十の四

 肩を揺すられて目覚めると、
「響ちゃん、もう十時になっちゃうよ。早く起きないと朝ご飯片付けちゃうってよ」
慈乃の顔が鼻先三寸のドアップで映った。布団の脇に入り込んでいる。
「ちけえよ」
「よだれ、垂れてたよ」
「寝てんだから仕方ないだろ」
 酒の残りに重たい頭で口元を拭い、朝食抜きの危機を考えれば悠長にもしていられない、早々に布団をたたみ洗面所へ。
 ――昨日の世界棋王戦にて鑑連が見事な勝利を収めると、夕方から祝勝会にかこつけた一門の飲み会が行われた。
 兄弟子行きつけの店に入ると、大人の週末動物園(土曜開催)帰りの銀乃介とばったり出くわして合流。以前からの呑み友達だという兄弟子曰く、元々は銀乃介と飲み歩いていた時に見つけたということであるから、むしろ必然であったろう。
 以降、鑑連の勝ちっぷりもあってか、最年少十三歳の山中少年までもが進んで酒に口をつける程の盛り上がりは、流石に店に迷惑になるだろうという騒がしさになってしまうも、総員飲み足らないという意見は一致、いっそのこと立花家でオールしようと銀乃介が言い出すと、珍しく酔いの回っていた千代もそれを受け入れた。
 慣れた我が家に酔いが深まれば碁盤将棋盤が入り乱れ、誰が言い出したのか千代を相手に十目一枚の脱衣碁までもが始まる始末。酔いと情けが加わっての事だろうが、本職相手の早碁で結局一枚も脱ぐことのなかった千代の姿は、例の山中少年の発言も満更嘘ばかりではないのか知れないと思わせるのに十分と、かくの如き激しい酒池肉林どんちゃん騒ぎは日付が変わっても一向に収まらず、果たして何時まで続いていたのだろうか、最終盤に関しては響も全く記憶が無い。――
「みんなは?」
 洗面所へ向かいながら尋ねると、
「碁の人たちは朝方に帰ったみたい。あと、お父さん達がさっき帰って来てね、銀ちゃん叩き起こして呑み始めてる」
「朝一帰宅で即酒かよ……おじさんも少しくらいゆっくりしてくりゃ良いのに」
「今日は日曜だもん。放送協会杯、響ちゃんの二回戦じゃん」
「見たけりゃ録画で十分だろ、結果知ってんだから」
「午後からはお父さんの二回戦なんだって。酔っぱらったら語り始めるだろうから、覚悟しといた方が良いかも」
 囲碁組が揃って逃げ出したのはこの展開を見越していたのだろうか。あれだけ呑んでは流石に彼らも酒が残っているだろうし、いかな本職とは言え酔っぱらいの碁講釈を延々と聞かされる余裕は無かっただろう。況んや素人の響に於いてをや、である。
「飯だけ食ったらアパート戻ろうかな」
「うーん……今日の調子だと、逃げても呼び出しかかっちゃうと思う」
「何でさ」
「今日は一人祝勝会で一日呑むんだって、でも本当に一人じゃ寂しいから、響ちゃんたち呼び出すって、帰って来て第一声がそれだったもん」
「ったく……ひでえ決め打ちだ」
 昨日の格好良さはどこへ行ったと言いたくもなる、鑑連を先生とは呼べない理由がここにある。
「大体、ここで銀ちゃん見捨てたら後が本当にめんどくさいよ?」
「まあ、だろうな」
 こうなってはもう腹をくくるしかない。洗顔を終えた頬を一つ軽めに張った。

 午前の将棋は特に荒れる局面も無く一本調子のまま終了。見せ場といえば少しばかり寄せが複雑だった辺りであろうが、如何せん響が無表情で淡々と指しきったもので、解説も盛り上げようがないといった雰囲気。テレビは点けていたものの、酒のつまみになることもなく、一応用意しておいた将棋盤には駒すら並べられることもないまま、番組は両界の棋戦情報番組へと切り替わった。
「今週は碁だっけ?」
「碁回の方が女綺麗な分見てて楽しいよな」
