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 暗夜を照らす街灯が、彼女が手にする刃と肌を、真っ白く照らしていた。
 潮は、その病的なまでの白い姿に、どこか薄気味悪さを感じていた。
 くす、くす。
 彼女の黒髪が揺れる。頭頂部から毛先まで、まるで、命が宿っているように艶めかしいそれに、一瞬見惚れたが、生憎出会いがあまりにも悪すぎた。
 潮は、切っ先が右へ左へ揺れ動くのを目で追いかけながら、この状況の打開策を考える。
「初めてだから、緊張しちゃう。でも大丈夫。痛くしないからね?」
 考えろ、考えろ。潮は視線を彼女に向けたまま、思考を巡らせる。
 刃物を叩き落として、説得するのはどうだ。そんなものは捨てるんだ。脅すなんて良くない。愛が欲しいなら、言葉で語り合うんだ。大丈夫、通じ合える。甘ったるい言葉で改心を狙ってみるか。いや、冗談にしても面白くない案だ。
 彼女は恐らく、純粋無垢だ。
 説得という手段は期待できない。現に彼女は躊躇うことなく一途に潮に迫ってきている。刃物なんて持たずに愛を語り合うことで済むと思っているのならば、彼女は凶器を持ち出すわけがない。
 ああ、クソ、どうするべきだ。潮はしゃがみ込み、汗ばむ顔を手で拭いながら考える。誰かが通れば逃げられるかもしれない。だが、ここを通る者はいない。敢えてそういう道を選んできたことが、まさか裏目に出るなんて思っていなかった。
「ねえ、決まった?」
 その声に、潮は顔を上げる。彼女の酷い隈が、笑みで歪む。本心をひた隠しにした、溢れかけた想いをとどめるような、ギリギリの笑み。触れ方を間違えれば、すぐにでも溢れてしまう。
「貴方はね、私の王子様なの。一目惚れなんて生まれて初めて! その日のうちにまた巡り会えるなんて、絶対に運命の人よ!」
 彼女が凶器を胸に抱く。一瞬、白刃が潮の目を眩ました。
 眩しさに思わず目を細めてしまった。だが同時に、今の彼女の発言がとても引っかかった。
 今のは、聞き間違いだろうか。
 彼女は今、何か不可解なことを口にしてはいなかっただろうか。
「……は?」
「え?」
「いや、一目惚れ?」
 潮の問いかけに、彼女はキョトンとして、それから子供みたいに小首を傾げると、澄んだ瞳をこちらに向けて、こく、と頷いた。
「うん、一目惚れ。オープンカフェにいたでしょう? あの時にね……」
 恥じらい、頬を朱に染めて彼女は答えた。だが、その言葉を耳にした潮は、ただただ呆れるしかなかった。開いた口が塞がらなかった。
 彼女は、潮がどんな人間か知りもしないのに、結婚か死を迫っていたのだ。
 一目惚れ。相手のことを全く、これっぽっちも知らない状態で、潮に強い愛を抱いている。その刃の切っ先を躊躇いもなく向けている。外見しか知らない、ブランクな状態の男と、一緒に死んでも構わないと考えている。
 馬鹿か、と思った。
 彼女は愛を履き違えている。愛は、そんなもので語れるものではない。そんな、何も知らないままで惚れるなんて言葉を使うのは間違っている。
 愛という単語に恋しているようなものでしかない。
 彼女の愛は、全くもって愛なんかではない。
「……分かってない、全然分かってないなお前」
 潮は拳を強く握りしめ、立ち上がった。彼女の握る凶器に対する警戒心は、意識の外へ消えた。今は、生きるか死ぬか、逃げられるかどうかなんてことを考えている場合ではない。

