角金交換となった5三歩から玉を釣り出されている。角を切る見返りとしては足らないと考えるのが普通だが、或いは圧倒的な終盤力を誇る竹中にはこれで十分という事か。彼の布都の一振り八丁念仏の鋭さは既に一度叩き込まれているが、なればこそ、前へ出て身を躱す以外に道が無い事も知っている。畢竟どこからでも来るというのなら深さがあろうと顔面だろうと変わりなく、跳ね出してきた左桂からの攻めも真っ向から受けて立とうと、言葉の代わりに玉を前へ。
 不思議なのは身が震えない事である。奨励会からプロに入ってこの方、危険な躱し方は好む方でなく、致し方ないという局面にあって、丁寧すぎると言われるまでの、あらゆる可能性を全て塗り潰すベタ読みで、十分に無事を確かめてから指すのであっても、その道を選ぶ際には心底から凍えるような気分であったのが、今日はまるで震えない。
 感覚で剣先一寸の間合いを完全に見切る白刃取り――今ならば出来る。
 それは確信であった。

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 大盤の駒を動かしながら、千代はふと昔の事を考えていた。
「――と来まして、今のこの形ですね……一通り説明も終わりましたし、少しお客さんに聞いてみましょうか」
 高校二年の冬と言えば、自分は三段リーグに初めて参加した頃だったか。女性初の快挙は男にしても早い方だと周りからは誉められるばかりだったが、当時の自分と同い年の響は今、既にタイトル戦の舞台に立って、互角以上の戦いを繰り広げている。
「現状先手が良いと思う方、どうぞ手を……ひいふうみい……やっぱり大勢いらっしゃいますね。何と言っても竹中名人ですから、「難解なら取り敢えずの竹中持ち」なんて言葉がプロの間でも本当にあるんですよ。十分有り得ると思います」
 奨励会には研修会時代も含めて十年在籍、平均的と言えば平均的かも知れない。鑑連の繋がりから結城九段に弟子入りし、碁の経験などは殆ど何の役にも立たない世界だったが、碁を打つ時間を丸ごと将棋に換えたら、積み重ねる速度は他よりも確実に上になった。
 奨励会に上がってからも、「女は女流制度があるから気楽で良い」という声が絶える事は無かったが、そういう人間を実力で黙らせていくのが快感だった。女流にならないのかという誘いの声は、勝ち星を固めて昇級していく中で薄れていき、入品を決める頃には完全に消えていた。
『仮に四段になれなくても、女流じゃなくてアマとして指してくれ』
 三段リーグ在籍中、退会して去っていく仲間から、かつては女ということに散々厭味を言われた人物だったが、その人物からそう言って貰えた時、当時は照れ臭さが勝り「嫌だ」と笑って返したが、初めて、心の底からこの世界で生きていきたいと思った。
「じゃあ次に後手が良いと思う方……あー、やっぱりそうですねえ……うん、どうしても後手の歩が先手陣に迫ってますから、よく見えますか」
 銀乃介と出会ったのは中学一年の頃。どうにか四級まで這い上がった頃だったか、夏の将棋祭の対局コーナーで、棒銀しか指さない癖に無茶苦茶に強い変な素人中学生がいると話題になっていた彼から、女でも入れるのだから奨励会なんて大した事ないと吹っ掛けられて、コテンパンにしてやったのが出会いだった。その後はやたらとつきまとわれるようになり、気が付けば弟弟子になっていて、追い着かれないように必死になったが、結局はあっさり追い抜かれた。
 それでも、銀乃介はまだ良い。口では適当な事を言いながら、影では人一倍将棋ばかり指している事を知っている。将棋指しが将棋に時間を使うことなんて当たり前なのだから「一日にどれだけ勉強している」なんてことを話題の種にはしたくないと、そういう言葉を当たり前のように吐くタイプであるから、まだ救われる。
「控え室でも、後手が良いかなという話を先程までしていたんですが、どうでしょう……最近調子悪いみたいですし、ここからどう崩れるか解りませんよ。なので竹中名人持ちの方はまだじっくりと、それこそ第一局の7七桂みたいな手が飛び出るかも知れませんし」
 慈乃などは憎悪すら覚える。あれほど将棋をバカにしている人間は内でも外でも見た事がない。もしも妹でなければ、顔も見たくないと、面と向かって言っているだろう。
 と同時に、妹だからこそ、身内だからこそ、諦めもつく。慈乃レベルにまで狂った存在であれば、『神の世界設計に生じたバグ』なのだとも思える。
 しかし、響はそうではない。あくまでも真っ当に、人間として、圧倒的に強い。
「浅井七段は将棋を離れれば普通の高校生なので、これくらいなら言っても大丈夫です」
 会場が笑っている。プロになってから将棋よりも話術ばかり巧くなったような気がする。
「あっさり決まってしまってもわざわざ山を登って来て下さったお客さんに悪いですから……敢えて後手の悪い所を言っておきますと、ちょっと玉が怖いんですよね。一応形にはなっていますが、どうもうわずっている感じで」
 自分がこの将棋を指せるだろうかと考えれば、答えはとうに出ている。現名人位を相手に相掛かり後手など、持つ度胸も、資格も、最底辺でもがいている自分には与えられない。
「今日の浅井七段は積極的というか、随分と命知らずな感じで。普段は割と、自陣の奥で陰気に籠もっている王様なんですけど、竹中名人に巧く釣り出されているのもありますが」
 その癖一丁前に解説しているのだから、一体何なのだろうか。
「では、ここからは小寺二冠にもお話を伺いましょうか。西ではヒーローでしょうから私が言うまでもありませんが、皆さんどうぞ拍手でお迎え下さい」
 こうして人前に出る事が本当はたまらなく怖いと言ったら、センチメンタルだと笑われるのだろうか。自分がこうして普及の場に立つ度に、所詮客寄せでプロになった女と陰口を叩かれているようで、成績が悪くても女というだけでチヤホヤされていると馬鹿にされているようで、怖いと言ったら。
「どうもどうも、毎度毎度の大入り大入り、おおきにおおきに。いやあしかし、名局やで、こりゃ立会人が良かったんやろな、間違いないで」
 父は決して口に出さないが、早くこの世界から足を洗って欲しいと考えているのだろう。父が響を可愛がってみせるのは、自分に対する勧告のような意図もあるのだろう。それは心底から娘を愛してくれているが故の行動なのだろう。
 そしてその事を響に伝えれば、くだらないと一言で済ませるだろう。
「それで、次の一手とかやるん?」
「そうですね、そろそろやろうかって感じで」
「景品もあるらしいから、本気で当てに行った方がええですよ……どうせしょっぱいモンやろうけど、わざわざ山登って来て下さった記念くらいにはなりますわ」
 小寺の調子の良い喋りに沸く会場の笑い声を遠くに聞きながら、ふと、負けてしまえば良いと思っていた。そう簡単にいくものではないことを思い知れと、普段は内側に押さえ込んでいる卑屈が表に浮かんだ。
 どうも今晩は自棄酒になりそうだ。
 モニターに映る対局室の響が、千代には果てしなく遠く映る。
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 ――先6九玉、後7五歩、先4五歩、後同桂、先同桂、後同銀、先3七桂、後5六銀、先同銀直、後同歩、先4五銀、後4七歩成、先同金――