十二の二

『――さて続きましては最近お馴染みとなった将棋の情報、棋界最高峰タイトルの王竜戦、高校二年生にして挑戦者となっております注目の一六歳、浅井七段の話題です――』
 昼下がり、千駄ヶ谷会館の会長執務室には連盟会長松永久秀の姿があった。主婦向けの情報番組にチャンネルを合わせたテレビでは、ちょうど王竜戦の話題が流れている。
『本シリーズではスタートダッシュに失敗し二連敗、このままストレートかとも危ぶまれましたが、第三局、今映像が流れていますね、この高野山血戦を制してからははっきりと復調、第四局も連取して二勝二敗のタイに戻しました。
 その後第五局は王者竹中名人の意地が炸裂、二百手を超す長丁場を落としカド番へ追い込まれますが、先日の第六局でまたも星を取り返し逆王手、泣いても笑ってもこれで決着の最終局は再来週、新潟県内の旅館で行われます』
 将棋というものが大衆の娯楽から忘れ去られようとしている現代において、このような扱われ方はいつ以来だろうか。松永の脳裏にそんな考えが浮かんでいた。
 テレビの画面には第三局高野山の対局室、顔面を深紅に染めた響と竹中が睨み合う映像が流れている。
『将棋ってのは凄いもんですねえ。近頃は格闘技なんかを見てても、何だかなあって感じなんですが、この映像を見てると興奮しますから。覚悟が違いますよ、気迫が。私は親父と打った程度ですが、これを見て久々にやりたくなっちゃって、盤駒をね、ちゃんとした物を買ったんですよ。そうしたら、駒の動かし方を忘れちゃっててね、ひどいもんです、一から、初心者用の入門書を買って勉強してます……どうです、斉藤さんなんかは、ウン十年も前から趣味将棋でしょ、どうなの、最近のこのブームは』
 お笑い芸人出身の司会者が言う。実際、棋書の売り上げは十倍以上に跳ね上がっているとのことで、増刷が間に合わないという、印刷会社の嬉しい悲鳴が連盟にも届いている。
『そうだねえ、近頃じゃ若い人が指すんだよ、今時の格好したさ、僕なんかが見るとだらしない格好なんだけど、そういう子たちが将棋指してるの。
 僕は昔から、休みの日は道場通うのが日課なんだけど、むさ苦しい連中ばっかりだったんだ。でも近頃じゃ、若い子が指しにくるようになってさあ。女の子もいるんだよ、それもジョシコーセー、びっくりしちゃった』
『へえ、良いなあ。私も道場通ってみようかな。女子高生なんてねえ、もうビデオに出てくるようなパチモンしか見られない年だから、フトモモが恋しくて……いや失礼、これ昼の番組だったっけ。マリちゃんなんかはどう? まあ、モデルさんは将棋やらないよね』
『やりますよ。昔お父さんと指したこともありますし、定跡とかを本格的に覚えるようになったのは最近ですけど、インターネットで毎日指してます。私はね、群馬の出身なんで、四間党を目指してるんです』
『なんか専門的な事言ってるけど、群馬出身だと四間党ってヤツになるの?』
『そうですよ、群馬生まれは四間指さなきゃダメなんですよ』
『さっぱり解らないや。っていうかシケンって何、斉藤さん教えて』
『左から四マスの地点に振るのが四間飛車。なんで左から数えるかっていうと、振り飛車は元々後手番専用の戦法だって考えられてたかららしいよ、後手だと4筋に振るでしょう……どこで聞いたか覚えてないし、本当かどうか知らないけどね。群馬が四間ってのは、四間の革命起こした振り飛車の神様が群馬の出身だからでしょう』
『へえ……で、具体的にはどういう?』
『……話すと長いけど、ま、女子供は飛車を振りたがるという理解で間違ってない。要は適当にやっても形になる戦法なんですよ』
『適当に振っても形になるなんて、何十年前の将棋ですか。最近の振り飛車は序盤だってシッカリしてるんです、その流れを作ったのが群馬の神なんです。後手の時だけ何となく3四歩ついてから相居飛車はメンドイし角道止めて振っとこうかな、みたいなファミレス四間とは違うんです、老舗の味を目指してるんですよ』
『まあご立派だけど、どうせ定跡覚えるのが面倒臭いから適当に飛車振ろうとして、手軽なのが四間だったって程度でしょ?』
『私は先手なら石田もやりますよ、居飛車はおじさん臭いからやらないけど……居飛車を指したがる人って、なんかそれだけで加齢臭しそうだもん』
『居飛車がおじさん臭いっていうのが、いかにもガキだね。居飛車は男の浪漫だよ、2六8四を突けるかどうかで男の価値は決まるんだ』