【この目の前の恥知らずに、愛とは何かを、伝えなくてはならない】

「いいか、よく聞いておけ。お前のそれは愛じゃない。お前は、愛を全く理解していない!」
 突然様子の変わった潮に、彼女は戸惑う。彼の強い意志に気圧されるように、彼女は後退していく。一歩、また一歩、距離を詰めてくる彼から同じ間合いを取るように、ゆっくりと下がっていく。
「いいか、愛っていうのはな! 理解することなんだよ。相手を調べ、全てを把握してあげること。親や友人、本人より深く、広く相手のことを洗い尽くし、知り尽くす。名前住所生年月日SNSのアカウント、バイト先なんてものは基本中の基本! ありとあらゆる情報を手に入れるためならゴミをも漁る! 全てを綺麗に保管する! そうして、相手の存在の全てを共有するんだ。きっと彼女もそれを望んでいるに違いない!」
 背中に、堅い感触がした。
 振り向くと、コンクリート塀が、彼女の行く手を阻んでいた。これ以上退がれない。胸に抱いた刃物を向けようとした時、顔の横を彼の腕が抜けていった。
 潮は、彼女の背に立ちはだかる壁面に思い切り手をつくと、一気に顔を寄せた。
「ひ、近……」
「彼女が、いつも書類や下着を細かく切り刻まずに捨てるのは何故だと思う? それはな、彼女も自分を知ってほしいと思っているからなんだよ! そこに残された彼女の筆跡や、生活の残り香、体調の良し悪し、その日の気分を知ってもらいたい。それらから全てを愛してくれる男を彼女は探しているんだよ。何もかもを受け入れてくれる人を! 互いを知り尽くしてようやく繋がるんだ! それを、それを……お前は何も分かってない! いっそ俺直々に愛の何たるかを叩き込んでやりたいくらいだよ!」
 
 一呼吸して、静寂が隙間を埋めるように流れ込んでいく。
 煙草一本分もない距離、目と鼻の先にいる彼女は、顔を真っ赤にし、長く美しい髪の奥の、隈の酷い両目を潤ませながら、潮のことをじっと見つめていた。ぷっくりと紅の差した唇が震えている。全てを語り終えた潮の、熱い乱れた吐息が顔にかかる度、肩がぴくりと反応する。
「……え、じゃ、じゃあ……よろしく、お願いします……せんせい」
 全てを吐き出し終えて、冷静になっていく思考の中、ようやく潮は気がついた。
 自分がどれだけ、取り返しのつかない言葉を、口にしてしまったのかということに……。
 
   ●

 講義の終わりを告げるチャイムの音を聞いて、潮は跳ね起きた。正面に見える教壇は既にもぬけの殻で、黒板も綺麗に消されている。講義を終えた生徒たちの出て行く姿が見える。
「森くんさあ、今日は彼女と一緒じゃないの?」
 背後から聞き覚えのある声がして振り返ると、瀬賀と森の姿が見えた。背が低くて小柄な瀬賀と、ひょろりとした森が並ぶと、なんだかバランスが悪くて、不格好だ。
「ルナっち? なんかダルいからって男の子たちと遊びに行ったみたい」
「え、いいんだ?」
 あっけらかんとしている森を見て、瀬賀は左手で右肘を触り、困ったように首を傾げる。
 森は、笑っているのか泣いているのか分からない、微妙な表情を瀬賀に向け、それから彼の奥に、潮が座っていることに気がつく。
「松木、悪いな。昨日の夜、先に帰ってさ」
 潮が申し訳なさそうな顔をすると、森は分厚い眼鏡の奥の目を細め、首を振った。
「いーよいーよ、ルナっちはぷりぷり怒ってたけどネ」
 そうか、と潮は微笑んでおいた。正直、ルナと森を置いて出たことに特に申し訳無さを感じてはいない。潮は頬杖をつきながら、まだ眠たい目をぐっと親指と人差指で押す。
「っていうかさ、目の隈、いつも以上に酷いよ?」
 瀬賀は隣に座ると、潮の目の下を指差した。ショルダーバッグを机に置いて、少し乱れた前髪を指で梳かす。
「昨日、何かあったの?」
「ああ、いや、三時間くらい追いかけ……いや、少し走り込みをしちゃってさ」
 誤魔化すには無理があると、誰よりも潮自身が分かっていたが、眠気で靄の掛かった思考でどうにか捻り出せた言葉がそれしかなく、半ば自棄だった。流石に昨日の出来事を話すのは憚られる。
 昨晩、彼女からなんとか逃げ出せたのは良かったが、結局、家に向かうことはできなかった。全く、最悪な日だった。まあ、そのきっかけを作った人物が一人、瀬賀を挟んだ先に座っているわけだが。
 潮はちらりと彼を横目に見て、それから大きく欠伸をする。
「あ、マッキー見つけたぁ」
 彼を呼ぶ声に、森は顔を上げた。柔和な笑みを浮かべた茶髪のふくよかな女性と、背の高いニットセータのセミロングが、二人並んで森に向けて手を振っているのが見えた。
「はろはろー、ルナは一緒じゃないのぉ?」
「うん、どうしたの?」
「え、そうなの? めずらしぃ」
 森の返答に、茶髪は口元に手をわざとらしく当ててみせる。彼女の口の端が、ほんの少しだけ歪むのを、森はちゃんと見ていた。
 奥のセミロングは両手を合わせて、丁度いいじゃんと茶髪に囁く。恐らく、ここまでが前口上だろう。
 森は穏やかな表情を浮かべたまま、何も知らない風に首を傾げてみせる。
「なになに、何の話なの? 教えてよぉ」
 茶髪は太い指を大きな胸の前で絡ませ、もったいぶっている。ネイルに行ったばかりなのだろう。光沢のあるピンク色が全て、森に向いている。
 瀬賀は、森の鈍い反応を見ながら、目を細めていた。
「えっとぉ、わたしたちと三人だけで遊ばない? 夜に……ね?」
「夜かあ、ルナっちも来られるかなあ」
 やだぁ、と茶髪は笑った。「ルナにはナイショ!」と人差し指を口元に当てると、愛らしく首を傾げた。
 森は頭を掻いて、困った表情を浮かべた。
「ええ、そうなの? うーん……それじゃあ、どこに行って遊ぼうかあ」
 眼鏡の奥の、普段は細い目がほんの少しだけ、鋭くなるのを、瀬賀は感じた。
 ああ、彼は分かってやっている。顎に指を当てて、彼は朗らかな三人のやり取りを一人冷めた目で眺めていた。

