リア充、爆発する。

※エログロです






 秋夜に漂う妖しい気配が、高架下まで垂れ込めていた。
 暗がりには、三つの人影。一組の男女と一人の男が、対峙するかたちで睨み合っている。
 半歩下がって、怯えるようにするのは女。女は、流れるような黒髪の美人だった。目元には黒子があり、男好きのするたおやかさを演出している。彼女を庇うようにして立つのは、トレンチコートを着た、今風の青年。正面にいる、ダークスーツの男を見据え、敵意を隠そうとしない。
 男たちの歳はほとんど変わらなかったが、スーツの方が一回り老けて見える。口元に刻まれた深い皺は、貫禄と呼ぶべきか、疲弊と呼ぶべきか。本人にも曖昧だった。
 最初に口を開いたのは、スーツの男だ。どこか諦観を滲ませる声で、質問する。
「それで、用っていうのは」
「報告があるんです」
 短く、押し付けるように。トレンチコートの青年は答えた。「僕たち、付き合うことになりました」
「そうか……」
「『そうか』って、他に言うことはないんですか? あなたがそんなだから、由美は寂しがって僕に縋ったんですよ」
「いいや、もういいんだ。二人は、正式に交際し始めたのだろう?」
 スーツの男は、黒髪の女に目を向けた。女は目を伏せて、無言のまま頷く。
「だったらいいさ、もう終わりだ。あと、キミ。由美と新しく付き合う……坂口くんといったかい」
「なんですか」
 呼ばれて、青年は憮然とする。
 不快感があった。この会合に出向く前、坂口が腹に決めていた覚悟。略奪愛であろうとも、自信を持って由美を愛そう。過去の男が喚いても、戦って由美を手に入れよう。そう、決めていたのに。当の恋敵は、想像と全く異なる反応を返していた。
「後悔するぞ」
 噛みしめるように。スーツの男は言った。
「後悔なんてするはずがない。由美と付き合って、後悔なんて」
「いいや、後悔するさ。だって……キミは命が惜しいだろう?」
 奇異な台詞を残して、スーツの男が去ろうとする。
「安い脅しだ。負け犬の遠吠えか。さあ由美、僕たちも行こう」
 腕を引かれて。女はやっと、伏せていた顔を起こした。そして、わずかに唇を動かす。すぐ隣にいた坂口にも、唇が描いた言葉はわからなかった。
 ――直後、後悔の淵に落とされるということも。その瞬間の坂口には知り得なかった。


 翌日、同高架下。通りがかった住民によって、細切れの死体が発見された。


****


 旅先のビジネスホテルは、なにもかもが最悪だった。
 あばらのようなベッドの上で、和哉は苦悶の表情を浮かべる。背中がひどく痛むのだ。どうやら、折れたスプリングに背肉を突かれているらしい。
 頭上では、エアコンがけたたましく呻っている。時折、何かを詰まらせたように異音を放ち、その度に温風が止まる。神経を逆撫でするポンコツだ。どうせ、ゴキブリでも喰っているに違いない。醜悪な想像は、胃液を押し上げた。
「あー、ちくしょうっ!!」
 和哉は立ち上がり、部屋を見渡す。
 狭苦しい部屋だ。安ホテルの中でも、とりわけ悪い。龍太郎の手配ミスで泊まる羽目になったが、腹に据えかねる。家具は粗悪、風呂は小さい。無意味に薄暗い照明も煮え切らず、癪に障る。かといって、部屋を出るのも億劫なのだ。昼間の散策で、脚が棒のようになっている。
 和哉は息に乗せて怒気を吐く。苛立ちとともに、肘掛椅子に座った。すると。
「あれぇ? 先輩、なんで機嫌悪いんですか?」
 扉を開けて、ちょうど龍太郎が戻ってきた。千鳥足で和哉に歩み寄り、顔を窺う。その目は据わっている。ニヤついた表情も、明るい髪色も、容姿のすべてが軽薄で、今の和哉には間が悪い。
「先輩も飲みに行ったらどうです? 嫌なことは忘れて、パーッと」
「お前なぁ……」
 張り倒したくなる衝動を、和哉はギリギリのところで飲み込んだ。
 和哉と龍太郎は、高校部活時代からの馴染である。三十近くなり、和哉が結婚してからも、たまに旅行に出かける仲だ。子どもが生まれ、家での肩身が狭くなりつつある和哉にとって、龍太郎はありがたい存在だった。でなければ殴っている。
「先輩先輩、そういえば、飲み屋で面白い話を聞きましたよ」
「あ?」
 和哉の不満など意にも介さず、龍太郎は軽い口を開いた。
「妖怪伝説です。この辺りの土地では、誰もが知ってる話らしいんですが」
「妖怪伝説ぅ? 民俗学者ごっこでもしてるのか、お前は」
「まあまあ、せっかく旅行に来たんですから、土産話の一つくらいは必要でしょう」
 わざとらしく咳払いをして続ける。
「この妖怪、美しい女の姿をしているそうで。妖怪の誘いに乗って交際すると、相手の男性は爆発四散して死んじゃうそうなんです。怖いでしょう。先輩はモテるから気を付けてくださいよ。あ、嘘つけって顔してますね? きっと本当ですよ。飲み屋のおっちゃんが自信満々に言ってたんですから、間違いないです」
「経験上、その情報源は最も信用ならねぇ」
 和哉はあっさりと切って捨てる。しかし直後、妖怪とは無関係の部分で、天啓が降りた。
「そうか、女か」
 後輩に引きずられるまま訪れた土地。食べ物も景色も二流だと、辟易していたが。旅先といえば、もう一つ楽しめるものがある。下卑た笑いを和哉は浮かべた。
「龍太郎、俺も飲みに行ってくる。このクソホテルには戻らないから、明日のチェックアウトは任せたぞ」
「はえ? じゃあ先輩、どこで寝るんすか?」
「ラブホテル」
 掛けてあった上着を引っ掴む。胸を躍らせ、意気揚々と部屋を出た。


