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 愛美には、とても大好きな人がいました。
 ただしそれは、愛や恋というかたちではありませんでした。傍から見れば、日常の一コマおような微笑ましいものに見えたでしょう。誰もそれを異質だとは感じませんでしたし、彼女自身にも自覚はまったくありませんでした。
【もしもし、私の行くべき道はどこですか】
【おやおや、お姫様、あなたはまたわたくしに尋ねるのですか】
【もしもし、私の在るべき姿はどんなものですか】
【本当にあなたは困った人だ。仕方が無いので教えてあげましょう】
【もしもし、私の愛はどこですか】
【何も悩まなくていいですよ。姫様の道は、わたくしめが標してあげましょう】
 愛美の周りには、なんでもありました。
 何故なら美しくなる方法も、歩むべき道も、大好きな人に標してもらうことができたのですから。
 尋ねて、導かれて。ストレスもなく、不自由さもなく、ただ、慈しんでもらうだけの幸せな生活。
 それが、彼女の人生でした。ある日までは……。
【もしもし、私の行くべき道は……】
【あらあら、ごめんなさいね】
 あの日、ふすまの隙間からちらりと覗き見たその光景を、愛美はもう忘れています。いいえ、忘れる努力をしました。蜜壺に突き落とすみたいに愛してくれたあの人が、完璧でないということを知った時、愛美の満たされていた心に小さなヒビが入ってしまいました。
【十二時の魔法が解けたから】
【あなたはまた灰かぶり】
 愛されてなどいなかった。
 それでも愛されたいと、愛美は願いました。
 愛美は今でも、無償の愛を、何物にも代えがたい愛を、生死すら超えるほどの情熱的な愛を求めています。心の奥底にまで届く指先を、求めているのです。
【もしもし、私の行くべき道は……】
 標してくれる人を、探し続けているのです。

   ●

 香しい花たちを束ねてラッピングで包み、リボンをかけて渡す。
 愛美は包むだけで何もしていないけれど、彼らはとても喜んでくれました。みんなが思い思いの気持ちを込めて花を選ぶ姿を見ていると、愛美はとても良いな、と思うのです。
 そこには、純粋な気持ちしか存在しないのですから。
 たとえ誰かに対する下心があったとしても、振り向いてもらうための努力はしているのですから。
「愛美ちゃん、ありがとうね。ヘルプ入ってくれて」
「はい、今日は何も予定ありませんでしたから」
 店長はにっこり笑いました。愛美は彼の笑う顔が好きで、店長が喜んでくれると自分もとても嬉しくなりました。潮とは違う意味で、愛美は店長のことが好きでした。
「今日はお昼を奢ってあげよう。といっても店を無人にはできないから一緒には行けないんだけどね。これで好きなものでも食べておいで」
「そんな、いいんですか?」
「まさかパートさんが体調不良になるとはね。あざみちゃんも用事あるし…。まだ新人の愛美ちゃんに入ってもらうことになるとは思わなかったから。頑張ってくれた分だと思って」
 店長から渡されたお金をまじまじと見ながら、愛美は口元に笑みを浮かべました。褒めてもらうと、胸の奥がむずむずしてとても心地がいいのです。
 潮に頭を撫でられ、褒められた時は、もっと良い気持ちでした。胸がどきどきして、下腹部が疼いて、自分を宥めるのが大変なくらい、とても。
「じゃあ、いってきます」
「ゆっくり食べておいで。今日はそこまで混まないと思うから」
 愛美はエプロンをカウンターの傍らに掛けて外に出ました。
 平日の昼下がりは特に人が少なくて、車もあまり通りません。おまけに今日は雲ひとつない晴天です。心地よい日差しに照らされていると、愛美は思わず背伸びがしたくなりました。こんな気持ちのいい日は久しぶりかもしれません。
 ただ、愛美には一つ心残りがありました。
 糸杉あざみに関する情報が、まだ大して集まっていないのです。

【現在の住居はオートロックタイプのマンションで、三階奥から三番目【303】号室。1Kで9畳と広め。収納性の高いウォークインクローゼットと、二口コンロに風呂・トイレ別。築五年で近代的な造りになっており、防音も徹底。
住居者のレビュー:上階の床を踏む音以外聞こえないくらい静かで、とても住みやすい】

【好条件なこともあって家賃は高めだが、糸杉夫妻がほぼ全てを支払っており、アルバイト代で残りの光熱費と食費を支払っている模様。残ったお金は全て自由に使えるので、大体は洋服と映画に使われている。】