   ●

「森くんってさ、モテるよね。マッキーってみんな呼んでるし」
 講義終わりに立ち寄ったカフェで、瀬賀がぽつりと呟くように言った。森はキョトンとした顔を浮かべていたが、次には柔和な笑みに戻り、首を横に振る。
「みんなマッキーって呼んでくれるねぇ。でも、モテてはいないよぉ」
「ルナちゃんがいない時にだけ来るよね、女の子たち。ルナちゃんにチクっちゃおうかなあ」
 悪戯に言ってみたつもりだったが、森は変わらずだった。えー、困るなあ、と言ってはいるが、それだけ。瀬賀はつまらないなあ、と潮に目を向ける。
「潮くん、さっきから何してるの?」
 スマートフォンに目を落とし、じっと見つめる彼の姿に、瀬賀は小首を傾げる。彼は瀬賀の言葉に顔を上げると、スマートフォンの画面を隠すように下にして置いた。
「日課だよ、日課。メールチェックしてたんだ。で、何だって?」
 瀬賀はちゃんと聞いてよ、と溜息をつくと、再び話題を森の話に戻す。
「森くんがね、ルナちゃんに隠れて、他の女の子たちと遊びまくってるっていう話だよ」
「いやいやいやいやいや、そんな、人聞きが悪いよ瀬賀っちぃ」
「そのままのことを言ってるだけだよ? さっきの子、明らかに森くん狙いだったし。すっごく綺麗なネイル付けて、服装も講義受けるにしては少し露出度高くなかった?」
「そうだったか?」
「潮くんは寝てたから見てないだけだよ。すごかったよ、髪なんてしっかり巻いてたし。あのセミロングの子のニット・セーター。あれ多分卸したてだよ」
 よく見てるな、と潮は関心する。前から観察力のある男だと思っていたが、特に今回に関しては食いつきが良い。よほど森の話に興味があるのだろう。
「でね、考えたんだ」瀬賀は腕組みをして、右手を顎に当てる。その格好はさながら探偵のようだ。「もしかして森くん、おしりのとっても軽いルナちゃんに敵意を持っていて、彼女へのあてつけとして、誘ってくる子たちを遊んでる、とかない?」
「ええ、そんなぁ、そこまで器用じゃないよぉ」
 そう言うが、瀬賀は、柔和な表情の奥にある森の細い目が笑っていないことに気がついていた。当たりとまではいかないが、掠ってはいるのだろう。
「たとえね、ルナっちに敵が多くて嫌われていたとしても、俺だけはルナっちの味方だから。見限ったりなんて、絶対にないよ」
 そう言って朗らかに笑う森を見て、潮は呆れ顔で「……愛だな」と呟いた。そうかな、と瀬賀は困っていた。これも一つの愛の形なのだろうと潮は独りごちる。
 で、と瀬賀は潮に目を向けると、テーブルの上に置かれたスマートフォンを掠め取る。おい、と潮の慌てた声が聞こえたが、瀬賀は構わない。
「さっきからスマホいじりすぎな潮くんが悪い! さあ、何をそんなに一生懸命見……て……」