****


 女漁りは困難を極めたと、初めに記しておく。
 飲み屋街は繁盛していた。大型連休の最中ということもあるだろう。観光目的らしい客で、多くの店はごった返していた。適当な暖簾を覗けば、美人の顔もちらほらと。しかし、和哉はあえて、観光客の集まりを避けた。
 なぜなら、そこにロマンはないからだ。
 旅先で買うキティちゃんは、ご当地キティちゃんである。旅先で飲む酒は、もちろん地酒が常識だ。旅先で食事をするのに、チェーン店に入る馬鹿はいない。女も同じであるべきだ。和哉は確信している。旅先で喰う女は、地元の女でなければ意味がない。
 信念が曲げられることはなく。和哉は人だかりを離れ、地元民が通いそうな店を当たっていった。
 一軒目が老女の集会所だったことは、大した驚きではなかった。お通しと、申し訳程度に酒を飲み、店を後にする。二軒目では、若い女に遭った。残念ながら、不細工であった。三軒目では、女の集団に出くわした。なんと全員、不細工であった。
 四軒目にて、硫酸をぶちまけられたような顔の女を見たあと、和哉は頭を悩ませた。そして、思い至る。訪れた土地が、高名な不美人原産地だったということ。テレビの伝聞で得た情報を、最悪の形で確認させられたのだ。
 致し方なく、梯子酒は終わりにする算段と相成った。……未練たらしく、五軒目を覗いてからと条件を付けて。