 モデルをしているのだという、いかにも現代的な女が将棋について熱く語る珍妙な映像。芸能人など何を語るにも腹でソロバンを弾いているのだろうが、将棋を語れば利になると踏んでいるその判断を見れば、今将棋がどれだけ注目されているかも解る。
『いや、もう、訳解らないことを二人で話始めちゃったけど、本当に将棋凄いね。今までこの番組でも散々色々なブームを取り上げてきたけど、今回はそういうのとまた違う気がする。日曜午前中の教育テレビ、近頃じゃ視聴率二桁が当たり前になってきてるって』
 司会の男が語ると、アシスタントのアナウンサーがフリップボードを取り出した。放送協会杯の視聴率グラフだろう、直近のところで垂直に近い角度で跳ね上がっている。
『日曜午前中ですからね、日曜の午前中に、最高で十八パーセント、最近じゃゴールデンでも滅多に見ない数字ですよ、異常ですよ、しかもそれが将棋ですよ。日曜の朝から外に出ないで将棋見るなんてこの国どうかしてるんじゃないの、って言いたくなりますね』
 王竜戦第三局直後、流血騒ぎを面白おかしく取り上げるメディアの中で放送された放送協会杯二回戦は、会長権限で予定を繰り替え、響が解説に呼ばれた加藤八段と島津七段の一局を重ねた事が功を奏した数字である。その後もコンスタントに二桁の数字を叩き出し続けているというのだから、浅井響という特定の存在だけでなく、将棋全体が注目されている事も間違いない。
『だって本当に面白いんですよ』
『けど、素人じゃ見ても解らないでしょ?』
『いえいえ、プロの方が解説してますから。それに盤面解らなくても裏話とか聞けるだけでもうたまりません。少しでも将棋指すようになると、プロがヒーローに見えてくるんですよ、プロ棋士が世紀末救世主みたいに見えるんです。日曜朝から駒得気分ですよ』
『また訳の解らないことを……マリちゃんオタクっぽいよ』
 松永にとって、いや連盟にとって、高野山での流血騒動は僥倖だった。
 現役高校生のタイトル挑戦というだけでは、一時の話題として取り扱っては貰えても、一般生活に将棋を根付かせるまでにはあまりにも足りない。ましてや当事者があの六角に瓜二つの無愛想な弟子と来れば継続的な報道には至らなかっただろう。しかし、あの流血があった。将棋における普及の欠点、即ち素人が理解することの難しさという点を補って余りある――一目人を惹きつけることができるキャッチーな事件、インパクトのある視覚効果――あの高野山の事件は、広告に求められる全ての要素を完璧以上に満たしていた。
 だからこそ、この機会を逃す訳にはいかない。
『私みたいな女のコト、今はフジョシって言うんです』
『フジョシ、腐った女って書くヤツ?』
『それはホモとかが好きな人で、婦女子と引っかけてるのは同じだけどこっちは歩、将棋の歩にひっかけて歩女子。今の世の中、歩女子が最先端なんですよ』
『へえ、最先端か。そういえば、女性でプロをやってらっしゃる方もいるらしいし。将棋といえば男の世界ってイメージだったけど、凄いなあ、今は女のコも将棋なのか』
『電車の中とかでもねえ、本読んでる人をチラっと見たら、それが将棋の本だったりする。良い時代になったなあって、僕なんかは思いますね』
『なるほどねえ……で、王竜戦というヤツ、次でいよいよ決着ということで、まだ再来週まで日はありますがここで皆さんとおさらいしておこうとまとめてありますので――』


 テレビの中で調子よく語る司会の男の声に被せるように、執務室のドアが乱暴なノックと共に開けられた。
「邪魔するぞ」
 ドカドカと音を立てて入ってきたのは二十一世・二階堂秀行である。
「なんだ、辛気くさいツラしやがって。兄弟子が来てやったんだ、茶くらい出さんか」
「今の私に茶汲みさせられるのなんてアンタくらいですよ」
 と、苦笑しながらも松永はしっかり茶を用意する。半世紀近く付き合っているのだから抵抗のしようがないことも身に染みていた。
「十兵衛の孫か。最近よくテレビに出ている」
 テレビでは第三局の5七桂という手について解説がなされている。
 流血沙汰だけでなくこうして盤面にも触れるようになったのは報道が一週間も過ぎた頃。視聴者たちもただのバカではないということだろう、鼻血だけでなく将棋の中身についても解説して欲しいという声がいつの間にか大きくなっていたと、報道関係者からは聞いている。