『これからバイトですか? あたしもお花屋さんで働いてみたいなあ~ヽ(*´∀`*)ノ今日から入る新しいバイトの人って、楽しい人だといいですね~』

「返しなよ瀬賀っち! 勝手に人のケータイ触っちゃダメでしょ!」
 森は、画面を見て呆然とする瀬賀から強引にスマートフォンを奪い取ると、潮に手渡す。額に手を当てて、潮は深く溜息をつく。瀬賀の人懐っこさは嫌いではないが、時々面倒くささが出るのが玉に瑕だ。
「潮くんって……ネカマ?」
「うるさい」
「おっと、待ち合わせの時間だからもう行くね」
「お、もうそんな時間?」立ち上がる森を見て、潮は随分を時間が経っていることに気がついた。そろそろ、彼女のシフトだ。あの後の確認が全くできていないから、見に行かなくては。
「俺も行くわ。寄りたいところあるから」
 手を振る森を見送り、潮も席を立つ。トレーを返却口に置き、瀬賀に別れを告げようと振り返る。
 瀬賀は、こちらを見てニヤニヤと笑みを浮かべながら立ち上がると、潮の手を両手でぎゅっと握り締めた。
「何だ? どうした、瀬賀?」
 まさか、さっきの画面に関する言及か。含みのある表情の瀬賀を見て、潮はごくり、と生唾を呑み込む。一番、面倒くさい相手に見られてしまった。
「あのさあ、う~し~お~くん?」
「は、は~あ~い?」
 なんだ、何を言うつもりだ。瀬賀の嬉しそうな笑みを見て、潮は動揺する。滅多にないくらい胸の動悸が激しくなる。悪い予感ほどよく当たる。もしかすると、まだ自分にとって最悪な日は、終わっていないのかもしれない。
「俺も一緒に行く! 断ったらネカマやってるってことバラしちゃうからね!」
 やっぱり、と潮は項垂れる。
 最悪な日は、まだ終わっていない。

   ●

 校舎を出て、並木通りを瀬賀と歩きながら、目的の場所へと向かう。
「で、用事ってどこ?」
「いや、えっと……」
 彼女のバイトのシフト時間に合わせて様子を見に行きたかったのに、何故こんなことになってしまったのか。花屋の彼女を見たいなんて言えるわけはないし、かといって瀬賀を納得させられるような理由付けも思い浮かばない。
「あ、そういえばこの近くで、俺のイトコがバイトを初めたんだ!」
「へぇ」
 指差す瀬賀の先を、生返事と共に潮は見た。
 彼の指差す先には、あのフラワーショップアヤの看板がある。
「まさか、あの花屋……じゃないよな?」
「え、そうだよ。ほら、出てきた」
 瀬賀の声に慌てて顔を向けると、看板を抱えて店内から一人の少女が現れる。
 タートルネックのセーターに、エプロン姿。色艶の良い黒髪。今日は左右でまとめ上げるように丸く纏められ、余りが大きく膨らんだ胸にかかっているのが見える。
『艶やかで美しい髪』
『白い肌に不釣り合いな目の隈』
 髪型も服装も違うが、潮は一瞬で彼女が『誰』なのかを理解した。同時に、昨晩の逃走劇を思い出して身体がぶるりと震えた。
「あの子が、俺のイトコ」
「え、あ……え?」滅多に出したことのない、変な声が出た。
「お花屋さんで働き始めたって聞いてたんだよね。ちょっと変わってる子だけど、問題なさそうで良かったよ」
 ちょっと挨拶していこうよ。そう言って瀬賀に引かれるまま潮はフラワーショップアヤへと向かっていく。なんだか、頭痛がしてきた。なんだってこんなことに……。
「おはようございまーす」
 頭痛の合間を縫うように聞こえてきたその声に、潮は顔を上げた。
「あれ、昨日から入った新しい人?」
「はい!」
 一体、何だ、これは。
 潮は、目の前の状況を全く理解できずにいた。
「はじめまして、糸杉あざみです!」
 潮が追っている女性と。
「椿愛美です。よろしくお願いします!」
 潮を追っている女性が、面と向かって言葉を交している。
 ああ、夢なら覚めてくれ。
 そう願うが、響くような頭痛が、無常にもここが現実であることを告げる。
 最悪な日だ。本当に、最悪な日だ。
 瀬賀に手を引かれながら、潮は大きく、大きく溜息をついた。

sage