 踏み入れた通りは寂れていた。半数近くの店にはシャッターが下り、そこかしこに赤錆がこびりついている。打ち捨てられた街角。心も荒む。
「やってらんねぇぜ、くそっ」
 怒りに任せて、スタンド看板を蹴り飛ばす。幾人かが怪訝そうに和哉を見たが、恥じ入ることもない。四軒分も酒を飲んだのだ。いや、飲まされたのだ。傍若無人に振る舞うのも無理からぬこと。誰にでもなく、和哉は言い訳する。
 電飾を飛び渡る蛾と同じに、細い道を彷徨った。歪む視界は方向感覚を狂わせる。今となっては、龍太郎のいるオンボロホテルに戻れるかも定かでない。
 やがて辿り着いたのは、古民家のような居酒屋だった。
 見回せば、辺りには酔っ払いの一人さえいない。すっかり、スラムのような住宅街に迷い込んでしまったと、引き返す矢先。目端についた赤いぼんぼり。薄闇に浮かぶ光は、どこか異世界めいていた。誘い込まれるように、引き戸をくぐる。
 呟くような店主の挨拶が迎える。ひとまず、本当にただの民家かもしれないという不安は払拭された。
 内装は簡素だ。まるで、袋小路をそのまま店にしたような。カウンター以外に席はない。椅子の後ろに、人ひとりがやっと通れる隙間だけ。いかにも隠れ家という趣。もしかすれば、秘境の天女がいるかもと窺う和哉だったが、期待は裏切られた。どころか、店内には和哉のほかに、男が一人いるだけだった。落胆のため息が出るのも仕方ない。
 しかし、この男。奥の席に詰めたダークスーツの若者は、和哉の興味を惹いた。
「はあ、やばいなぁ、どうしようかなぁ。ああぁぁ……」
 和哉を上回るため息は、響き渡るほどだ。表情には絶望の色がありありと滲んで、明日にでも線路に飛び込むのではないかと想像させる。
 ――獲物に違いなかった。
 人の不幸は蜜の味。和哉も、世の俗物と変わらない価値観を持っている。知人の愚痴を拾っては相談に乗り、偉ぶってアドバイスするのはたまらない。結果、兄貴分として慕われるのだから不思議なものだ
 和哉は男の隣に座る。酒とつまみを頼み、タイミングを見計らって話しかけた。
「よお、兄ちゃん、ため息凄いね」
「え? ああ、すみません。うるさかったですか」
 和哉の存在に気付いてすらいなかったらしい。男は、驚いた様子で頭を下げた。
「いやいや、迷惑なんて思ってない。ただね、君みたいな若い子が悩んでると心配なのさ。俺も若いころは苦労したからね」
「はあ……」
「どうだい、見知らぬ親父に愚痴ってみるというのは。俺は旅行者だし、二度と関わることもないだろう。悩みってのは案外、人に聞かせるだけで軽くなったりするだろう?」
「そう、ですね」
 しばらく考え込んでから、男は顔を上げた。
 正面から見ると、悪くない顔をしている。几帳面に整えられた髪型と、純朴そうな丸い目。龍太郎とは正反対の、爽やかな容姿だった。
 ただ一つ。苦労の証か、顔に刻まれた皺が、陰鬱とした印象を与える。
「スーツを着てるってことは、社会人なんだろう? 仕事の悩みか?」
「いえ、コレは通夜のために着ていっただけで、普段はあまり着ないんですけど」
「じゃあ、なんだ、失職の悩みか」
「いえ……」男は気まずそうに声量を落とした。「実は、恋人とのことで悩んでいて」
「ほお、浮気でもされたかい? それとも、した側?」
「まさかっ」
 男は目を見開いた。ビールジョッキをあおり、カウンターに叩きつける。
「僕は浮気なんてしませんよ。彼女だって――」
 途中、言葉は勢いを失う。
「しない、とは思いますが、その、実のところ、心配なんです。彼女がほかの男になびいてしまわないかって」
「へぇ」
 届いた軟骨を噛みしめながら、和哉は相槌を打つ。正直なところ、拍子抜けしていた。会社が倒産して、明日から路頭に迷うのかとでも思いきや。期待外れだ。だから、興味は男の恋人に移った。
「ところで、君の恋人とやらは可愛いのかい?」
「そりゃ、もう」
「具体的には?」
「とても綺麗な、長い黒髪をしています。目元に黒子があって、肌の白い……どうしてそんなこと聞くんです?」
「はは、単なる興味だよ」
 白々しくおどけてみせる。男は怪訝そうにしたが、またすぐに話し始めた。ひとたび愚痴を吐き出すと、止まらない性分らしい。
「僕は必死なんです。だから、隙を見計らっては彼女の携帯を覗いて。この間はストーカー紛いのことだってしたんだ。悪いこととはわかってるんです。悪いことだとは。でも、別れたくないっ!!」
 男は唾を飛ばす。紅潮した顔はさらに真っ赤になり、汗まで噴き出してきた。ひどく動揺しているのか、店内のあちこちに目をやっている。突然、貧乏ゆすりをしたかと思えば、今度は頭を抱えてうずくまった。
「ううぅぅぅ」
「おいおい、大丈夫か。安心しろ、君は間違っちゃいないさ。ところで、君の彼女はいま、どこにいるんだ?」
「え? どうだろう。さっきまでは、歓楽街の店で一緒に飲んでいたんですけど。勝手に逃げ出してしまったから、いまごろ心配しているかな」
「歓楽街の、なんて店だ?」
「『鳥庶民』っていう店ですけど……どうしてそんなこと聞くんです?」
「はは、単なる興味だよ」
 必要な情報は引き出した。もはや用はないとばかりに、和哉は席を立つ。立ち去ろうとしたところを、男の声が射止めた。
「待ってくださいっ」
「な、なんだ?」
「あなた、親切な人ですよね。こんな僕の話を聞いてくれたんだ」
 真顔で和哉を睨みつける。一瞬で酔いから覚めたように、視線が定まっていた。
「え? ああ、いや、どうかな。親切かはわからないが」
「あなたに渡しておきたいものがあります」
 言って、男は手帳とボールペンを取り出した。勢い任せに何かを書くと、手帳を破いて和哉に渡す。
「これは?」
「僕の住所と電話番号です。何かがあったときは、使ってほしいんです」
「何かったって。俺は旅行を終えたら帰るんだってば」
「それでも」
 無理やり紙片を握らせられる。
「もしかしたら、必要なときが来るかもしれないんです。僕、普段は在宅で仕事をしているんです。不幸が起こっても、誰にも気に留めてもらえないかもしれない。お願いします、どうか」
 必死の形相に、和也は気圧されてしまった。渋々、住所と電話番号を受け取る。
 その後は、逃げ出すように店を出た。引き戸をくぐって、外に出る直前。去る背中に、男の呟きが追いかけてきた。
「くそぉ、あの女、僕をハメやがって」


