十の二

 棋院上階、関係者以外の立ち入りを禁止されている畳部屋に三人きり、響、少年、高橋先生と呼ばれた男――外部の音がまるで届かない密室で、高橋の重い一言が発せられる度、正座して聞く二人の背筋に冷や汗が重なっていく。
「なるほど、碁打ち将棋指しの諍いというのも確かに古典だ――」
 その風貌と棋風から、誰が呼んだか市ヶ谷の首領(ドン)・高橋紹運。鑑連と並んで日本碁界を牽引するトッププロの一人であり、
「――ザル碁打ちとヘボ将棋指しに限って、こぞってやりたがると聞く」
その言い回しは鑑連のような斬れ味鋭い名刀ではなく、脳漿ごと弾き飛ばすような破壊力に満ちた.44の弾丸である。
「ところで、君たちはあそこで何をしていたのかね?」
 後頭部に銃口を押しつけ、その撃鉄をゆっくりと起こすかのような一言。返答を誤ればノータイムでズドン、まさか額の風通しが良くなることもあるまいが、メンタルの方には間違いなく特大のトンネルが開通することだろう。
「わ……話題の浅井七段にお目にかかれたので、つい……興奮してしまいました」
 少年が畳に額を擦り付けながら答える。
「浅井君は」
「自分は、全く新しい触れ合いだったもので……応じるにもつい力が入りすぎてしまい」
 同じく畳に頭を擦り付けながら、しどろもどろの受け答えになっていた。
「なるほど、若い衆なりに友情を深めていたということか」
 到底信じていないのだろう、後頭部に浮かぶ銃口の影は未だ拭えない。
「あちらが始まるまでまだ小一時間はあるな……山中君」
「ハイッ!」
 どうやら少年は山中という姓らしい。
「こちらはまだ浅井七段の碁を知らない。解説するにしても、どの程度か把握しておいた方が良いと思うのだが」
「ハイッ! 謹んで御相手させて頂きます」
 傍で聞いている響が滑稽に感じてしまうほどではあるが、しかし、当人からすれば必死以外の何ものでもないのだろう、もしもここが千駄ヶ谷で逆の立場に立たされていたらと、先程まで言い争っていたことなどすっかり忘れ、どこか哀れみを覚えるほどだ。
「良い機会だ、君も将棋を教えて貰うと良い。将棋を指せる人間が増えるのは私としても喜ばしいからな……浅井七段、よろしく頼めるかな?」
 意図しない提案ではあったが、山中少年に引き摺られるかの如く、響もまた深々と頭を下げて承る。
 高橋はようやく緊張を解く咳払いを一つ置くと、
「それから、よければ後日、私も一局お願いしたい。千駄ヶ谷で実力アマ四段だ」
意外な事実。
「指導は苦手なんですが……それなりに覚悟がおありでしたら」
 加減の器用な人間では無いぞ、と言外に含ませると、
「勿論だ、願ってもない」
強がりには見えない、それなりの自信を持った人間の返答である。
「両刀なんですか……千駄ヶ谷の四段ってことは、結構指されてますよね」
 思わず漏れたというのが正しいだろう――アマ四段であれば小さな地方大会で優勝争いに参加出来る層であり、それなりに勉強しなければ到底達することの出来ないレベル――響の率直な感想である。
「両刀ということなら、君の身近にもっと凄い人間がいるよ」
 意味深な発言も、しかし回答を確かめる間などなく、解説会の準備があるからと高橋は部屋を出ていった。

