九の三

 息抜きのつもりではじめたゲームも結局はいつもの研究対局と変わらなくなり、結果は六戦して五敗。五局とも自陣に引き籠もるかのように守りを固めた挙げ句の敗北だった。
 銀乃介が早指しを得意にしていると言っても、普段であれば六対四をつけている相手にこの成績では、自身の不調を思い知らされるばかりである。
「今のお前は勝負に辛いってよりもただのビビリだ、受けるにも腰が引けてんだよ」
 王竜戦第一局、竹中の7七桂を食らって以降、響ははっきりと調子を崩していた。
「あんな手指されたんじゃ忘れろとも言えねえけど、さっさと切り換えろ」
「もう切り換えてるよ。少し、感覚がつかめないだけだ」
 精神的な落ち込みが続いているという訳ではない。しかし、いざ盤に向いて指し始めると手が縮こまってしまう。
 ――もしかすれば、自分の気付かない間に、既に首を落とされたか知れない――そんな恐怖に四六時中煽られているようなものだ。
 竹中の7七桂によって植え付けられた恐怖が、響の読みの感覚を狂わせている。自らの読みに自信を持てなくなれば、将棋など指せるはずもない。
「十年に一回お目にかかれりゃ上出来っていう鬼手じゃねえか、運が悪かっただけだろ」
「十年に一回の負けでも、笑って流すくらいなら将棋なんてやめた方が良い」
「それで負け重ねてちゃ世話ねえよ、お前はプロだろうが」
「一局の価値を薄めなきゃプロとしてやってけないなんて、それこそ三流じゃねえか」
「手前の読みを信じられなくなったら将棋指しなんて廃業するしかねえっつってんだよ」
 言い合いながら、七時手前の夕食時、二人の行く先は立花家。呼び鈴を押すこともなく勝手知ったる第二の我が家へ上がり込んだ。
 まずは母を探して厨へ向かうと、
「あら、お帰りなさい」
夕食の支度に走り回りながら、あちらの対応もすっかり慣れている。どうやら今夜は天麩羅らしい、油の跳ねる音がパチパチと心地良い。
「ただいマンモス勝って帰宅にゴザソウロウ」
 立花の母からは決して聞いてこない為、対局があった人間は自分から結果を伝えるのが不文律である。
「良かった。じゃあ御祝いね」
「ここの家、週一ペースで何かしら祝ってるよな」
「そうなのよ。みんな稼いできてくれるから、私も嬉しくて若返っちゃうわ」
「そりゃあおっちゃんから感謝状貰わにゃならんか」
 軽口を叩きながら、キッチンペーパーの上に揚げられた茄子の天麩羅をつまもうとする銀乃介だが、その手を菜箸でぺちんと叩き落とされ、ちゃんと洗ってからになさい。二十歳を超えた男にする説教ではないのだがこれもまた日常。
「響くんも、解説お疲れ様」
「結構楽しかったよ」
 こちらは既に手を洗っている響、鱚の天麩羅をつまみながら、ホクホクの白身に思わずウメエと漏らす。
「聞き手の女流の人が巧くてさ、話しやすかったんだ。凄く助かった」
「そう、良かったわね……あ、ご飯なんだけど、炊飯器の設定間違えちゃって八時くらいになっちゃうかも知れないの。ごめんね」
 そう言いつつも肴は間に合わせている辺りが流石である。
「呑めりゃ良いよ、おっちゃんは?」
「研究してるけど、呼べば来るでしょ。六時過ぎればお酒の時間だもの」
「だとよ。呼んでこい、俺は酒出しとくから」
 冷蔵庫を開けてビールを三本、
「良いけど、勝手に一人で始めんてんなよ」
「ウダウダ言ってねえではよ行け、温くなるだろうが」
こりゃ勝手に始めてるパターンだと解っていても、問答を続ければビールは益々温くなる。響に逆らう手は無かった。

 十メートルはある長い渡り廊下で繋がれた書院造の離れは、その昔さる大物政治家との記念対局でも利用されたことがあるほど立派なもので、天井には盤を覗き込むカメラまでセットされている。奢侈とも受け取られかねないこの部屋を、今となっては響も日常的に使っているが、立花家を初めて訪れた小学生の時分はそのスケールに驚いたものだ。
 そっと戸を引いて中を覗くと、鑑連は碁盤を前に寝転がり、ボリボリとだらしなく腹を掻きながらジャンプを読んでいた。
「おじさん、研究してたんじゃないの?」
「おお響か、ということは酒だな……いや、息抜きだ、十分前から読み始めただけだ」
 その割には辺りにバックナンバーが十冊ほど散らかっている。
 よっこいしょういち、と漏らしながらのたのたと立ち上がり、しかし読みかけの漫画を手放そうとはしない。食卓まで持っていくつもりだろう。
「食べながら読んでたらまたおばさんに叱られるよ」
「ちょっと待て。あと少しだから」
 そんなことを話しながら、食卓のある座敷へ向かえば、当然銀乃介は先に始めている。
「おう、悪い。ビールの野郎があんまり汗掻いて苦しそうだったからよ」
「多少汗を掻かせた方が艶が出るものだろうに」
「流石、おやっさんは言うことが違うね。そんな台詞は響にゃちと出てこねえぜ」
 鑑連は自らの缶ビールに手をかけてグラスに移しながら、まだジャンプから目を離そうとしない。
「確かに、オッサン共の感性は理解しかねるよ」
 言いながらの響が倣えば、一足遅れの乾杯は誰が音頭を取ることも無く、自然とグラスは中央に寄った。
 腹の肴は天麩羅であるが、口の肴は『何故碁は将棋に人材を奪われるのか』である。
「例の漫画がやってた頃は小さい子も打ってくれたんだがなあ」
