第一話 平凡な女、伊東美咲

 ここは都会の喧騒から離れた場所にある新興住宅地、シラサギニュータウン。
 うららかな日差しの中、ニュータウン中央に設けられた公園のベンチで若い女が手にした文庫本に目を落としていた。
『竿屋~竿竹~、竿竹~』
 この声を聞くたび、女は不思議に思っていた。
 果たして現代、竿竹屋などという商売が成り立つのだろうか。
 竿竹などホームセンターで安く買えるし、車がなくともamazonや楽天で買えば佐川急便が踏んだり蹴ったり投げたりしながら玄関先まで届けてくれる。
『竿屋~竿竹~』
 女はトラックから聞こえてくる声に導かれるように、手元のスマホで竿竹屋をググってみた。
 竿竹屋は公安などと、陰謀めいた記事が目に飛び込んでくる。
 こんな何もない場所に公安が来る方がどうかしている。
 後はぼったくりだの竿竹屋が儲かるからくりだのうさん臭いサイトが出てくるばかりだ。
 そして電子書籍のクソアドセンスに目が腐りそうになったので女はスマホの画面を切った。
『竿屋~竿竹~』
 女はベンチから立ち上がると、公園の前にトラックを止めている竿竹屋に向かって歩き出した。
 竿竹屋の真の目的を、この目で確かめてやろうと。
 それは退屈な団地妻の、ほんの小さな冒険であった。

「竿竹屋さん」
「はい、毎度ありがとうございます」
 女が声をかけると、竿竹屋は被っていた帽子を取って振り返った。
 その瞬間、女の時間は止まってしまった。
 初めて見る竿竹屋の微笑みが、彼女の時間を奪ってしまった。
 甘い初恋を想起させる、出会い。
「奥さん、今日はどのような竿竹がご入用ですか」
 竿竹屋の声で、うたかたの夢から醒める。
「あ、あの、まず私、竿竹は買いませんから」
 ぼったくられてはたまらないと、女はまずそう断っておいた。
「ではどのようなご用件でしょうか」
 竿竹は買わないと宣言したのにもかかわらず、竿竹屋の笑顔は少しも揺るがない。
「私にできることでしたら、お手伝いしますよ」
「えっ、あの、竿竹屋さんは竿竹以外も売っているんですか?」
 竿竹屋の申し出に、女は動揺しながら問いかける。
「あっ、待ってください、ぼったくりとかは絶対引っかかりませんからね」
 慌ててそう付け足すと、竿竹屋はくす、と小さく笑った。
 成熟した男でありながら、どこか少年らしさが垣間見える笑顔。
「そうですね、竿竹屋は表向きの商売でして、本業は竿師なんです」
 竿竹屋の答えに、女は瞬間言葉を失った。

「竿師……というと?」
 女の問いに、竿竹屋は少しはにかむように微笑んだ。
「女性を悦ばせることを生業としている、と言えば理解していただけますか」
「はあ……」
 悦ばせる? 女の頭の中は疑問符で埋め尽くされ、口から出たのは間抜けな返事。
 竿師などという職業の人間が、現実に存在するなどとは考えたこともなかった。
「初回はサービスさせていただきますよ、よろしければいかがですか」
 竿竹屋は女をじっと見つめて、まるで竿竹を売るような口振りで言った。
「竿竹ではなくて、竿をですか」
 思わず口をついて出た言葉に、女は頬を赤らめた。
 そんな女の仕草を見て竿竹屋は小さく笑うと、うなずいた。
「そうですね、私の竿をです」
 なぜ、真昼の団地でこの男はこんなことを平然と言えるのだろうか。
 女の羞恥心を上回ったのは、未知への好奇心。
「竿、おいくらですか」
 気が付けば、唇からこぼれていた言葉。
 それは未知の扉を開ける、鍵。
「初回特別割引で5万円になります」
 5万。それは平凡な団地妻である彼女にとって、決して安い額ではない。
 しかしそれで、別の世界を見ることができるのならば……
 女は決断した。
「それ、ください」
 それは、昼下がりの団地妻の小さな冒険であった。