****


 『鳥庶民』に一歩踏み入れた瞬間、ターゲットはすぐに見つけられた。
 女に関して、和哉が病的に目敏いというのもある。しかしそれ以上に、女は目を惹く様子だったのだ。
 喧噪をよそに、カウンター席で独り、座っている。腰まで伸びる長い髪、しなやかな身体のシルエット。外見的な特徴もさることながら、女は独特の空気を纏っていた。ウイスキーを手に取って、喉を動かし、唇を離すまで。すべての所作が妖艶で、目をくぎ付けにする。大衆居酒屋という卑俗な場にあって、女の存在感は明らかに異質だった。
「やあ、お姉さんは一人かい」
「え?」
 だからこそ、振り向いた女の有り様は、和哉を驚かせた。
 見知らぬ男の声かけには、警戒するのが女の常だ。中でも、美人の女ほど傾向は強い。自分は男を選ぶ立場にある。かくなる認識があるならば、媚びを売る必要はないからだ。
 黒髪の女は正反対だった。
 和哉の胸元から双眸が見上げる。潤んだ瞳には、拒絶の色などまるでない。
「あの、私になにか……?」
 眉を下げ、発せられる猫なで声。まるで、男の加虐心を煽り立てるような。和哉の記憶に幾つか残るものと類似している。それは、心の弱い女の声だ。胸の空白を埋めるため、誰彼構わず股を開く。他人を使って自らを慰め、同じだけ傷つく、哀れな女。会話を一つ交わしただけでも、和哉は確信していた。
 ――この女はヤれる。
 店に入るまで練っていた口説き文句など、消え失せてしまった。言葉などもはや、なんでもよいのだ。行きずりの一夜には本来、理由など存在しない。『流されるまま仕方なく』。そういう体裁を整えてさえやれば。男女が目を合わせたときから、合意など済んでいるのだから。
「いやね、俺は通りがかりの占い師なんだが。君から、恋愛に困っているオーラが見えてね。どうかな、俺が手相を見てやろう。ここじゃない、静かなところでじっくり、ね」
「ふふっ、なんですかそれ」
 和哉の見え透いた嘘にも、女は柔らかく笑う。
 二人が連れ添って店を出るまで、かかった時間は五分にも満たなかった。