 生活費のほとんどをバイト代で賄っている愛美と比べたら、とても良い暮らしぶりです。
 男性関係も豊富なようですが、不思議とどれも彼女から別れを切り出していました。原因としては、浮気が一件。他は趣味趣向にズレがあったようです。そこだけ抜き出せば、大学生らしい一過性の恋愛にも見えるでしょう。
 取っている講義にもさしたる法則性はなく、必要な単位を必要なだけ消化しているだけ。交友関係は広く、女性に対する評価も一定水準以上。ただこれは学内でルナという印象的な女性の影響もあるのでしょう。あざみを悪く言う人はほとんどいませんでした。
「あとは、何を知ったらいいんだろう」
 この辺りに関して、彼はほとんどを頭に入れているに違いありません。愛美の中で潮は完璧ですから、もっと深い、誰も知らないあざみの情報を知って関心させなくてはいけません。
 あの人は言っていたのですから。あざみを知れば、潮との距離も縮まると。彼女を追い求めた先に、彼を振り向かせるきっかけがあると。
 だから、もっと真に迫ったリアルな情報を手に入れないと。愛美はよし、と両手を握ります。
 脇道に入った先に洋食屋を見つけて、愛美はそこで食事を取ることに決めました。ショーケースに飾られたメニューのサンプルを眺めていると、ふんわり暖かな匂いがしてきます。潮くんは、何が好きかな。もし美味しかったら、一緒にここに来てもらおう。
 ドアは古くて、開けた時にぎいぎいと蝶番が鳴りました。一緒に、扉の上に取り付けられたドアベルが小気味良い音で鳴ります。
 その音に顔を上げた男性がいました。
「あ」
 目があった時、思わず愛美は声を出してしまいました。
 愛美の視線の先にいる男性は、怪訝な顔を浮かべて彼女を見ています。彼の方は愛美を知りません。彼を「あざみの元カレ」と知っているのは、愛美だけなのです。不思議に思われるのは当然です。
「あの、どこかで会いましたっけ?」
「いえ、あの、前に少しだけ見かけたことがあったので」
「え、そうだっけ……相席で良かったら、ここ使う?」
 恥ずかしそうにそう答える愛美に興味を持ったのか、彼は愉快そうに空いている席に彼女を招きました。
 どうしよう、少し迷いましたが、愛美はよし、と気持ちを決めると彼の向かいに座りました。
「どこでだろう、ごめんね覚えてなくてさ。君みたいな子に会ったら普通忘れないんだけどなあ」
「前に、糸杉さんと、いましたよね」
 恐る恐るあざみの名前を口にすると、彼は困った表情を浮かべました。それから額に手を当てると、あー彼女ね、とまるでたった今思い出したとでもいうような口ぶりで呟きました。もう彼女との関係が切れていることをアピールするようなわざとらしい演出に、愛美は薄い寝不足の目を丸くして、首を傾げます。
「あの子は元カノ。もう別れたから全然なんでもないよ」
「そうなんですか?」
「そう。あの子結構拘束する子でさ、困ったよ。何するにもどこ行くにも連絡だし、おまけにしょっちゅう電話掛かってくるし。ほんと誤魔化すのに……って違う。変な誤解される度に苦労したよ」
「いつ頃、別れたんですか?」
 なんでそんなこと知りたいのか。彼はそう言いたそうでしたが、結局聞き返されることはなく、簡単に答えてくれました。そしてそれが、愛美が潮と出会った日であることに気がついた時、彼女の胸に不安が過ぎりました。場所はフラワーショップアヤに隣接した喫茶店。
 あの日、あざみはこの男と別れていたのです。
 そして、潮はそんな彼女のすぐそばにいました。
 私は、その彼を見て運命の人だと思いました。
 こんな偶然が、あるのかな。あざみは、もしかして、元々彼を狙っていたのかもしれない。
「最近じゃ小波だっけか。あのちょっと寝不足そうな奴。あいつと一緒にいるところよく見るから、多分付き合ってるんじゃないのアレ。でも、俺からしたらやめといたほうが良いって思うんだけどなー」
「どうしてですか?」
「ほら、ちょっと前にさ、ルナちゃんって子が失踪したの覚えてる? 今学校来なくなっちゃったじゃん? アレ、糸杉が関わってるんじゃないかって思うんだよね」
「そうなんですか」
「綺麗な花には棘があるとかっていうじゃん。ああいうの怒らせると、マジ怖いよ」
「どうしてですか?」
「いや、俺じゃないけど、なんか彼女の恋人をルナちゃんトッチャッタらしいんだよね。だからその報復で、彼女が裏で根回ししたんじゃないかってさ。まあ、噂話程度だけど」
 彼が怖い怖い、と呟く内容が、愛美にはうまく理解できませんでした。どうしてこの人はそんなに怖がっているのだろう。不思議な気持ちになりました。
「そんなの、当たり前じゃないですか」
「え?」
「大切な人に手を出す人は死ねばいい」
「いや、怖いこと言うなキミ」
 ヘラヘラ笑う彼を愛美はじっと見つめます。しばらく笑っていた彼でしたが、やがて彼女の目を見て笑うのをやめると、目を伏せ、小さく縮こまってしまいました。愛美は構わず、彼のことを見つめ続けます。
 そんなの、当たり前だ。
 運命の人で、一生を添い遂げる人を見つけられたのに、それを目の前で奪われたら、生きる理由は無くなってしまう。振り向いてもらえなかった時も同じだ。
 だから、その時は死ぬしか無い。一緒に。同じ場所で。
 もし、できるなら、重なり合って死にたいな。彼の血と自分の血が混ざり合う光景を思い浮かべると、愛美はとても満たされた気持ちになるのです。
 きっと幸福はこういうことを言うのだと。
 またドアベルが鳴りました。今度入ってきたのは、愛美とは真逆の、派手な髪色をした背の高い女性です。彼女は目を細めて男と愛美をそれぞれ見比べると、無言でテーブルまでやってきて、これ誰、と彼に尋ねます。
 彼は青い顔のまま、首を横に振りました。
「い、いや知らない。どっかで会ってことあるって言ってここ座ってきたんだ」
「とても、参考になりました」
 愛美は立ち上り、深く丁寧なお辞儀をして、怪訝な顔で睨む女性の横をすれ違うようにして、店を出ました。ゆっくりと閉じていく扉を見送った後、で、誰だったの、と女性は彼に尋ねました。彼の顔は、青いままです。
「多分、ヤバい奴」
 男はいつまでもその扉を見つめていました。
 深入りしなくて良かった。彼は心からそう思いました。