「千代達が行った分そっちの方が勝ってるだろう」
「親バカっつーんだよ、そういうのは」
 好き放題に言いながら、こたつに潜ってあたりめなんぞをちゅーちゅーしゃぶる三人組。日曜の昼前からこの状態では人として最底辺の誹りも免れまい。
 番組では鑑連がタイトルを防衛した先月の対局が取り上げられており、七大タイトルを通算六七期獲得という記録について云々と語られているが、
「昨日は幾ら負けたんだ?」
本人はそんな事など知ったことでないという風に、銀乃介に土曜競馬の戦果を尋ねており、
「十六、七かな。今月スカンピンだ」
とてつもない額を平然と答える銀乃介も正気でない。
「なんだ情けない、どうせなら百万くらい負けて来い」
「無茶言うなっつーの」
「私も付き合いで一度だけ買ったがな、万馬券に百万突っ込んで大負けしておいた。御陰でその後はすっぱりやらずに済んでいる」
 銀乃介は感銘を受けたように、なるほどなあとしみじみ呟いたが、間違っても良い話ではないだろう。そもそもまともな競馬ファンであれば百円の応援馬券でも楽しめるものだ。
 呆れ半分で聞いていると、
「響も今度連れてってやろうか? 代理で買ってやんぞ」
「社会勉強としては悪くないかも知れないな」
「いや、犯罪だって」
酔っぱらいの戯言にしても大概である。
『立花名人本因坊の名は間違いなく歴史に残るでしょう……歴代家元、道策や丈和と並べても何ら見劣りしない、本当に偉大な方です』
 テレビから届くコメンテーターの発言は、響がこうして立花家に入り浸っていなければ同意できるものだったのだろうか。しかし碁界における超人としての鑑連より先に、目の前の酔っぱらいを知ってしまった身としてはどうにも共感しかねる。
 そうしているうちにも番組は進行し、
『さて、その立花名人本因坊ですが、昨日の世界棋王戦でも見事勝利し、四強戦への進出を決めました』
と、昨日の今日で話題に上った。
『今大会では特に不振の日本勢ですが、正に日本の碁を背負っている方ですから。是非ともこのまま優勝して頂きたいですね』
『情けないですよ、立花君一人に任せきりの現状では実に情けない。若手も何をボヤボヤしているのか、さっさと彼を無冠に叩き落とすくらいのことをせんといかんよ』
 碁界の長老らしい、白髪頭の老人が言うと、銀乃介が、
「威勢の良いジイサンだな、もう八十近いんだろうに」
気持ちの良いものを見たとでも言いたげに、笑い混じりである。
「鍋島先生か……私に引退させられたようなものだからな、言いたくもなるだろう」
 酔っぱらいらしい懐の深さかと思いきや、
「尤も、私なら十八の若造にタイトルを奪われるような下手は踏まんがね」
返す刀でばさりと斬り落とす。鼻の頭が酒で赤く染まっていなければ、立派に渋い男の姿であったろうと惜しまれる。
 つくづく損な出会いをしたものと思うと同時に、この距離感が有難いとも感じてしまう複雑さ。吐きたくなった息の代わりに、手元の酒に口をつけて紛らわしていると、
「響は、昨日どうだった」
問われてしまい、実物の顔は見ないままに、
「足りないモノは十分に解ったよ」
尊敬できる非実在師匠の姿を心の中に浮かべながら答えた。
「そうか……ならば後は自分でどうにかしろ」
 普段の振る舞いはともかく、勝負師としてはこの上ない師がついているのだ。ここまで助言を貰っておいてこの上おめおめと負け続けているようではそれこそ無様と、
「ところで、小刀とかある?」
「小刀……碁好きの刀工がくれた小脇差ならあるぞ」
「じゃ、次の時にちょっと貸して」
必勝の意気を身に刻む覚悟は、響の内に既にある。