 一過性のブームで終わらせない為にはこの上ない流れを間近に見、内心で喜びながらも、
「浅井響は浅井響。高校二年十六歳のB級二組で王竜挑戦、棋界の大事な金の卵ですよ」
しかし返す表情は、知れず堅くなっていた。
 二階堂はふんと鼻を鳴らすと、
「そんなに意固地にならなくても良いだろう、現に十兵衛の孫が金の卵なんだ」
からかいを隠さない言い様である。
「軽々にその名を出さないで下さい。知らない人間にわざわざ聞かせる話じゃない」
「隠そうとするから却って滑稽なんだ、お前は寝小便したガキと同じさ」
「なるほど確かに。なら、秀行さんや六角さんは十兵衛の女って訳ですね」
 言い放った瞬間に、瞬時にして色の変わった、獰猛な眼光が突き刺さると、松永は俄に乱した平静を取り戻す為の一呼吸の間を置いてから、
「少しは二十一世という立場を自覚して頂かなければ。貴方や六角さんは既に将棋の歴史なんですよ、生きながらにしてね」
決して圧に竦んだ訳ではないということは、堂々とした態度から溢れる余裕で解る。
 いかに二十一世を相手にしているとは言え、松永は自身の棋力を侮っていない。見せないことにこそ、演じてみせることにこそ、松永という人物の怖さがある。笑顔の裏、握手の逆手には、必ず一撃の毒刃を隠しているのである。
「こんな世界で育った癖に、一体誰に似たんだか……お前は少し真面目過ぎる。ここまでくりゃあ先は長くもないんだぜ、ちったあ気楽に生きてみろ」
 弟弟子の性質など知り尽くしている二階堂もまた、これ以上踏み込もうとはしない。
 いつの間にか将棋の話題を終え騒がしいだけのものとなっていたテレビを消すと、室内は午後の温かな日差しに伸びた二つの影が静かだった。
「良い天気だ……久々に鳩森でも参ってくるかな」
 窓外を眺めながら、ふと漏れた二階堂の呟きに、
「今更神頼みするほどに追い込まれているのなら、取りやめても構いませんよ。年明けになりますから、今から探せば代わりも見つかるでしょう」
知らぬ人間が聞けば解らないだろう、真剣なふうを装って人をおちょくるのは松永の趣味でもある。
「一日座っとる体力が無くなったから引退しただけのことよ。半日で指すなら、今のAのメンツは余裕で勝ち越せる」
「そりゃあ初耳ってやつですよ。しかしまあ、そういうことなら、テレビ棋戦限定で復帰してみますか? 無論予選から出て頂きますが」
「テレビ用のじゃ短すぎて将棋を指した気にならん」
「あっちじゃ長いこっちは短いですか……年寄りなんだから、アンタももう少し可愛げを持ちなさいってね」
「なんのなんの、アッチもコッチもまだまだ現役よ」
 ハッハッハ、と豪快に笑いながらマッチを擦り煙草に火を点ける、その仕草に、松永はふと嘆息した。
 半世紀。言葉にすれば一言、しかしその間にどれだけの時があったであろうか。自身の筋張った手の甲を見れば、老いと共に身に付けた賢さが重なるようである。しかし目の前の、十は上の、あとは死を待つばかりとなった老人の、自身よりも明らかに老いた枯れ枝のような手からは、何故か若々しさすら感じてしまう。
 憧れなのだった。勝負とは別のところで、この兄弟子、その生き様に、松永は心底から憧れていた――
「昨日、浅井君に会いましてね。老いぼれ相手でも油断するなと言っておきました。連盟の宝が引退棋士に負けるなんて、大損失ですから」
「こっちとしても、ジジイと侮ったから負けたなんて勝負はしたくねえな。十兵衛殺した才能だ、しっかり味わっておかにゃ死にきれん」
――だからこそ、十兵衛と、その名を聞いた時には一瞬計算を忘れる。
「勝って下さいよ」
「なんだい、言うことが変わりやがった」
「勝って、いい加減悪い夢から醒めて下さい。何度でも言う、貴方が二十一世なんだ」
 あくまでも淡々と、内の昂ぶりを表に出すような事は無い普段通りの口調は、二階堂で無ければその真意を測りかねたろう。
 二階堂は苦笑した。
「まったく、器用なんだか不器用なんだか解りゃしねえ」
「情の厚い人間ですから、基本的には」
「まあ、安心しろ。ワシの強さは手前が一番良く知ってるだろう」
「嫌という程」
「構想は仕込み済み、仕上げをとくとご覧じろ、ってな……ビックり仰天は約束してやる。開祖の師匠もあの世で驚く、そんな新手だろうぜ」
 開祖の師匠、という言葉に松永の眉がぴくりと反応する。