   ●

 アヤに戻ると、店長は愛美におかえりとにっこりと笑ってくれました。愛美も戻りましたと笑い、エプロンをかけ直します。途中で、隅の検品ボードに糸杉あざみの名前を見つけたので、愛美はそれを手に取りました。
「愛美ちゃんもそろそろ発注とか、色々教えないとね」
 あざみの仕入れた花たちを眺めながら、愛美はボードをきゅっと強く抱きながら、店長を見て、言いました。
「店長、売り物にならなくなった花ってどうするんですか?」
「そうだね。ヘタってきたり、枯れ始めたら……廃棄するしかないね。ブーケにしたり、価格を下げて売ったりはするけど、こればっかりはどうしようもない」
「そうですか」
 愛美は店頭に出された値札の取り替えられた花たちを眺めてみました。その中に、アザミの花は一つもありません。売れてしまったのでしょうか。それとも、仕入れていないのでしょうか。
「あ」
 売り物の花を見て回っている時、愛美はその植物を見つけて、しゃがみ込みました。
 広がりのある葉の群れの中で、一輪の花が咲いていますが、今にも枯れそうに萎れています。細長い楕円形の花弁は項垂れて、元気がありません。
「そのアイビーも、そろそろ廃棄だね」
「廃棄、しちゃうんですね」
 萎れたその花を見つめながら、気づけば愛美はエプロンの裾をギュッと握り締めていました。
 選ばれなければ、捨てられてしまう。
 あの人も言っていました。運命の人を見つけたら、死んでも手放すなと、結果死なせてしまったとしても、最期までその手の中にあれば、それは愛美のものになると。
 櫛を通しながら、優しい声でそう言ってくれたのです。
「この花、貰っていってもいいですか」
「え、いいけど。別にもっと綺麗なものでもいいのに」
「これがいいです」
 愛美の言葉に店長はしばらく申し訳なさそうに頭を掻いていましたが、やがて傍にやってくると、アイビーの鉢を手にとって笑いました。
「じゃあせめて、ラッピングしてあげよう。綺麗にね」
 その言葉に愛美はパッと顔を輝かせます。やっぱり私は店長が好きだと、愛美はとても嬉しくなりました。
 

 シフト通りの時間に店を出て、愛美は歩きます。結局今日は、潮と会えませんでした。満たされない欲求をどうやって慰めよう。愛美はとても乾いてしまっていました。
 偶然でもいいから、彼がここを通りがかってくれたら良いのに。
 そう思うのですが、現実はそううまくいきません。
 愛美の手の中で、アイビーはぐったりと萎れていて、元気がありません。丁寧にラッピングしてもらったそれを抱き抱えたまま、愛美は夜道を一人歩きます。
 しばらく歩くと、あの場所が見えてきました。そうです、潮が愛美に告白をしてくれた場所です。
 愛について教えてやると、彼は言ってくれました。近づいた顔が、吐息が、力強い眼の中に映った自分の姿が、愛美の運命を標していました。残りの一生をこの人に捧げることになる。そう、確信したのです。
 フラワーショップアヤにはアザミはありません。きっと彼女は、とても売るのが上手いのでしょう。その可愛らしい外見で誘惑して、触れた人を傷つけて回っているのでしょう。
 潮くんは、騙されている。
 糸杉あざみを追った先で見つけた思いは、それでした。
 愛美は携帯を出して、あの人の番号を選択します。ワンコール、ツーコール、スリーコール……。四つめのコールであの人は出ました。
【どうしたの、愛美】
 あの人は優しい声で愛美に尋ねます。包み込まれそうなくらい優しい声に、愛美はホッと安堵しました。
「大変なの、潮くんが危ないの。このままだと、あざみちゃんに壊されちゃう」
 吐息のような微かな笑いのあと、心配する必要はないよ、とあの人は言いました。
【今君は気が動転しているだけだから、とりあえずうちにおいで】
 あの人の穏やかな声に、愛美は頷きます。
 そして尋ねました。
「これからどうしたらいいの、瀬賀ちゃん」

 無償の愛を。
 何物にも代えがたい愛を。
 生死すら超えるほどの情熱的な愛を。
 心の奥底にまで届く指先を。
 愛美はずっと、求めています。



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