密やかに咲く花

※下ネタ・軽度のエロ表現が含まれます








 
 排尿には快楽が伴う。島津絢子が理性として知り得たのは、九つのときだ。
 絢子は父方の祖父母に預けられることが多かった。地元の田舎では、島津といえば名士の家系である。必然、住まいも広壮。木造の日本家屋は、幼い絢子の目から見ても、周りの家々より大きかった。中庭には立派な松があり、放たれた和室から眺めることができる。気候の良い日には、年寄りを集めて茶会を開くこともあった。
 とにかく、祖父母の家は絢子にとっても誇りであったのだ。……が、一つだけ欠点があった。便器がすべて和式だったのである。
 奥ゆかしく平身低頭の形状フォルムは、建物全体と調和する。昔気質の祖父がこだわった便器。しかしながら、孫にはすこぶる不評であった。
 尻を落とし、脚を開く姿勢が肉体的に苦しいことは言うまでもない。加えて、己の恥部を開け晒すような屈辱感。いやが応にも、排泄という動物的な生理現象を意識させられる。
 だからこそであろう。絢子が悦楽に目覚めたのも、この便所でのことだった。
 乳酸の溜まった両腿の間を往く、生温かい液体。底が抜け、体の力が落ちていく感覚。震ってしまうだけではない。絢子は涎を垂らして悦んだ。
 小便の回数を減らし始めたのもこの頃である。被虐の指向が現れたのは、箱入りで育てられた反動か。溜め込んだ汚水に、尿道を押し開かれるのは至福だった。泌尿器科に世話になった回数も、一度や二度ではない。
 自慰を覚えたのは中学一年のとき。行為の習得は人生の転機だったと言っていい。
 元来、物覚えの良い絢子である。回を増すごとに報酬が増し、技術を身に着けるほどに驚きをもたらす孤独な作業に、熱を上げるのは宿命だった。それにしても、絢子の持つ、飽くなき探求心は常軌を逸したものであったが。
 あらゆる快感は繋がっている。というのが、絢子の持論である。乳首からクリトリス、クリトリスからGスポット、Gスポットからポルチオ。持論を証明するよう、絢子は階段を駆けあがっていった。
 耳たぶ、首筋、仙骨、腹、指の先まで、全身をくまなく征服した後で、絢子は思い至る。――触覚だけが性感ではない。
 言葉や音楽、取り留めのない感情の機微にまでも、傾注が必要だと気が付いた。要するに、感覚を波立てるものなら何でもよいのだ。さざ波でも構わない。極小の揺らぎでさえ、精神集中、他感覚との相乗効果によって、無限に高めることができる。
 絢子は止まらない。尿意が好奇心の毒牙にかかるのは、時間の問題だった。
 中学卒業時、十五歳。尿界入りは九歳と遅めだったにもかかわらず、絢子の才能は完全に開花していた。排尿のたびに、幾度となく達する怪物。『快楽のデパート』、『小便ダム』、『いきてるだけでイく女』。数多の二つ名を冠する、新生・島津絢子の爆誕である。


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 月日は流れて。絢子はビジネススーツに身を包み、電車のつり革を握っていた。
 陽はすでに落ちている。車窓から見えるネオンの光だけを、絢子はぼーっと眺める。
「はあ……」
 無意識に吐いた溜息。矛先がどこに向けられたものなのか、すぐにはわからなかった。
 歳は20半ば、絢子の人生は順風満帆のはずだ。希望していた業種に就き、実力を認められた。両親の紹介で付き合った男性とは、去年、結婚した。元より貯蓄は十分。夫婦生活には愛があるし、差し当たって不安など見当たらない。
 しかし、ふと下腹部――膀胱を意識すると、寂しさの正体に行きつく。一流の尿者であれば、生成される尿に溺れんばかりであるはずの時間帯。絢子の膀胱は、ほとんど空だ。
 絢子が尿界を離れてから、数年の時が経っていた。
 全盛期に挙げた華々しい成果は、長く続かなかった。栄光を手にした人間は、必ず衰える。史上の偉人たちが皆、そうであったように、絢子にも終わりは訪れた。
 尿者は数多く居れど、引導を渡す相手は限られる。
 慢性の膀胱炎。最も多くの選手生命を奪ってきた病は、絢子にも例外なく降りかかった。膀胱炎は、排尿のたびに激痛を引き起こす。患者のおしっこ我慢は、腹の中で薪風呂を焚くに等しい。しかし、心を摩耗させるのは、痛みそのものではないのだ。
 病の真に恐ろしきは、絶望である。競技をやめない限り、病状がよくなることはない。出口がないとわかっているトンネルを、ひたすら歩き続けるような。「このまま無理を続ければ、命が危ない」と診断されてまで、現役にこだわった女の不屈でさえも。
 ある日、便所の前に立ち、その扉の先に一切の希望を失っていると自覚したとき、絢子は尿者をやめた。
 『お天道様はいつも見ておられるぞ。だからいつでも、他人に誇れる自分であれ』
 亡くなった祖父の口癖が思い出される。
 やれるだけのことはやったと、晴れやかに引退したつもりだった。にもかかわらず、年月を経ても押し寄せる、侘しさ、後悔。現在の有様こそ、自分自身を裏切った証明ではあるまいか? 神が与えた罰なのではないか? 絢子は自問する。……何度自問しても、満足のいく答えは見つけられなかった。
「あっ……」
 顔を上げれば、車内から客がいなくなっている。降りるはずだった駅は、当の前に過ごしてしまった。
「どうしようかな」
 しばらく考えたのち、絢子は携帯を取り出した。「友達の家に泊まる」という旨に謝罪を添え、夫に送る。
 車窓からの景色は変わらない。街の光が線になって、溶けていくだけ。眩く、しかし儚い光に、絢子は自身の過去を見る。
 行先は決まっていた。


