三の二

 感想戦を終える頃には日付もとうに変わっていた。
 対局室を出た途端の立ち眩みに響は眉間を押さえた。今日は一段とひどい。
 一先ず息を吐こうと、手近な所にあった自動販売機でなにかを、選ぶ余裕もなくボタンを押し、ロビーの椅子に倒れ込む。
 ボトルを口に含み、どうやらスポーツ飲料らしいと解った瞬間、当たりだ、と漸く頬がわずかに緩んだ。炭酸は飲み辛く緑茶や水は糖分に欠ける。疲れた時は余計に。
 勝利の美酒に酔うという経験をした覚えが、響には一度も無い。対局後はただただ疲れだけが押し寄せ、酷使され熱を持て余した頭部はブレーカーが落ちたように一切の思考が停止し、何も考えないという空白の幸福感に脳を占拠されてしまうのが常だ。或いはその一時こそが棋士にとっての勝利の味であろうか。だとすれば、今日の一段とひどい空白は喜ぶべきものなのだろうか。
「響ちゃん」
 いつものようなキンキン調子ではないのが救いだった。
「お疲れ様。その……おめでとう」
 迷いがちな言葉。
「でも、よかったね、昇級も決定だし、全勝だもんね。すごいよ」
 何を話して良いか迷っているのだろう。
 響は何も返さなかった。慈乃の態度を気にしているのではない、そんなことを気にするような人間ではない、ただ疲れているのだ、言葉が出せない、喋り方を忘れるほどに。
「響ちゃん……ねえ」
 返答を求める慈乃をどうしたものかと煩うよりも先に、おめっとさん、とこちらはいつも通り脳天気な銀乃介の声だった。
「流石に始発までダラダラしてく余裕も無いだろ、タクシー呼んどいたから表で待ってろ」
 頭の上に乗せられた大きな手で、髪をくしゃくしゃに掻き混ぜられる。拒否する体力も残っておらずされるがままだ。
「ってことだから慈乃、今日は響帰してやれ。多少ほっとく程度じゃ回復しそうにない」
「でも――」
「――ほっときゃいんだよ、今日は……そうだ響、明後日やっから、どうせ暇だろうけど一日空けとけな」
 頷くことも振り返ることも忘れ、響はその場を後にした。今はただ一刻も早く布団の中で目を閉じてしまいたかった。

 会館を出ようとする響を老齢の棋士が待ち構えていた。周囲に人影はなく、深夜耳鳴りのしそうな静けさの中、雲を被った上弦月の薄明かり。
 二藍の着流し長羽織を身に付けた様はさながら江戸から抜け出してきた侠客そのもののようであり、齢七十を超す面に深く刻まれた皺は肉体の老いをではなく将棋指しとしての荒々しい半生を印象づける。二十二世名人をはじめ他に王竜・棋将の二つの永世称号資格を保持しなおも現役として戦い続ける最高齢のA級棋士、六角源太。響を弟子として受け入れ奨励会への渡りを付けた人物である。
 二人は形式上師弟という関係にあるが、しかしお互いを弟子とも師匠とも思ったことは一瞬たりとて無かった。
「貴様が来るまでに席は取り返しておく……あと三つだ、早く上がってこい」
 祝福の様子など欠片も無く、ただそれだけを冷徹に伝えると、六角源太は去って行った。
 ただその言葉を伝える為に響を待っていたのだ。その一言を伝える為だけに、否や正確には残り三つの壁を乗り越えた響が挑戦者として自身の前に現れる、その時だけを、浅井響という人物が世に生を受けるより遙か以前から、六角源太はひたすらに待ち続けている。
 しかし六角源太は響など見ていない。彼は浅井十兵衛との決着を望んでいるに過ぎない。
 故に全てを理解している響も仮初めの師の後ろ姿を追おうとはしない。
 六角が何を思い込もうと知ったことではない、好きにすれば良い。道を行けば誰であれ必然として戦うことになるのだから。
 勝負師の業と言うにも深すぎるほどの河が、師弟の間には流れている。