―――――――――――――――――

 あっという間だった、というのが実のところだ。
 酩酊していたのも理由だろう。気が付いたとき、情事はすでに終わり、和哉はラブホテルのピンクベッドに潜っていた。半身には、人肌のぬくもり。上気した女が腕をとり、熱っぽい目でこちらを見つめている。艶やかな肌が、紫の照明を反射して輝く。
「和哉さん、すごく、よかったです」
「ああ、俺も」
 ぼんやりと。いつ自分の名前を教えただろうかと考える。また、記憶の中に女の名前があることも不思議だった。
「由美ちゃんと俺は、相性がいいのかもね」
「そう思います」
 由美はいっそう、身体を寄せてくる。耳元にかかる吐息が熱い。彼女が甘く囁けば、今さっき味わった快楽が想起される。
「最高だったよ」
 お世辞ではない。由美の膣内なかは極上だった。これまで行為を交わした女たちに比べても、とびぬけて。こうして体温を分け合うだけでも、ペニスが硬く勃ち上がる。
「由美ちゃん、また」
「まだするんですか? あんなにたくさん出したのに」
「いくら出したって足りない。君が相手だと」
「ふふふ」
 淫靡に笑う、その紅い口をねぶった。
 舌を絡ませたまま、蜜壺に侵入する。数えきれないほど射精したにもかかわらず、穴は底なしのように、和哉を急き立てる。精魂というはこのことだろうか。まるで、魂ごと飲み込まれるような心地がして、恐ろしさすら浮かんだ。
 不意に、龍太郎の軽口がよみがえる。助平を殺す、妖怪の噂。
「ん、む……はぁ……和哉さん、私、本気になっちゃいそうです」
「どういうこと?」
「和哉さんのこと、好きになっちゃったかも。明日には帰るんですか?」
「妻と子どもがいるからね。帰らないわけにはいかない」
「じゃあ、私もついていきます。お付き合いしましょう」
 あるいは、この女が妖怪なのかもしれない。馬鹿げた考えが和哉の腰を止めた。
「由美ちゃん、俺の話きいてた? 妻と子どもがいるんだって」
「関係ないです、そんなの。奥さんには内緒にしておけばいいんですよ。だって、こんなに気持ちいいこと、やめられません」
 由美は腰を浮かせ、迎え入れるように肉棒を擦る。瞬く間に、和哉の理性が溶かされた。たまらず、ピストンを再開する。
「う、お……お」
「和哉さんっ、受け入れてくれますかっ……私のことっ」
「ああ、くそっ、わかったよ、付き合ってやるっ……もう、出すぞっ」
 細い腰を掴み、叩きつける。最奥まで突き上げ、尽き果てるまで精を吐き出した。
「ぐっ……く……うぅ」
「はあ……はあ……いっぱい出ましたね、和哉さん」
「あぁ、中に出しちまった」
「大丈夫ですよ、ピル飲んでますから」
「なんだよ。それじゃあ」和哉は肩で息をしながら笑った。「最初から中で出しときゃよかったな」


 行為後。改めて体の感覚を確かめても、異常はない。当然、爆発することも。我ながら阿呆な心配をしたものだと、和哉は内心、胸を撫でおろすのだった。


****


 和哉は自他ともに認める愛妻家であり、子煩悩である。
 もちろん、時には浮気をすることもある。出張に行っては女を漁り、暇さえあればナンパからセックスの連撃を決める。結果、肉体関係を持った女の数は、両手足を使っても数えきれないほどだ。しかし、それらはすべて、出来心なのである。女として、心から愛しているのは妻だけだ。生涯を賭しても、守ってやろうと決めたのは娘だけだ。
 玄関に一歩足を踏み入れれば迎える、愛妻と愛娘の笑顔。二つの宝の輝かしさを目にするたび、和哉は思う。今後一切、浮気はやめようと。
 旅先から帰宅してしまえば、和哉は一家の大黒柱だ。だから、自宅の玄関でメールを確認したときには、暗澹たる気持ちになった。
 差出人は、由美だ。
 液晶に、夥しい長文が書き連ねられている。取り留めのない悪文から、情感の臭気が漂う。読み解くのは難儀だった。さらに、内容も頭が痛くなる。要約すれば、本当に付いてきてしまったから、定期的に相手をしろということらしい。
「とんだ淫乱女だ」
 和哉は悩んだ末、返事を書いた。明確に拒絶せず、かといって歩み寄りは見せないように。本来ならば、徹底無視が定石であるが。和哉の指を動かしたのは、下半身に残る膣の感触だ。
 ――結果として、策は失敗した。
 由美からのメールが途絶えることはなかった。三日に一通ほど、近況を尋ね、関係を求めるメッセージ。頻度としては執拗でない、咎め立てるほどでもない。この程度ならば、付き合いを続けても構わないだろうという、和哉の隙。ほだされかけていることも、由美には見透かされていた。
 あの夜の契約は、和哉にとって弱みだった。
 和哉の方から、由美を受け入れたのだ。一夜だけの関係では済まない。にじり寄るように、追及の手は強められる。そして、由美の存在を疎んじたときには、もう手遅れだった。脅迫が激化し、家族への危害が仄めかされる段になって、ようやく和哉は己の失策を憂いた。
 警察は当てにならない。この手の事件において、対応が遅いのは周知の事実だ。何かしら実害を被るまで、有効策は打ちようがない。加害者が女となれば、なおさら。脅威は小さいと見なされるだろう。
 行き詰った和哉は、例の、居酒屋の男を思い出した。
 男がまだ由美と付き合っているかは疑問だ。なにせ、和哉自身が寝取って、連れ去ってしまったのだから。それでも、賭けてみる価値はある。『お前の女が付きまとって困っている』とでも相談すれば、由美を説得してくれるかもしれない。藁にも縋る思いで、和哉は受話器を手に取った。
 しかし、男に何度コールをかけても、電話が繋がることはなかった。