 ぼやく鑑連の悲哀は重いが、
「序盤の自由度が高すぎるんじゃねーの、とっかかりが難しいんだよ……後はまあ、コミがちょくちょく変わってるってのがな。初心者が聞くとやる気が失せちまう点ではある」
銀乃介は容赦なく斬った。
「将棋なら、小さい子って駒組み覚えるだけで楽しそうだしな。技っぽい名前が付いてるのも、いかにも子供心をくすぐって嬉しいというか……F-Systemとか、矢倉森下構えとか」
 同意した響の挙げた『F-System』とは居飛車の左美濃や穴熊といった堅い囲いに対する四間飛車側の策、『矢倉森下構え』とは相居飛車矢倉戦における思想の一つである。
「そう、そういうのがなんかジャンプっぽいだろ。解り易い必殺技がねえとダメなんだよ……っつっても、将棋も余裕こいてられる状況じゃねーけどさ」
「碁は自由だから面白いのに」
「でも、なんか最近は若い女の間で碁が流行ってるとか聞くよ。金持ちの社長と知り合いたいとか、お寿司食べたいからみたいな感じで覚えるんだってさ」
「いや……まあ、そういうのが悪いとも言わないが、そういうのはハナからどうでも良くてな。将来の日本碁界を背負えるような人材がさ……絶対将棋に奪われてる」
 以下鑑連がつらつらと語るところによるとこうなる。
 碁も将棋も、一線級の人物を育てようとすればどれだけ早く親しむかが分かれ目となるが、大抵の子どもは碁よりも将棋に触れる機会が多いため、優れた才能を持った少年少女が将棋に青田刈りされているのだ――と。
「それは無理があるでしょ」
 聞いていた響も苦笑を隠さない。
「何故だ」
「だって、将棋と碁じゃ結局は求められる能力が違うじゃん。将棋で伸び悩んでる人が碁を勉強してみたら急に壁を乗り越えたとか、その逆の話もよく聞くけど……一線で戦える人材は放っておいてもそっちの道に行くもんだよ」
 この響の意見には銀乃介も肯く。
「そう言われてもなあ……竹中君とか小寺君の世代なんて、碁じゃボロボロだぞ」
「まあ、それもよく聞くけど」
 碁で強い世代が出てくると将棋におけるその世代は谷間となり、逆に将棋で強い世代が出てくると碁においてはその世代が谷間となる――という説。尤も響にとっては愛棋家の間でのみ語られる都市伝説の類に過ぎない。
「お前ら見てると碁の未来が真っ暗に思えてくるんだよ。最近は国際戦でもポコポコ負けるし……いい加減マズイんだよなあ」
「自国が弱いスポーツってどの分野でも人気下がるからな。ましてやおっちゃんクラスがポコポコ負けちまったら、そら普及にはマイナスだ」
「将棋は国際戦無いから気楽でいいよなあ……ああ、もう、碁ばかり辛い目にあって」
 碁には国際戦があるという点は、響にしてみれば羨ましくもあるのだが、どうやら鑑連を見ているとそう単純な話でも無いらしい。
 チャトランガから東に回ればシャンチー西に回ればチェスとなって、根が一つの親戚は世界中至る所に存在しているが、同じ土俵で戦える相手はいない。ましてや持ち駒という特殊な発想をしている本将棋では、他ゲームのプレイヤーが多少勉強してもどうにかなるものではなく、連盟も海外普及に力を入れてはいるものの、プロ同士が競い合う国際戦を組めるレベルになるまでには少なくともあと数十年は必要だろう。
「最近じゃ将棋はゲームも出たじゃないか、しかも人気があるし……一回やるのに一時間も待たされたぞ……ああいうの、碁でも出ないかなあ」
「ああ、やったんだ?」
「銀乃介と千代が出ていると聞いたからな……千代には言うなよ、怒るから」
 響は今日行ったゲームセンターを思い返すと、あの騒音の中でゲームをする為にぽつんと待っている和服姿の中年親父を想像し、笑いを堪えた。
「碁はソフトが難しいんじゃねーかな。市販のスペックでもアマトップクラスに十分ってところまで行かないとああいうのは出来ねーって、開発の人が言ってたし」
「そうか……残念だ」
「逆を言えば、人間がソフトに負かされる可能性は将棋の方が高いってことだし、その点碁は気楽で良いじゃねえか。まだしばらくは猶予あるだろ」
「私はソフトが出てきても負けんよ」
「そう言うなら国際戦でも勝ってくれって」
 当たり前のことのように言う銀乃介に、
「どうもなあ……一度苦手意識を植え付けられると、勝負事というのはダメだ」
当の鑑連は弱気だ。
 後進の成長からかつてのように絶対不動の頂点とは呼ばれなくなったとは言え、現在も碁界の一線で戦い続ける実力を有しており通算で七割超えの勝率を誇る、まさしく化け物じみた存在であるが、しかしその鑑連ですら、国際戦に限定すれば勝率で五割近くというところまで落ち込み、棋戦での優勝など滅多に無いというのが日本碁界の現状である。
「そんなに海外勢って強いの?」
「強い。時間の違いもあるが、それ以上に中韓の碁は国内戦とまるで感覚が違う。あちらの碁は実に勝負に辛い」
「日本の碁は甘いの?」
「何というかな……将棋の世界も研究を重視するようになってからは大分変わっただろう、それと同じようなことだよ。最善手が常に有効とは限らない、みたいな話だな」
「将棋で言うと古参のジイサン連中が筋悪っぽい手を異常に嫌うとか、そういう感覚かね」
 鑑連は敢えて聞かなかったような態度で、
「良いところだけは頂いて、私は私の碁を打つさ」
言い放った。