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 鳥の雛は、生まれて初めて見たものを親と認識する。これは“刷り込み”の一例であるが、幼いころの記憶というのは、生物にとって極めて重要らしい。
 生後、長きに渡って虐待を受けた男。彼は暴力的な親を憎みながらも、自身の子どもに同じ仕打ちをした。などというのはありふれた話で。高度な学習能力を有するヒトでさえ、呪縛のような過去から逃れられないこともある。原記憶というのは、取りも直さず人格の根幹なのだ。
 絢子にとって、原記憶といえば祖父母家での日々だ。そして、祖父母家について思い返すとき、記憶はいつも和式便所とともにある。だからだろう、懐かしき日本家屋を前にして、建物はまるで、大きな便所のように思えた。
 絢子が子どものころよりも、劣化はかなり進んでいた。定期的に手入れをしているとはいえ、無人の家である。細かい汚れなどはもとより、木材の劣化は避けようもない。腐食し、密度を失った柱は、建物にも『老い』があることを知らしめる。また、辺りの家も数を減らしているようだ。周辺一帯から、人間生活の気配というものが感じられない。
 草花に囲まれ、孤独に佇む老屋。偶然に辿り着いた者ならば、迷い家と見紛うかもしれない。
 玄関に足を踏み入れると、悲鳴を上げて床が軋んだ。電気は通っていない。周辺に街明かりもないので、重厚な暗闇だ。絢子は目が慣れるのを待ってから、歩き出す。不思議と恐怖はなかった。暗さや家鳴りも、どこか懐かしく、むしろ親しみを与えるものだ。
「おじいちゃん、おばあちゃん、帰ってきましたよ」
 言葉は、染み込むように消えていった。
 内部を一通り歩き終えれば、夜はすっかり更けている。絢子は寝室でスーツを脱ぎ、敷布団に入った。ささくれだった畳を見つめていると、すぐに眠気が襲う。緩やかな呼吸。続けていれば、古びた家と一体化するようだ。胎児のように体を丸め、眠りについた。