 場所を変え碁の指導を受けている最中、高橋の発言は一体誰のことを言っていたのか、まさか鑑連であるはずはなく、心当たりを探っていると、
「千代ちゃんのことですよ」
山中少年がはっきりと言い切った。
「流石に本気のトッププロじゃ相手にならないでしょうが、入段試験レベルなら現状でも相手がいないでしょう」
 将棋で言えば奨励会の三段を相手に無双出来るアマチュアということになるが、そんな存在は想像すらできない。
「実際、千代ちゃんの場合はプロでも相手出来る人間が限られますから」
「何でさ」
 ぱちりぱちり、十五路盤に石を打ちながら。なるほど、十九路では大きすぎて見えない部分ばかりという印象だったが、こうして少しでも小さな碁盤で指導を受けてみると中々感じるものもある。
「プロ相手に連戦連勝なんてしてしまったら、市ヶ谷に来づらくなるということでしょう」
「教える側の経験もあるんだから、指導の勝ち負けなんて一々本気にしないって」
 深く潜るのではなく遙か天空から全体を掌握する視野、といった感覚だろうか。将棋と比較すると正確な読みよりも感性が重視される、とは碁を評する際に良く用いられる言葉だが、その意味が朧気ながら解りかけてくるようだ。
「千代ちゃん相手に指導のつもりで打てるなんて、それこそトッププロくらいですよ」
「そりゃ言い過ぎだろ」
「信じられないかも知れませんが、本当なんです。そもそもそちらと違ってレッスンプロなんて言葉があるような世界ですから、プロの間でも実力差が大きくて」
 将棋で言う指導棋士のような人々もプロとして扱われる世界ということだろうか。それならば、アマチュアがプロに食らわせる確率が幾らか高まったとしても不思議ではないが、それでも山中少年の語り具合は明らかに度を超しているように思える。
「外来で受けてみないかって散々誘ったらしいですけど、フラレ通しだったみたいです」
「本当に?」
「碁一本に絞ってやっていれば、ひょっとしたら女性棋士初めてのリーグ入り、タイトルだって手が届いたかも知れません」
 解り易く熱を帯びてきた山中少年の発言に、響が疑念の目を向けると、
「男女の差はそちらより小さいですから、お隣の国ではそういう方も出ていますし。大体、今の状態で立花先生相手に先逆コミ三目なんですから、それくらいは言われて当然です」
ムキになって言い返された。
「幾ら何でもさ……それは」
「本当です、立花先生御本人がその手合いだと仰っています」
 山中少年から語られる鑑連の像を聞いているうちに、響は事の次第を察し始める。
 と、山中少年はそれまでの調子から一転、元気の無い声になり、
「立花鑑連の娘なんだから……こっちに来てくれて当然だったのに」
呟くと、
「浅井七段のことにしたって……何で将棋ばっかり」
ふて腐れたようにそう続けた。
 やはり――つまり、この山中少年は鑑連のことを深く尊敬しているらしい。そうであるならば、出会い頭に喧嘩をふっかけるというまるで似合わない行動を――こうして指導を受けているからこそ解る――取った理由にも納得がいく。
「山中……ええと、なんと呼んだら?」
「山中……ヒビキ」
「え?」
 突然呼び捨てにされたのかと戸惑うが、違った。
「山中響。プロ二年目、三段」
 偶然の一致というには出来過ぎたような同名だった。
「浅井七段も中学生プロって言われてますけど、僕だって中学一年からプロでやってます」
 タネが解ればかわいらしいもので、響はこの小さな先生に、
「山中三段……改めて、先程は全くの失言でした。どうか取り消させて頂きたい」
改めて胡座を組み直し、両の拳を畳について、心から頭を下げて詫びると、
「いえ……元はといえばこちらが悪いので。本当にすみませんでした」
もう一人の小さな響も、頬を赤らめながら下げ返した。


 時間になり、山中少年の案内で向かった検討屋の扉に手をかけようとすると、正に同時に向こうから開けられ、
「あら、ダブル響じゃない。丁度呼びに行こうと思ってたんだけど……仲直りは済んだ?」
入れ違いになりかけたらしい、現れた千代が意味深な笑みを浮かべて言う。
 からかいが効いたようで、山中少年は千代の脇を通り抜けてそそくさと部屋へ入った。
「御陰様で。立花家御令嬢の碁についてもたっぷり聞かせて貰ったよ」
 可愛げのない方の響が冷やかしのつもりで返すと、
「どうせあの子のことだから、父さんの言うこと鵜呑みにしてるんでしょ」
「ああ、碁一本でやってりゃとんでもない才能だったってよ」
「父さんの与太話なんて無視するくらいで丁度良いのに。少し真面目過ぎるのよ、あの子」
「おじさん相手に定先逆コミ三目の手合いってのは?」
「まあ……碁盤と将棋盤の区別がつかないくらい酔わせれば、どうにか勝負になるかもね」
心底からの困惑が感じられる表情で。こういう点も、千代が碁をやめたかった理由の一端かも知れない。
「とにかく、紹介するから来なさい」
 お邪魔しますと小声で一つ言いながら中に入れば、先程まで居た部屋の倍は広い畳部屋に、二十代から四十代程だろうか、幅広い年齢の人間が九名、慈乃を加えて総勢十名が、二つに分かれてああでもないこうでもないとそれぞれ碁盤を囲んでいる。
 こういう光景はどこも同じようなものだ。
 などと暢気に構えていたのも束の間、
「おお、浅井君が来たぞ」
どこからか声があがると十八の見知らぬ目玉が一斉に向いた。
 礼をすると、
「ウチのヒビキがお世話になったそうで」
いきなりの先制パンチを食らう。
「いや、彼も本当は良い子なんですけどね、それ以上に立花先生の信者なもので。浅井君の事が羨ましくて仕方ないんですよ」
「そうそう。先生が四六時中響が響がって君のこと話すもんだから、自分もヒビキなのにって、延々愚痴っててさ」
「おまけにほら、王竜戦のアレ、先生が初めて本因坊獲った時のなんだろう? そのこと知ってからはもう完全に拗ねちゃってね」
「今日なんて、朝からずっと『旦那の浮気相手を家で迎え撃つ妻』みたいな感じだったし」
「朝一から二階で張り込んでんだもん……正直引くレベルだっつーの」
 方々から飛んでくる笑い声のどれもが山中少年をからかうもので、黙り込んで盤を睨むしかできない本人は泣きたい程だろう。
「父さんのお弟子さんとか、研究会の人たちだから、紹介するまでもなかったかしら」
 そう耳打ちされると、知らないところで何を語られているのかと不安になる。
「山中君は今日一日君の専属だと思って良いからね。何でも良い、得る物があるならどんどん盗んで行って下さい」
 最年長らしい人物に言われ、
「いえ、やはり検討の邪魔になりますから。今日は大盤の方でお世話になろうかと」
本来ならば今ここに居ることも場違いであると辞退しようとするも、
「遠慮する必要は無いですよ、先生からも言われていますから……立花門下の一員としてしっかり学んでいくように」
千駄ヶ谷には一人もいない兄弟子が、隣の家で知らぬ間に増殖していた。