「横歩、ですか?」
「後手8五飛が流行りすぎてなあ、どうも見てて面白くねえ。前々からぶっ潰してやろうと思ってたんだが、良い機会だから放出してやる」
「8五飛って……アンタが引退した後で流行り始めた戦法でしょうに」
「引退して時間が経ったら銀腹に効きが出来るんかい? 問題なんざありゃあしねえよ」
 これだから、これだからこの人に憧れてしまう。
 勝負において圧倒的に強かったという訳ではない。勝率、勝数、タイトル数、現役時代の成績ではどれを取っても六角には及ばない二階堂であるが、しかし二階堂秀行その人を誰しもが二十一世名人と認める理由はここにある。
 常識を越える新手を、魔法のようにひねり出してみせるのだ。
「解りました。通例なら新人王が先手ですが、こちらは引退棋士、あっちは現役タイトル挑戦者、ならば先手は貴方が貰うことにしても問題ありません……あとはその場で『老いぼれに横歩取らせる度胸もねえか』とでも焚き付けて下さい。そういうのは得意でしょう」
 現役バリバリの人間ととうの昔に引退した老人の手合い、その上、現代将棋の最先端は一年あれば定跡がまるで変わっているような戦型で挑むというのだから、先手を貰う程度のことは盤外戦に入るまい。
 松永としてはそう考えて口にした提案だったが、二階堂の返答は予想を遙かに超えて、
「後手なら後手で色々用意してあるぞ。手損角換わり、近藤流五筋位取り中飛車、角交換型四間、どれもこれも自信作よ……お前が横歩見たいってんなら任せるが」
新手なんぞ幾らでも用意してあると、現役が聞いたら涙目になって抗議してきそうな内容をあっけらかんと言い放つ。
 昔から、特にマスメディアの前では良い格好をしたがる人間ではあったが、身内の前でわざわざ虚勢を張ることもないだろう。
 ハッタリではない。
 今更ながら思い知った兄弟子の化け物ぶりに、松永の吐いた息は感嘆を通り越して呆れにまで達しており、
「頭の中に隠してる構想、お迎えが来る前に全部吐き出してって下さいね」
悪態をついてみせたというよりも、心底から漏れた言葉である。

「そうそう、一つ言っておく事があった」
 帰り際、思い出したように口を開いた二階堂に、
「何です、こっちは忙しいんですから、用件があるならさっさと伝えて下さいよ」
応じる松永は、いつまでも話し込んでいるわけにはいかないということだろう、言葉通り書類に目を通しながらである。
「ったく、人が話してる時くらいは作業やめられんのか」
「本当に忙しいんですよ。夕方からは文科省で補助金絡みの説明して、今週末は新人王の表彰式もありますし、その上に王竜の件もありますから。取材やら何やら、例年の倍以上処理しなければならないことが出来ましてね、浅井のお陰で嬉しい悲鳴です」
「浅井……浅井か」
「何です。また例の話ですか」
 役人への説明用にまとめられた書類を舐めながら、細まった目は文面に散りばめられた細かな数字のせいなのか、それとも、それによってうまく内面が隠されていると見るべきなのか。いずれにせよ、松永は二階堂へ向き直ろうとしない。
「お前はよ、ちっとばかし誤解してんだな」
 一息の間に響いた、書類をめくる音は冷ややかであったが、二階堂は気にとめず言葉を続ける。
「確かに屈辱だったさ、背負ってたモンに傷をつけたってのも感じた……でもな、十兵衛と指す将棋は、少なくともアイツと盤挟んでるその時間は、そんなモンどうでも良くなるくらい有り難かった。源太のこたあ知らねえが、ワシにとっちゃあ至福の時だったよ」
 松永は書類から手を放すと、疲れた目を労るように目蓋を揉んだ。暗い視界に見えてくるのは、田舎の初夏、行燈の明かり揺らめくほの暗い蔵、決して存在するはずの無かった名人の上座には隻腕の男。敗れ去った名人、棋譜を記す自身の指の震え、言いようのない絶望感――匂いや質感まで当時のまま、蔵の中で起こった一挙一動を仔細に思い出せる。
 五十年近く昔の、忘れがたい記憶。
「将棋ってのは、とどのつまりが色恋沙汰とおんなじところに行き着くんだろうよ」
「どういう意味です」
「女相手につまらん台詞を並べるよりも、黙って相矢倉組んでる時の方が、よっぽど相手の事を考えねえかい? 愛を語るに言葉は要らぬ黙って将棋を指せばいい、ってなもんだ」

 女抱くなら美人が良い、将棋指すなら――と、一人になった室内で、松永は独りごちた。