「どうぞ、上がってください」
 促されるままに、竿竹屋は金属製の扉をくぐった。
 靴箱の上には干支の置物とリセッシュ、なんの変哲もないありふれた平凡な玄関。
「ええと……まさか竿竹屋さんをお招きするなんて思ってもいなかったので、散らかっていますが……」
 女は恥ずかし気にいそいそとリビングの雑誌を片付けた。
 オレンジページ、すてきな奥さん、今日の料理、LEON、ヤングアニマル。
「奥さん、今日はここでよろしいですか? ホテルの方へお連れすることもできますが」
「えっ、あっ」
 竿竹屋の声で、女は自分が何のために家に男を招き入れたのか思い出した。
 そうだ、今日自分が買うのは竿竹ではない。この男なのだ。
「ホテルは、別料金ですよね?」
 薄い財布を思い浮かべながら、女は尋ねる。
 主婦にとって家計の管理は最重要任務の一つである。
 衣食住に必要な最低限の金に手を付けることは禁忌だ。
「初回にいただくのは5万円のみです。それ以上は一切いただきません」
 言い切る竿竹屋。
 そこで女の脳裏をかすめたのは、世の男たちを魅了してやまない風俗店のことであった。
「オプション料金みたいなものも全くないんですか?」
「はい、一切いただきません。ちなみに奥さんはどのようなオプションをお望みですか」
 そう切り返されて、女は羞恥のあまりうつむいて黙りこくる。
「冗談ですよ。では今日はここで始めてよろしいですね」
「は、はい」
 今から竿竹を乗せた軽トラでホテルに行くのもどうかと思った女は、とりあえずそう返事をした。
 そして本棚へ向かうと、ダ・ヴィンチ・コードの下巻を手に取りページを開いた。
 挟まっていたのは、諭吉が5枚。円に換算して5万円。
「料金、お支払いします」
 しかし竿竹屋はその5万円をもとのように本に挟むと、そのまま本棚に戻してしまった。
「料金はご満足いただけたときに頂戴します、奥さん。
 ……そろそろお名前をうかがいたいのですが」
 漆黒の双眸は、女を捉えて離さない。
「伊東 美咲(いとう みさき)です……」
 女――美咲は答える。
「美咲さん、きれいな名前ですね」
 竿竹屋のテンプレ通りのセリフに、美咲は苦笑いした。
「あなたという可憐な花の名前を知ることができて、幸せです」
 竿竹屋は不意に美咲の腰に手を回すと、耳元で囁いた。
「あ、あの……」
 不意に体に触れられた美咲は、身じろぎもできずに視線だけを床に落としていた。
 先ほどまで会話もかわしたことのなかった赤の他人である男に、抱きすくめられている。
 しかし、決して不快ではない。
 むしろ、男の温もりが心地良い。
 腕の中で眠りについてもいいと思えるほど、竿竹屋に対して警戒心は全く働かなかった。
「竿竹屋さんのお名前も、お聞きしていいですか」
 美咲は背の高い竿竹屋を見上げて、問いかけた。
「竿屋 毅(さおや たけし)です」
 微笑んで、竿竹屋は答える。
 藤川球児がプロ野球選手になったように、竿竹屋になるべくして運命づけられたような名前だと美咲は思ったが口には出さなかった。
「面白い名前だと思ったでしょう」
「えっ?」
 心中を言い当てられ、美咲は思わず声を上げたが、そのまま気まずそうに笑ってごまかした。
「よく言われますから。藤川球児みたいにかっこいい名前ならよかったんですけどね」
 そう言って毅は困ったような顔で笑う。
 そんな笑顔もまた魅力的だと、美咲は思った。
「名前なんて、ただの名前じゃないですか。それに毅さんだって男らしくて素敵な名前だと思います」
 少し早口で、美咲は言った。
「優しいんですね」
 毅は美咲を優しく抱きしめ、首筋に唇を落とす。
 そこから全身に走る快感に、美咲の体が小さく震えた。
「あの、もしかしてもう始まってますか」
