十四の二

 駅からの慣れた道を行って暫く、目に入った懐かしい家の鍵は当然持っているが、インターフォンを押して反応を待った。不用意に入り込みでもしようものなら、常識の無い母親がいつもの調子で何をしでかすか解らない。不審者と間違われて警備会社でも呼ばれた日には折角の晦日が台無しだ。
『はい、どちらさま……あら、銀乃介』
「ただいま、母さん」
『今開けますから、少し待ってくださいね――』
 と言った直後、
『それにしても、貴方も素敵な男性になりましたねえ……ああ、インターフォンのカメラとモニターをね、変えたのよ。だからね、映りが良いの。映りが良いっていうのは、貴方が格好よく映るとかじゃないのよ? 細かいところまでよく映るってことなのよ? ああ、それで、本当に、父さんの若い頃みたいですよ……そういえば、立花さんの千代ちゃんとはどうなっているのかしら? ぼんやりしているとね、他の人が横から出てきますからね。あんなに綺麗な子なんだから。貴方はね、お父さんと似て、格好付けたがる癖に肝心な所で腰が引けるから。そのせいで私も苦労したのよ。女に苦労させる男はダメよ、ちゃんと男の人から声をかけないと、可哀想よ――』
雪の積もった年の瀬、インターフォン越しで寒さを堪える相手に、ボケた話を大真面目で語り出す。銀乃介の母、島津日向(ひなた)はそういう女である。
『――初めてのデートもそうだったのよ。映画のチケットを持って私の周りうろうろしていてね、変な人だなあって思っていたの。それでね、いつまで経っても後を着いてくるからね、私怖くなってしまったの――』
「――交番に駆け込んだんだよな。その話は中で付き合うから、とりあえず鍵開けてくれ」
『そうなのよ、交番に逃げたの。そうしたらね、父さんったら――』
言った所で聞きやしないのは解りきっており、
「ああ、解った。こっちで勝手に開けて入るから、警備に連絡すんじゃねーぞ」
伝えたのだが、
『――結局留置所に入れられてね――』
去り際、インターフォンから漏れ聞こえた様子からして、思い出話は独り言として延々と続くのだろう。

