大切な相手かを、一生を共にすべきかを説くために自分から言ってくるはずだ。

 熱湯で気持ちの悪い汗を流すと、ようやく冷静になれた実感があった。
 だが、もう起きてしまったことは取り返せない。冷静になった頭で次に考えるべきことは、糸杉あざみをどう追い詰めるか。その手筈を考えることだ。
 ふと、そういえば、ルナと森はどうなっただろうか。ここしばらくあの二人と顔を合わせていない。
 潮が思いついたのは、ルナのような目に遭わせることだった。詳細を知らなくとも、数多くの関係を結び、トラブルを抱えがちだった彼女を知っているからこそ、あの光景はそそのツケを払った瞬間だと想像はつく。
 あざみに好意を寄せる男性は幾らでもいる。なら、ルナとまではいかなくとも、そういう危険に彼女を誘うことはできるのではないか。
「アイツらと話ができたら、なんとなく掴めそうなんだけどな……」
 森はルナを回収した日、動揺し、交流のあった自分ですら敵視していた。今となっては気軽に会える相手ではなくなってしまったのかもしれない。それに、ルナはもう十分にツケを払った。森も、少なくとも自分が放任してきた結果を目の当たりにして傷ついていた。
 森とルナはそっとしておこう。
 ならば、どうすべきか。
 あざみの資料はどこへ行ったのだろう。あの情報があればもっと綿密に計画が練られるのに……。
 ベランダに出て外の空気を吸いながら、潮は煮詰まりすぎた頭を休憩させる。珈琲でも淹れようか。欄干に寄りかかりながらぼんやりと考える。
 不思議と、怒りは湧かなくなっていた。彼女に対して批判や拒絶の気持ちはあるが、それだけなのだ。もっと、復讐しか考えられなくなると思っていたのに。
「これまでにないくらい、本気だったんだろうな、俺」
 あざみの枝毛すら受け入れる気持ちを持てた。誰かの為に自分の想いを捻じ曲げる努力をしたのは、彼女が初めてだった。
 スマートフォンを取り出すと、潮は瀬賀に電話をかける。三、四回目のコールで瀬賀は電話に出てくれた。
「瀬賀か、今時間いいか?」
 山間に消えていく夕日を眺めながら、潮は諦めたように笑う。少し、風も冷たくなってきた。
「週末にさ、飯でもどうだ? 愛美も一緒でいいから。ちょっと気晴らししたい気分なんだ」
 電話口の瀬賀は動揺していたが、快く話を受けてくれた。適当に雑談を絡めた後通話を切ると、潮はため息を一つ着いた後、大きく背伸びをしてから欄干に両手をつき、思い切り吠えた。
 どこまでもどこまでも遠くへ、この想いが遥か彼方まで消えてくれたらいいのに。

   ●

 潮の声が聞こえた気がした。
 愛美は顔を上げて空を見上げる。一筋立ち上る煙の先には、沈みかけた太陽が見える。
「こんなところで潮君の声が聞けるなんて……素敵」
 好き合った仲なら当たり前だ。どこにいても想いは一つなのだから。
 パチ、パチと弾ける音と共に彼女の足元の焚き火は燃え上がる。愛美の想いに答えるように、赤く、強い光を帯びて空に灰と煙を落としていく。
 沢山の記念のかたちが黒く焦げて無くなっていく。目線の合っていない写真、乾いたティッシュ、半券、ストロー、切符。指紋。生理用品。ビニールに書かれた潮の字だけ残して、中身は全て容赦なく焚べられていく。
 熱にうなされていた潮もカッコ良かった。愛美は瞼の裏に焼き付けた光景を思い出してニヤニヤと笑う。うふふ、と漏れ出た自分の声にあわてて口を塞ぐ。
 介抱している途中で、潮は愛美にこう言った。
「お前を離したくない」
 これ以上ない幸福を感じた言葉だった。心の奥底を掴まれたような充足感と、子宮が悶えた。
 この感情をどう表に出せばいいか分からなくて、思わず彼の傍でしてしまった。それがまた、愛美の心を震わせた。
「潮君、どんなドレスが好みかな」
 健やかなるときも、病める時も。
「入籍は、潮君の誕生日がいいな」
 喜びのときも、 悲しみのときも。
「子供は何人がいいかな。でも子供に潮君が取られちゃうのはちょっとやだなあ」
 富めるときも、貧しいときも。
 パチ、パチ。
 拍手のように火花が飛ぶ。あざみの写真がくしゃくしゃに丸まり、焼けていくのを愛美は火かき棒で念入りに潰す。飛んできた灰が目に入って染みる。
「死ぬ時は一緒がいいな」
 これを愛し。
「潮君を、殺さなくて済んでよかった」
 これを敬い。
「誰かのものにならなくてよかった」
 これを慰め。
「私、こんなに幸せでいいのかな」
 これを助け。
「潮君……大好き」
 頬を伝う涙があざみの燃え滓に落ちた。その涙は写真と共に燃えていく。愛美は焚べられた記念のかけらたちを見下ろしながらしゃがみ込み、膝を抱える。涙が止まらない。どうしてだろう、こんなに幸せなのに。

『いいか、愛美。こういう手に入れた記念品は、速やかに保管しろ! 丸出しとか何を考えてるんだ。基本がなってない! 基本がな!』
『き……え……?』
『特にこういう紙製品はすぐに乾かせ! また濡らして使うなんて言語道断だ!』
『とりあえず乾燥はいいだろう、こういうチャックの付いたビニール袋を持って来い』
『い、今は持っていません……』
『仕方がないから今日は俺の一式を貸してやる。いいか、こういうのは速やかに行うことが大事だ。まず記念品を入れたら空気をしっかりと抜け』
『ち、近いですぅ……』
『シールには、記念品を手に入れた日付と場所を書け。そして綺麗に貼れ! 丁寧に残すことが重要だ、これを見た時に、より鮮明に当時の光景を思い出せるように、だ。汚れや、劣化、汚い保管はノイズになる。絶対に保管作業を怠るな!』
『出来たぁ!』
『これで完成だ。いいか、チャック付のビニール袋、ラベルシール、ペンは常に鞄に入れておけ。いつ、どこでどんなものを入手するか分からない。どんな時でも即座に対応できるようにしておくのが、愛だ』
『はーい、せんせい!』
『よし、よく頑張ったな』

 あの時の感触を、愛美は今もまだ覚えている。これまでで一番気持ちが良くて、幸せな感触だった。
 記念品は、愛のかたち。
 愛は今、愛美の目の前で燃えている。
「ねえ、潮君……せんせいにとって、私は愛ですか?」
 愛美の言葉に答えるように、パチ、と火が飛んだ。

--その命ある限り、 真心を尽くすことを誓いますか。

 潮の記念品の中に、愛美はいなかった。

sage