 数日後、事態は思わぬかたちで解決した。
 ある夜、残業からの帰りである。和哉が自宅の前まで来ると、あの長い黒髪を見つけた。彼女は玄関の扉を叩き、まさにわめき立てているところだった。「中にいるのはわかってるのよ、出てきなさい」と叫ぶ姿を見て、和哉は恐怖よりもむしろ、安堵を覚えたくらいだ。
 これまで、由美は決定的な行動には出なかった。淡々と毎日、脅迫文を送りつけるだけ。消耗戦を迫るやり方が、和哉の神経をすり減らしていたのだ。見えないものへの根源的な恐怖。ひとたび姿を現せば、霧散してしまう。おそらく、和哉の残業を知らなかったのだろう。標的のいない家にしがみつく女は、滑稽でさえあった。
 和哉は好機とみて、その場で警察に連絡を入れた。『家の玄関でわめき立てている女がいる』。警察が動くのに十分な理由だった。
 到着した警察官と連れだって、由美の背後から声を掛ける。振り向いたときの、由美の表情。驚愕と絶望に打ちひしがれた顔は、和哉を勝ち誇らせた。
 ところが。去り際、警察に連れられながら放った由美の言葉が、和哉を動揺させた。
「和哉さん、後悔しますよ。かわいそう、あなたも死んじゃうんですね」
 ……その後も変わらず、男への連絡はつかなかった。


****


 以前、龍太郎とともに訪れた旅先の地。和哉は再びその土地を踏んでいた。
 灰色の雲が空を塞ぐ、重苦しい天気だ。足取りも重く、入り組んだ生活道路を歩く。住民はほとんど見かけない。メモを片手に、一つ一つ表札を確認していく作業。マウスが実験迷路を歩かされるようで、ひどい徒労なのではないかと思われてくる。
 実際のところ、徒労で済めばマシな方なのだ。男の家を訪ね、生存を確認して。どうして電話に出なかったと問い詰めてやればそれでいい。来訪は徒労に終わる。確率的にも、一番あり得るパターンだと、和哉は踏んでいた。
 しかし、胸に兆すのは、一抹の不安だ。男自身が漏らした境遇、由美の残した台詞、そして、龍太郎から聞いた妖怪の噂。点と点を結んで、実像が浮かび上がってくる。もしや、碌でもないことに巻き込まれているのではないか。和哉は恐れていた。無論、勘違いである可能性もある。休日を返上してまでこの地を訪れたのは、杞憂を確かめるためだ。
「まさか、な」
 呟いて顔を上げると、目的地が目の前にある。
 建物は戸建てだった。同形の家が何軒か並んでいるうちの一つ。借家だろう。一人暮らしにしては良い所に住んでいる。表札には『坂口』の文字。メモに書かれた名前と一致する。間違いなく、男の家に違いなかった。
 平屋建ての玄関、脇に付いたチャイムを鳴らす。
 返答はない。もう一度鳴らす。
 またも、返答はない。
 三度目のチャイムを鳴らす。再び沈黙が返るころには、和樹の不安は曖昧なものではなくなっていた。
「入るぞー」
 呼びかけてから、引き戸に手を掛ける。扉はすんなりと開いた。
「いるのかー、おーい」
 三和土に踏み入れる。すると、奇妙なにおいが鼻をついた。
 仄かに漂ってくる異臭。生臭いような、すえたような。わずかに混じった甘さが却って、吐き気を催させる。冷蔵庫で生肉を腐らせたときのことを、和哉は思い出していた。
 においの発生源は奥のようだ。引き返したい衝動に抗いながら、歩を進める。
 最奥の和室を覗いた瞬間、原因はわかった。
 そこには、肉片が散らばっていた。赤黒いシミが、花開くように畳を染めて。肉片と血液が一体化するように、部屋全体を埋めていた。肉片の中には、かろうじて形のわかるものがある。腕、足、いくつかの臓器。腸と思われるものは、とてつもなく長い。直方体の空間が、まるごと生き物の中身のようだった。
 死体だ。それも、人間の死体。
 理解の次に訪れたのは吐き気だった。耐えようとする間もなく、和哉は体を折る。
「うっ……おええぇぇっ」
 吐瀉物が足に落ちる。死体とにおいが混ざり合い、さらに悪性を増した。たまらず、その場から逃げ出す。
「くそっ、くそっ、くそっ!!」
 庭先で何度も胃液を吐き出しながら、和哉は悪態をつく。
「死んだのか、あいつは」
 胃液も出しきるころには、頭は冷静になっていた。あれは居酒屋で会った男なのか。この場で確かめる術はない。が、状況的に可能性は高いだろう。だとすれば、見過ごすことはできないのだ。次に肉片に変わるのは自分かもしれない。
「ああ、ちくしょう」
 和哉は振り返り、玄関を見る。とにかく、来てしまったからには収穫が必要だ。坂口の死因、由美のこと、なんでもいい。頬を張って、探索に向かった。


