『先手は攻め駒を増やす為に左桂を7七に活用してきたが、後手は玉ごと前に出してでも跳ねさせない構え。こうなると、むしろ後手が7筋の桂頭から攻め易くなったが、先手は捨て身の地獄突きを見せそう簡単に土俵を割らない。
 両者一歩も引かないまま、じりじりと間合いを詰め合う。
「あのヘタレが、よくここまで腹くくったもんだ」
 怖い怖いと言いながら、しかしその目が楽しそうな島津七段。
「相手の刀が鼻先掠めるくらい、ギリギリまで踏み込んでる将棋ですよ。これで勝ったら格好良いですね」
 なるほど、この盤面は正にそういう将棋だ。形勢としては後手が有利だろうが、先手もしっかりと一撃で終わらせる体制を整えてきている、どちらかが相手の気迫に呑まれた手を指せばその一瞬で決着が付くだろう。
 控え室では、一見7六歩と突く手もありそうだがこれは王手飛車まで一直線、素直に5七歩成だろうという方向でまとまった。同金、同角成、2三飛成と先を取られても4三歩があり、或いは、同金とせずに2四飛と切って来る手もあるが、後手が悪くなる変化とは見られていない。悩む所では無いはずだ。(続く)』


 ここは5七歩成、或いは7六歩という手もあるだろうか。
 7六歩と突くのは、同銀、同飛、5四銀、同玉、5五歩、同銀、2四飛と切って同歩に6五角の王手飛車まで一直線。飛車を取らせることで手番が回ってくるが、どうにも即詰みがある形とは見えず一手一手でこちらの負け、紛れの無い流れだけに指せない。残った5七歩成は同金とするなら同角成、2三飛成と先手を取られ4三歩合が効くが、この変化を選ぶようなヌルい相手とは思えない、同金とせず2四飛と切って来るだろう。同歩から難解、一見こちらに良くなりそうだがアヤが多く紛れる可能性も高まる、玉をつり出されているだけ分が悪いと考えた方が良い。
 いつもより軽く、あくまでも流れを確認する程度の読みはほんの数分のうちに済んだが、しかし盤上を眺めているうちに、全く違う閃きが輝きと共に脳髄を貫いた。

 今まで、重要な局面では殆どベタ読みに頼っていた。仮に感覚の一手が浮かんだとしても、その変化を読み切ったという確信を持てなければ、強手は指さず引いて構えた。そのやり方で勝ち上がれる能力が異常なのだと銀乃介などは言うが、響からしてみれば、感覚に頼った一手を指し、かつそれで勝ちを重ねられる他の人間が異常に思えた。彼らは感覚という不確かなものに頼ることやそれによって引き寄せてしまうかもしれない敗北の存在を恐れないのだろうか。いつもそう思っていた。
 今ならば、解る。力任せのベタ読みだけでは辿り着けない次元というものが、将棋には確かにあるのだ。
 多くの棋士は力任せの限界を奨励会で迎え、実戦経験の中で培われる感覚の鍛錬に目を向けるが、響は力任せの勝利を可能にしてしまう器用さ故に、勝利に対する異常なまでの執着故に、敗北を死と同じほどにも捉えることから来る恐怖故に、盤上の感覚という存在を、好ましくない不確実性として、無意識のうちに封じ込めていた。
 しかし、将棋指しにとって、感覚という曖昧な存在は、同時に最大の武器ともなる。
 一切の我執を放棄し死を見つめ受け入れる。およそこの世に存在する最大の恐怖を乗り越えた事で、響は本来有していた無限の熱量を解き放った。彼がこれまで練り上げてきた剛力によって、その身を縛り続けていた鉄鎖は完全に引き千切られた。
 ――後5七桂――
 即ち、腹に刻んだ十文字が、棋士にとって真の武器となる存在を、心神に祀る一振りの刀を、響の将棋に宿したのである。