 そう問いかける美咲の耳を、毅の唇がなぞる。
「始まっていますよ」
 零れ落ちるのは、甘美な囁き。
 リビングと違い、寝室には余計なものはなくベッドメイクも終わっていた。
 毅は美咲を片腕に抱きしめたまま、後ろ手にドアを閉める。
「これで本当に、二人きりですね」
 毅の唇が美咲の耳から首筋をなぞる。
 いつもは夫と眠る寝室で、今は別の男の腕の中にいる。
 しかし不思議と罪悪感はなかった。
 それは竿師を名乗る男の不思議な雰囲気のせいだけではない。
 結婚3年目にして同じベッドで眠るだけになってしまった夫婦の関係は、冷え切っていた。
「美咲さん」
 その声で、美咲は顔を上げる。
「……すいません、考え事をしてしまって」
 小さな声でそう答える。
「いいんですよ。あなたも、誰かに甘えたかったのではないですか。
 人の温もりを、求めていたのでしょう」
 毅は美咲の羽織っていた白いカーディガンを脱がせ、ベッドの上にふわりと置く。
「ここでは嫌でもご主人のことを考えてしまいますよね。
 いいんです、今日だけは。今だけは、あなたは私の恋人です」
 毅の大きな手が、ブラウスの上から美咲の胸に触れる。
 思わず漏れる、甘い吐息。
 後ろから抱きしめられたまま、交わされる甘美な口づけ。
 求めあうように絡み合う二人の舌。
 ――こんなキスは、夫とも……
「今は忘れてください。恋人同士の時間は短い」
 心を見透かしているかのような言葉と共に、毅はブラウスのボタンをはずしていく。
 レースで縁取られた下着まで、たやすくはぎとられてしまう。
 なだれ込むように、二人はベッドに落ちる。
 見ればいつの間にか毅も服を脱いでいる。
 作業服の下に隠されていた逞しい体に、美咲は小さく感嘆する。
「ん? 私がブラジャーのホックを外すのがうまいのが気になりましたか?
 これでも中学生の頃は『ホック外しの毅』と呼ばれていたんですよ。指で挟んで、こう」
 毅の話を遮るように、美咲は笑いながら毅の胸元を叩く。
「考えてませんよ、そんなこと」
「すいません」
 悪びれた様子もなく、毅は美咲の長い髪を撫でる。
「でも、いたなぁ……ホック外しの何とか君……
 毅さんみたいに素敵な人なら覚えているはずだから、別人ですけどね」
 クスリと美咲が笑う。
 どこか少女らしさを感じる笑顔。わずかに残っていた緊張も、すっかりほどけていた。
「私も、美咲さんのような女性がクラスにいたなら忘れないはずです」
 美咲の胸に顔をうずめて、毅が言い返す。
 白く柔らかな胸を指先でなぞり、掌で包み込む。
 ゆっくりと揉みながら、舌を這わせ、先端を唇で包み込む。
 美咲は毅の髪を両手で掴み、目を閉じて小さく喘ぐ。
 そのかすかな反応で、毅は美咲の感じる部分に触れていく。
 熱を帯びた手に力が入り、揉みしだかれる両の乳房。
 美咲は首を反らせて声を上げる。
 優しく、それでいて力強い。
 男に支配されることに、美咲はかつてない悦びを感じていた。
 優しいだけでは物足りない。自分は彼だけのものだと実感させてほしい。
「少し痛いくらいがお好きなんですね」
 毅の言葉に、美咲は素直に頷く。
「平凡な日常に刺激を求めて冒険してしまう、あなたらしいです」
 優しくつねり上げられる乳首。美咲は指を噛む。
 毅は美咲の腕を取り、口元から引きはがしてベッドに押し付ける。
「あなたの声が聞きたい」
 毅の唇が、胸から腹へと落ちてくる。
 腰に噛みつき、吸い付いて舐め上げる。
 彼が与えるすべての刺激が、快感だった。
「毅さん……私も、あなたの声を聞いていたいです」
 男の手で紡がれる、力強くそれでいて繊細な愛撫。
 永遠に、この時が続いてほしい。
 美咲は確かに今、恋をしていた。
sage