****


 寝室らしき洋間に、生活感は密集していた。
 雑然としたナイトテーブルを漁ると、名刺入れを見つける。坂口はライター業をしていたようだ。家に帰れば、寝室に籠って仕事をしていたのだろう。食事の跡なども見受けられた。
 酒を飾るサイドボードの上には、写真立てがある。由美とのツーショットだ。遊園地の城をバックに、ピースをして写っている。坂口はベージュのトレンチコート、由美は白のハイネックセーター。屈託のない笑顔は、初々しい若者カップルという様子だ。写真を撮ったときはまだ、命の危機などなかったに違いない。
 洋間の中心には、小さなテーブルが置かれていた。その上だけ、不自然に片付いている。ただ一つ、ノートパソコンが開いたままにしてある以外は。和哉は引き寄せられるように、パソコンの画面を覗いた。
 液晶には、テキストファイルが全画面表示されている。

―――――――――――――――――――――――――――――

 あの最悪の日、十月二十日の夜。高架下で起こったことを記す。
 僕はその夜、由美の彼氏と会う約束をしていた。僕と由美との関係をはっきりさせるためだ。 僕らは長いこと友達同士だった。由美には付き合っている彼氏がいて、僕はその愚痴を聞く役で。結構、仲良くやれていたと思う。けれど、男女の常というやつだろうか、いつしか肉体関係を持つようになってしまった。
 由美が、当時の彼氏とうまくいっていないことは知っていた。僕の方が彼氏に相応しいということも。由美と一つになれたことは、僕にとって僥倖だった。けれど、由美の方には自責の念があったらしい。浮気をしてしまって申し訳ないと、毎晩のように泣いていた。だから、順番は逆になってしまうけれど、由美の罪悪感を和らげてやるために、
 ああ、無駄な話はやめにしよう。
 とにかく、由美の彼氏と話し合いをするために、高架下まで行ったのだ。由美と一緒に。
 話し合いは簡単に済んだ。僕と由美の睦まじい様子を見て、アイツは諦めがついたようだった。
 そうして、去っていこうとしたとき、アイツの身体がはじけ飛んだ。ジャンプをしたとか、車に轢かれて飛んでいったとかじゃない。内側から、ひとりでに爆発したのだ。信じられないかもしれないけれど、本当だ。水風船が破裂したみたいに、肉片が辺りに飛び散って、血液がまき散らされた。あの都市伝説は嘘じゃなかったんだ。
 誰かがこの文章を読んでいるということは、きっと僕自身が証明になっているだろう。正直、今でも震えが止まらないんだ。僕もいずれ、あんな無残な姿になるなんて……。
 アイツの身体が爆発したとき、僕はひどく動揺した。なのに、横で見ていた由美は、平然と薄ら笑いを浮かべていた。どうして平気なんだと問い詰めたら、質問に答えず由美は言った。「私を裏切ったら、あなたもああなるのよ」と。
 僕はきっと、もう駄目だ。死んでしまう。怖い。

