『想定通りの流れ、ここで浅井が十分ほど時間を使って封じ手を選んだ。控え室の予想は8六歩で統一されている局面、迷いが無いだけに初めての封じ手体験としては気楽で良いだろうという見方だった。
「封じ手間違えた例ってホントにあるんですかね」
 と、乾四段が呟いた。
「間違ってないか気になって夜眠れなかったとか?」
「実際はどうなんだろう」
 言い合いながら、碁盤を挟んでいる本因坊と小寺二冠に視線が向くと、
「よっぽど緊張していても、無いでしょう。書く時もそれなりに時間かけるだろうから」
と、本因坊。
「若手ビビらす為の爺さん連中の作り話なんと違うかなあ……ねえ、師匠?」
 小寺二冠は京極九段をからかって遊んでいる。
「一回試してみたことあるけどなあ、全く効果無かったで」
 しゃあしゃあと返す京極九段もさすがである。
 ――誰で試したんですか?
「島津君のお師匠さん」
 結城九段との二日制となるとどうやら三十八年前の棋将戦らしい。三十九歳のベテラン京極九段に二十七歳の新鋭結城九段が挑んだシリーズはフルセットの激戦となり、結果は結城九段が初タイトルを獲得している。
「ウチの師匠っすか……なんか、却って本気以上の力出されそう。キレるっていうか」
「せやねん。クソ真面目な人やから、カド番追い込んどったのがボコボコに逆襲されたわ」
 下手な駆け引きは要注意、ということだろうか。封じ手にはドラマが多い。(続く)』


 高野の夜、窓の外に近い月を見て、羽織りと袴だけ外し、長着のまま、布団の上で胡座を掻いて目を瞑る。目蓋越し淡い光を感じながら、流れを振り返るのでなく、先を読むのでもなく、ただ気を切らさないようにと、指し掛けの盤面を想う。
 浮かべた盤面に差す明かりの加減、時と共に海の底へ潜るかのように深さを増す青みが、やがて頂点に達すると反転し、今度は水面へと浮かんでくる。青が消え、白一色となれば目蓋の隙間から虹が見え、昨日聞いた明け六つが彼方から届く。
 それは一瞬の出来事だった。今日と昨日は別たれなかった。
 響にとってはそれこそが重要だったのである。


 ――後8六歩――