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 深夜。膀胱をつつく尿意によって、絢子は目を覚ました。
 「んぅ……おしっこ……」
 幽鬼のように立ち上がる。
 炎症を患って以来、尿意には敏感である。我慢する癖を矯正しろと、医者からの忠告だ。油断して溜め込めば、いつ再発するかわからない。眠気を引きずってでも、便所に行かなければ。
 目を擦りながら縁側を歩く。ショーツ一枚の肌に、夜の風が心地いい。
 縁側を抜け、奥まったところに便所はある。扉の近くは壁に囲われているので、より暗い。月光をわずかでも採るため、扉は開けたままにしておく。
 蹴躓かないよう、段差を慎重に越える。ショーツをおろし、跨るように腰を落とした。薄汚れた便器は、股ぐらの下で口を開けている。主人がやる褒美を、今か今かと待ち受けているように。
「あはは、太腿きついなぁ」
 しみじみと。まるで、尿快楽に目覚める前、和式便器を嫌っていたころのような感慨。少女だった記憶を、絢子は想起した。
 そうしている間にも、尿意は徐々に高まってくる。
「あ……ふぁ……」
 鳥肌が立つ。衝動が押し寄せ、全身はおのずから、放尿に備える。思わず首を反らすと、上方にある小窓が目に入った。
 不意に、絢子はセミの声を聞いた。
 覚えている。九歳の夏、同じ場所で聞いた鳴き声。その日はとても暑かった。辺りには一面、ひまわりが咲いて。空は清々しいほど青く。入道雲には手が届きそうだ。日差しのシャワーが子供たちに降り注いでいた。
 絢子は駆けまわる子らの中に、自分の姿を見つける。走り回って、汗をかいて。家に帰った絢子は、浴びるように麦茶を飲んだ。
 ……その後だ。汗で流しきれない水分を、排出しに行った。相変わらず便器は和式で、体勢は苦しかった。なのに、なぜだか火照った肌が気持ちよくて。震えてしまいそうで。
 ――予感。
 回想は断たれ、絢子の意識は引き戻される。精通ならぬ、尿通を経験した当時と、現在が繋がる。郷愁という感情をパイプにして。不可思議なことに、十年以上前の少女も、今の絢子と同じ懐古の念を抱いていた。
 起点となった刺激はシナプスを通して、全細胞を呼び起こす。
「あ……あ……」
 絢子は目端から涙を流した。心象風景の中に、美しい波を見たからだ。波は、はじめ小さく映ったが、それは遠くにあるからだった。近づくにつれ、とてつもない大波だとわかる。引退以来、狂おしいほどに求め続けていたもの。絢子はなくしてしまったのだと諦めていたが、誤りである。発散されない快楽は、止めどなく増長していたのだ。
 絢子自身、理解していたはず。性感とは、体で享受するのではなく、心で育てるのだということ。際限なく。突き抜けるまで。
 ――絶頂の、予感。
 「イく……イく……っ」
 迫る予感に打ち震える。次の瞬間には、飲み込まれていた。
 「あっ――」
 すぐさま、前後不覚に陥る。四肢がバラバラに引き裂かれ、温かい湯の中でかき混ぜられるような。悉くの毛穴から、快楽液を吐き出すような。人間らしい言葉や理性など、とっくに手放している。現実の絢子は、わけのわからぬ絶叫を絞り出していたが、宿主である意識には届かない。
 感覚が、ただただ白んでいく。このまま、消えていくのか。……と。
「絢子や、絢子や」
 どこからか、声が響く。絢子のよく知る声だった。
「おじいちゃん?」
「そうだ、おじいちゃんだ」
 気が付くと、甚平を着た祖父が立っている。顔が白鬚に覆われていても、佇まいで祖父だとわかった。
「おじいちゃん、どうしてここに。……ああ、そうか、私は死んでしまったんですね。おしっこを出した気持ちよさが凄すぎて。だとしたら」絢子は仄かに笑った。「本望です」
「いいや、絢子、おぬしは死んでおらん」
「え?」
「ここは死後の世界ではない。神の世界だ」
「神の、世界?」
 絢子は首を傾げた。
「ああ。絶頂に達したことで、おぬしの魂は高みに上り、人間の領域を超えたのだ。ただし、それも長くは続かん。快楽の波が引けば、意識も現世に戻っていくだろう」
「よく分からないのですが」
「細かい理屈などよい。それよりも絢子よ、おぬし、悩んでおるな?」
 祖父の、凄むような目つきは。幼い絢子が繰り返し向けられたものと、全く同じだった。厳格な顔つきの内に秘められた、諭すような優しさ。絢子は正直に答えるほかなかった。
「はい、おじいちゃん。私は――」
「言わずともよい、わかっておる」
 言葉を掌で制し、祖父は続ける。
「絢子よ。人生とは、便所の個室で用を足すようなものだ。おぬしは過去に栄光を手に入れ、失った。確かに気の毒だ。惜しいと思うのも無理はない。だがな、そんなことに意味はないのだ。人間は決して、主観という個室から抜け出すことはできない。便所の外に小便をまき散らすこともなく、粛々と、ささやかな快楽に浸る。これこそが幸せなのだ。歴史に名を刻む必要などない。偉業を成し遂げる必要などない。足元にある幸せを愛で、育ててゆけ」
「おじいちゃん……」
 絢子の胸に、様々な思いが去来した。しかし、口には出さず、優しい瞳に頷いてみせる。
「わかればよい。さて、そろそろお別れの時間だ」
 祖父の姿が徐々に霞んでいく。
「おじいちゃん、行ってしまうのですか」
「ああ。達者でな」
 下半身は、もう完全に無くなっている。いよいよ全身が消えようという直前で、絢子は問うた。
「ここは神の世界と言いましたよね。おじいちゃんは、神になったのですか」
「そうだ。八百万の神に選ばれた」
「では、おじいちゃんは何の神になったのですか」


『和式便所の神だ――』


 憂いの表情とともに、祖父はいなくなった。


****


 翌朝。絢子が目を覚ましたのは、冷たいタイルの上だ。
「あれ、私は……」
 ゆるゆると立ち上がる。一糸まとわぬ体に、アンモニアの匂いが染みついていた。思わず顔をしかめる。ところが、匂いに喚起された記憶によって、不快感など消し飛んだ。
「そうだ、おじいちゃんっ」
 見回してみても、祖父の姿はない。
 代わりに、別のものを見つけた。タイルの割れ目から顔を出す、小さな花。昨日の暗がりでは見えなかったのだろう。純白のかわいらしい容姿は、場所に似つかわしくない。絢子はしゃがみこんで、微笑みかける。
「おじいちゃんからの贈り物でしょうか」
 花弁を愛でていると、思いつくことがあった。絢子は花の真上に立ち、力をこめる。
「んっ……ふっ……」
 下腹を、思い切り押し下げるように。すると、わずかに残っていた小便が垂れてくる。黄金を浴びた花弁は、光を反射して輝いた。
 小さな幸せが、きっと育ちますように。
 絢子は願い、便所を後にする。迷いはなくなっていた。