―――――――――――――――――――――――――――――

 文章はそこで終わっていた。
 液晶に縫い付けられたように、視線が動かせない。
「あ……か……」
 喉から掠れた音が漏れた。様々なことが、脳裡に浮かんでは消える。龍太郎の間抜け面がかすめたとき、和哉は弾かれるように駆けだした。
「龍太郎っ、龍太郎っ」
 呼び出し中の電話にがなる。道路を全力疾走しながら、応答を待った。
「もしもーし、なんすか先輩?」
 待望した声は、相変わらずの軽い調子。普段なら腹を立てるところだ。しかし、相手が電話に応じるということが、今の和哉には奇跡のように思える。
「お前、いま、どこにいるっ!?」
「どこって、家ですけど。休日ですし」
「ああ、いや、どこにいるかなんて、どうでもいいんだっ」
「先輩が聞いたんじゃないですか……てか、なんで息上がってるんすか」
「そんなことはどうでもいいっ!!」
「おわっ」
 受話器の向こうから、跳びあがる気配がした。和哉は深呼吸をして、息を整える。
「前、お前と旅行したよな。そのとき、妖怪伝説がどうとか言ってたろ」
「ああ~、言ってましたっけねぇ。なんだ、先輩あんなの信じてビビッてるんですか? 駄目ですよ、酔っ払いの発言なんて、話半分に聞いておかないと」
「お前、言ったよな、妖怪女と付き合った男は死ぬって。あれって、どういうことだ」
「どういうことだ……って、どういうことですか?」
「つまり」
 和哉は唾を飲み込む。改めて、馬鹿げたことを考えていると自省した。
「男は、妖怪女と付き合ったら死ぬんじゃなく、妖怪女と別れたら死ぬ・・・・・・って話なんじゃないか」
 龍太郎は記憶を探っているらしい。曖昧に呻ったあと、あっけらかんと言った。
「あーそうそう、そんな話でしたね。他の男に取られると駄目なんですよ、確か。まあ、どっちでも似たようなもんじゃないですか。でも、先輩、なんで怪談話なんて気にするんですか、らしくないですよ」
「龍太郎、二時間後、いつもの喫茶店に集合だ、いいな?」
「え、マジすか。ああいや、丁度よかった、俺も先輩に報告したいことが――」
 返事を待たず、和哉は通話を切った。とにかく、誰かに相談しなければやっていられない。抱え込んだ悪夢のような現状を、誰かに吐き出してしまわなければ。そのためなら、相手が龍太郎でも構わなかった。
 喫茶店へ向かう電車の中で、和哉は考えていた。今後、どういう方針を取るのか。とにかく、由美を手放してはならない。まずは、龍太郎と協力して、由美の居場所を突き止めなければいけない。次に、由美を宥めすかして……。
 到着への時間にやきもきしながら、和哉は膝を震わせていた。


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 静寂。
 店内は、外の喧騒と切り離されていた。和哉の愛用する喫茶店は、テーブル同士の間が広く空いている。秘密話をするのにうってつけだが、連れがいなければ、孤独と隣りあわせだ。
 深紅の椅子に腰かけてからも、和哉は長い時間待たされた。このときばかりは、龍太郎の遅刻癖が殺したいほど憎い。
 約束の時間から三十分後、ドアベルの音が鳴った。反射的に顔を向ける。
「うぃーす、先輩、元気っすかぁ」
 やっと、待ち人が現れる。思わず腰を浮かせた和哉だが、龍太郎の背後に目をやって、固まった。全身から血の気が引いていく。
 能天気な男の肩から見える、黒い髪。チラチラと揺れる、彼女のトレードマーク。
「あ、そういえば、先輩に報告があるんですよ。ついにっ、オレにも春が来ましたっ。じゃじゃーん、新しい彼女の由美ちゃんでーす」
 弾むような紹介を、和哉はどこか遠くに聞いた。
 得意顔の龍太郎が横にどき、女が深くお辞儀をする。たっぷりと間を置いて、向けられた女の顔は。その唇に、キスしたことを覚えている。紛れもなく、由美本人だった。
「あ……あ……」
 青ざめる和哉。
 由美は、和哉にだけわかるよう、童女のように笑いかけた。すべて了解しているだろうとばかりに、目を細めて。そして、彼女はゆっくりと口唇を動かした。グロテスクな舌が垣間見える。声は聞き取れなかったが、何を言ったのかは読み取ることができた。
(さ・よ・う・な・ら)
 意味が理解されると同時。和哉の血液は、急速に沸騰を始めた。
sage