1☆「水辺にまつわるエトセトラ(上)」(2018/08/08)



 ようやく辿り着いた。
 市内から一時間かけて山道をバスで駆け上り、終点の鄙びた山間の温泉街に降り立つ頃には、空は藍色に暮れなずんでいた。
 俵山温泉、という。
 立派な瓦葺の待合室に入ると、横綱を温泉にした番付表が貼ってあり、この俵山温泉は山形の肘折温泉と並んで、西の横綱だそうだ。
 乃々香が祖母とよく行っていたのは市街地により近く、汽車で二駅ほどの音信川にぬって立つ湯本温泉で、温湯という市営浴場を祖母は好んでいた。
 どちらかといえば、湯本温泉の方が世間的には有名らしく、地元が輩出した時の総理大臣は、遥々ロシアから大統領を呼び寄せて、この辺りでは一等の湯宿の別邸で昵懇と杯を酌み交わして饗したそうなのだから、周りの温泉街がその影に隠れるのは仕方のないことなのかもしれない。
 バス停から温泉街の方へと足を向けて、車が一台通れるぐらいの道幅の両脇に低層の温泉宿が軒を連ねている間を通り抜けていく。
 大型ホテルが立ち並ぶ湯本温泉とは、同じ源流沿いの温泉地にして、かなりの様変わり様だ。昭和のジオラマの中を歩いているような心持ちで歩いていると、右手に「町の湯」という公衆浴場が現れた。頭に瓦が乗っているものの、鉄筋組みで、壁には磨りガラスが嵌め込まれている。どちらかといえば市民プールみたいだ。
 バス停で持ってきたパンフレットには少し奥のまた右手に「猿の湯」というのがあるらしい。古来湯治場の流れを汲み、この温泉街の宿は内湯を持たないので、宿泊客はこの二つのどちらかに入るのだと書いてある。
 猿の湯は先程の街の湯よりは、お金のかかった造りをしていて、奥まっている分敷地も倍ほどありそうだ。入泉料も倍するらしい。
 踵を返して安い方へ向かうのも趣がない気もしたので、どちらにしようか考えながら、しばらくその先も歩いてみることにした。
 一番奥に見える赤茶色の建物に向かって歩いていくと、すぐに視界が広がって、左手に川が見えた。どうやら温泉街はここで終わりらしい。
 五月も終わりに近づき日が伸びたとはいえ、確かに感じ取れるほど薄暗さが地表にまで降りてきていた。川を跨いで駐車場へと繋がる橋に、男女のシルエットが浮かんで、背の高い方が、中空を指差していた。カップルだろうか、何があるのか不思議がって乃々香は近づいた。
 「蛍がいますよ」
 男の方がそう言った。
 目を凝らして、草の生い茂った湖面を睨む。十数秒に一度おきに、目を閉じた時に走る光のような、か弱い火がぽつぽつと流れて消えていった。
 「そんなにいませんね」
 「もっとたくさん見れるのは六月に入ってからかな、こんな感じだと」
 二人に近づいてみると、どうやら年格好は近いように感じた。そして、男の方が物腰が低く柔和な感じに対して、女の方は詰まらなそうな顔つきで腕を組み終始無言だった。カップルというよりは、年の近い兄弟のように映った。
 「中学生ですか?ひとり?」
 乃々香にとってそれは聞かれたくない質問だった。
 半年以上、学校に通ってないのだから。いじめられたから、病気だから、そんな分かりやすい理由があるならまだ、学校に行かない自分を肯定できるのだろうが、全くそういったことはなかった分、平日の、こんな時間に外を歩いているのは彼女にとって居心地が悪かった。
 「はい」と一言、返す。でも、それは相手にとっても同じじゃないのだろうか。
 「りまと同じだね。こいつが引っ越してきたからこのあたりを案内してるんだ」
 二つの視線が、長い髪に包まれた彼女に注がれてようやく、口を開いた。「島に帰りたい」
 「島?」
 はっと息を呑むような整った容姿から出た明け透けのない言葉に乃々香は聞き返す。
 「屋久島から来たんだ。ちょっと世間ずれしてて」
 へえ、と心の中で答えた。
 自分が感じた違和感は相手も同じだろう。
 乃々香は帰りのバスの時間もあるので、そう軽く会釈して、振り向いて温泉街の方へと入っていった。やはり安い方の温泉へ行こう。自分のことについて相手が何も聞かなかったのは優しさからか、それとも興味がないのか、どちらともであって、どちらでもないのか分からなかったが、とにかく苦しい思いをしなかったのはよかった。
 市内ではあるが、彼女の通う中学校とも違うし、もう会うことはないのかな、そう乃々香は思った。
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