十三の五



 ――先5八玉――
 長考の必要は無いこの一手に竹中は一時間近くかけた。最早考えたところでどうしようもない局面であり、手を考えるよりも悔恨が大きい長考であろう。
 『勝ち将棋をダメにした』というダメージは棋士の精神を大きく抉る。負け将棋をそのまま負けるならばまだマシなのである。途中までは良かったと感じる程、良かった度合いが高ければ高いほど、ダメージは等比級数的に肥大化していく。ましてやこれはタイトル最終戦、敗北即失冠の戦いで、逆転負けが確定的になった局面を読み続けるのは、察するに余りある苦痛に違い無い。
「この後間違いなく4一香と打ちます。それでまず後手の勝ちでしょう」
 衛星中継のカメラに向かい、大盤の駒を動かすと、銀乃介は落ち着いた口調で断言した。
「それにしても、後手の大逆転劇ですね。控室では初日からずっと先手が良いと言われていましたし、私も島津七段も先手持ちだったんですが、驚きです」
 聞き手を務める千代が言うと、
「コッチの形勢判断も、甘かったってことですかね。ダメだな……こんなじゃ自分の時も同じこと食らっちまう」
軽い口調はテレビカメラの前でも変わらないが、妙に含みのある言葉。こういう言い方をする銀乃介は珍しい。
「なに、いつになく反省してる?」
 慣れた相手に対するからかいに違い無く、普段であれば銀乃介も調子の良い返事をするはずであったが、
「これからは待たせる側だからな……余裕で眺めては、いらんねえよ」
それは、少しばかり、真剣過ぎた。少なくとも、千代にはそう感じられた。
 焦らなければならないのは、千代も、他の棋士たちも、同じはずである。しかし銀乃介は余計なモノまで背負い込んでいた。
 ――後4一香――
「ああ、打ちましたね。本当に、謀ったようにピッタリの香車です」
 恐らく、生まれて初めて将棋に関して劣等感を感じたのであろう、目の前の男の深刻さを、滑稽にも近い、冷めた感覚で横目に見ながら、千代は解説を続ける。
 この業界で生きていく為には、天才意識なんてものは早くに捨ててしまうに限る。
 千代はそれを奨励会で学んだ。しかし銀乃介は学ぶ必要の無いままに今まで生きてきた。
 詰まる所、そういう差だ。

             ※