三の三

 昼前から夕方にかけての反省会が終わってしまえば残りは気楽な順位戦終了の打ち上げである。勝負の場を離れればさしたる禍根も無く、千代の薄く腫れた目蓋はさすがに隠しようが無かったが、千代はそれすら笑いの種としてみせたし、響も銀乃介もその程度の事を大袈裟に扱うつまらない人間ではなかった。
 容赦を無くすことこそが最上の方法だと、勝負師である彼らは何より深く理解している。
「しかしよー、響はもうちょい何とかなんねーのか」
 生のジョッキで喉を鳴らす合間に銀乃介が言う。
「何が」
「お前は、なんつーかさ、もっとテキトーにガーッといってダーッとやってアーッと寄せちまうみたいな、そういうのが足りねーんだよ」
「俺はギンみたいにちゃらんぽらんな性格してないんだよ。勝つべくして勝ちたいの」
「そういう性格してるから棋譜まで根暗なんだっつーの」
「それ言うならギンの棋譜なんてバカ丸出しじゃん、丁半博打みたいな将棋ばっかり指しやがって」
「言いやがったなお前。おい慈乃、俺と響とどっちの棋譜が良い」
「棋譜眺めるなら銀ちゃんのかな、見てて楽しいもん」
「ほれ見ろ」
「でも、実際にするなら響ちゃんとやる方が好き。色々意地悪されるから、面白い」
「おま、中坊にしてドM宣言かよ」
「ちょっと、慈乃に変なこと吹き込まないで……はい、これ焼けてる」
 今日は勝者である響の希望で焼肉となった。肉と網の管理は自然と千代に任せるような形になり、他三人はただただ焼き上がり配膳された肉をほおばるか、下らないことを言い合っているか。慈乃もいつまでも引きずっている様子は無く、目の前の肉に目を輝かせて食っている。ちなみに勝者の義務ということでこの場は響のオゴリである。
「そういえば響、六角先生にはちゃんとご報告したの? 特殊な関係にしても、師弟には違いないんだから、そういうことはちゃんとしないと駄目よ」
 と、響の皿に肉を取り分けながら千代が言う。
「ああ、っていうかあの日会館来てたみたいで、帰り際に出入口で会った……っていうか他人の世話焼いてばっかで自分食えて無いじゃん、ちゃんと食えよ。あとギンは食い過ぎ」
「ケチケチすんなよ金玉ちっせー男だな……で、なんつってたあの妖怪ジジイ」
「ギン、失礼よ」
「はいはいすみませんでした。で、六角前名人は何と仰せでいらっしゃいましたか」
「席取り返しておくからさっさと来い、だとさ」
 肉を口に放り込む。銀乃介が穴場と紹介しただけあって安い癖に旨い。
「そりゃまた期待されてること……あのジーさんならいつ返り咲いてもおかしくねーけど、年考えればいつポックリ逝ってもおかしくねーんだし、精々急いでやるこったな」
「ギン!」
「はいはい解ったって、お前は俺のカーチャンかよ」
 こういうやりとりを目の前で見せられると、銀乃介はむしろ楽しんでやっているのではないかと、響は思わされるのだった。
「一応師匠だし、意を汲むようにはするけど、そしたらギンのことも追い抜いちまうな」
「ヌカせクソガキ」
 鼻を鳴らした銀乃介が煙草を咥えると、構えていた訳でも無いのにどこから取り出したのか、千代はマッチを手渡した。そして銀乃介も当然のように受け取っている。
「でも、六角先生、去年名人位陥落してから目に見えて崩してるのよね。棋将位も落としてしまったし、順位戦も残留に絡んでしまって……四十年ぶりですって、残留に絡んだの」
「あの人は名人位以外のタイトルなんて名人戦の調整程度にしか思ってないさ」
「しかし響よ、実際あの名人オタクのジジイが名人戦に出ないなんてことはちょっとした事件だぜ……こりゃいよいよお迎えって線も――」
「――さっきから、ちょっとひどいわよ。そろそろいい加減にしておきなさいね」
「わーったよ、怒るなって」
 すぼめた口先で勢いよく煙を吐き出しながら、まるで反省しているそぶりはない。
「何にせよ、余計な心配だろ」
 六角源太は現在将棋界に存在する七大タイトルを通算で八十一度手にしており、中でも名人位には特別な執着を見せている。名人以外のタイトルなど棋界の政治・金の為に存在しているだけと公言して憚らず、四十六年前に初戴冠して以降通算二十九期獲得は圧倒的歴代最多記録。棋界未だ一世名人を廃さず、とは果たして誰が言い出したか、現代将棋は六角源太の名の下に存在しているとは全ての人間が認める事実だった。
「お前から師弟愛を感じるってのは珍しいな」
「そんなんじゃない……違うよ」
 ――祖父十兵衛と源太の因縁を響が知ったのは、十兵衛が死んでからのことだ。
 祖父の葬式に突然姿を見せた世間を賑わす今一世こと六角源太は、悲痛や憐憫ではなく、死者の世界へ逃げていった仇敵を恨む憤怒に表情を歪ませていた。
 その後、響の存在を、十兵衛の最期の一局をどこからか聞きつけた源太が家に押し寄せた日のことを、響は今でも覚えている。
『お前が十兵衛を殺したのか』
 源太はそう言った。深淵の中唯一探し当てた希望に瞳は燦然と輝き、口元は幼子のように唾液を溢れさせながら笑っていた。
 お前は十兵衛を殺せたのだな。
 お前は十兵衛を喰らったのだな。
 そうか、そうだったか。十兵衛は貴様を残したか。
 将棋を好ましく思っていなかった、それどころか、祖父の死以降は年端も行かぬ少年に祖父を殺させた忌まわしい道具であるかのように考えるようになっていた響の両親に対し、当時既に還暦を迎えていた名人は地に頭を擦りつけた。
 およそ現代の常識では考えられぬ近代前の意匠の如く、嗚呼この才能を儂に呉れ。
 全ては響を喰らう為に、浅井十兵衛という将棋指しを乗り越える為に。――
「引導を渡してやりたい、それだけさ」
 同じ事なのだった。響も源太と変わらないのだ。
 響もまた、あの日燃え尽きていく祖父の生命が垣間見せた神の影、何よりも美しかったあの棋譜を、いずれ来る六角源太との対局に重ねている。