 パタパタとスリッパを鳴らして駆け寄る日向を避けるように、コートをハンガーに掛け、リビングのソファに音を立てて腰を下ろす。
「親父は?」
「留置所に入れられてしまったの。でもね、私も、どこかで見たことがある人だって思い出したの。それで、もしかしたら用事があったんじゃないのかしらと思って、そうしたら可哀想になってしまって、迎えが来るまでね、警察署の玄関で待っていたの――」
「――その夜一晩待って、次の日警察署から直接映画館に行ったんだろ、知ってるよ。
 で、親父は、今、何してんの?」
「専務をやっていますよ。大東亜製鉄の」
「……そうだな。で、専務の親父は今日はどこにいるんだ?」
「今はお買い物に行っているわ。お休みをね、頂いたの。今年はね、五日まで」
「そりゃ良いご身分だ」
「でも、大変なのよ。会社のね、秘密の精錬方法が流出しちゃったんですって。それで、裁判を起こすんですって。父さんもね、ずうっと忙しくて、ついこの間まで、そのことで海外に行っていたの」
「ああ、そいやニュースで見たわ。職員引き抜かれて技術が漏れたんだっけ」
「お土産を買ってきてってお願いしたのに、父さんったら聞いてくれなかったの」
「親父も苦労してんだな」
「その国のドラマもね、これまで二人で見ていたのに、見なくなってしまったの」
「そりゃ大変だ」
「でもね、空いた時間で父さんと将棋をするようになったの、それが楽しいのよ。母さん銀乃介にも勝ってしまうかもしれないわ、父さんにも勝てるんだから」
「ほー、ドラマの続きは気になったりしないのか?」
「だって、一週間見なかったらどんな話だったか忘れてしまうじゃないの。気にするにも気に出来ないわ」
「相変わらず幸せな頭してんだな」
「ええ。銀乃介に会えたから、今日はとても幸せね」
 一事が万事この調子、母親でなければとても相手をしていられない。普段であれば父に任せて放置で済むのだが、生憎その父は不在ときた。
「じゃ、親父帰ってくるまで相手してやるよ、将棋」
 延々話を聞かされるより何か作業をしていた方が紛れるだろうと、自分から持ちかける。
「盤はどこ?」
「テレビの脇にありますよ」
「ん……ああ、これまだ使ってんだ」
 焦茶色に日焼けした傷だらけの卓上板、歯形で文字の消えかけた駒。銀乃介が家を出るまで使っていたものだ。
「何もこんなボロ使わなくたって良いだろうによ……脚付きもあったろ、ほとんど使ってないの。ほら、俺が最初に買ったヤツだよ。面倒だから使わなくなったの」
 当時小学生だった銀乃介少年が格好を付けて買ったのだが、一々引っ張り出すのが面倒になり、結局は卓上板に代わられてしまった哀れな脚付きが、島津家には存在している。
 偶に気分転換で使うくらいなら用意する面倒もそれほどではないだろう、と、そういう意味だった。
「アレはね、会社の将棋部にさしあげたわ」
「ああ、そうなんだ」
「銀乃介の物なのに、勝手にして悪かったかしら」
「別にいいさ。相変わらず職団戦頑張ってるし」
 職業団体対抗将棋大会、通称・職団戦。企業の将棋部などが参加する連盟主催の大会であり、SクラスからFクラスまで七階級に分かれて五対五の団体戦トーナメントを行う、アマチュア企業人による順位戦のようなものだ。当然、成績に応じたクラスの入れ替えもあり、Sクラスともなれば、理研や日電などの、元奨に対する理解の深い企業――奨励会退会者という履歴書に一定の評価をし、雇用の際に考慮する事もある――が占めている。
 銀乃介が幼かった頃の大東亜製鉄将棋部は、歴史はそれなりにあるものの実力に関しては今一つ、という評価であったのだが、ここ五、六年は、爆発的な成長と言われるまでの変化を遂げ、直近十月の職団戦でBクラス3位入賞という快挙を達成していた。
「銀乃介が奨励会に入ってから、会社の人達、一生懸命勉強しましたからね」
「親父にゴマするつもりだったんだろうけどな」
「でも父さん、将棋部の連中は将棋に傾き過ぎているから出世させないって言っているわ。御本人達にも、そう伝えているのですって」
「まさしく本末転倒だ」
「でも、誰一人として部をやめていないわ。最初はそうだったのかも知れないけど、今は本当に好きなのよ。父さんも、出世はさせないけど、あそこに顔を出すのは楽しいみたいだから、みんな幸せなんじゃないかしら」
 とことんまで人を疑う事を知らない母の言葉に、呆れながらも頬は緩くなる。楽な空気の家庭なのである。
 駒を並べ終えて、
「じゃ、指すか」
言うと、母の目は点になっている。
「でも銀乃介、貴方の駒が金と王様しか並んでいないわ」
「俺の金は母さんの大駒二枚分くらい強いから、これで十分。その代わり先手コッチな」
 今度遊びにでも行ってやろうか、と将棋部の面々を思い浮かべながら、久方ぶりのキンタマ将棋。


 難しい顔で盤を睨み続ける母だが、如何せん日頃の間抜けな空気が染みついており迫力は無い。局面に眼を向けると、銀乃介の玉は既に入玉を果たし負けの無い態勢、後は適当に浮いた駒を拾っていくだけで勝てるだろう。
 一手で済むところを三手かけてやったり、或いは歩で済む所でも敢えてカナ駒を渡してやったり、可能な限り緩めているのだが、我が母ながら、アマチュアがどうのプロがどうのという以前の問題で、弱すぎる。
 と、インターフォンが鳴った。
「親父じゃねえの?」
 水を向けてやるが、
「母さん一生懸命なんです。貴方が行ってください」
いつもならば父の帰宅より優先される事項など無いはずなのだが、にべもない。それだけ必死に考えて何故そんなに弱いのかと、銀乃介は苦笑しながら立ち上がった。

 インターフォンのボタン一つでロックを解除、というのでは味気がないと、気分転換も兼ねて表まで迎えに出ると、
「……日向はどうした」
世紀末覇者に負けず劣らずの強面で一言。遙か昔の学生時代はラグビー部の主将なんぞを務めていたというだけに体躯も大柄であり、本格的に、大企業の幹部よりマフィアのドンと紹介した方が腑に落ちる外見である。
「将棋盤と睨めっこしてるよ……それより親父、セガレの前で母親を名前で呼ぶの、いい加減やめねえか?」
「お前の都合など知らん」
「これだから帰ってきたくねえんだ」
「下らない文句を垂れる前に荷物を持て」
問答もそこそこに、中身がぎっしりと詰まったエコバッグを押しつけられる。父があまりに軽々と持っていたせいか、油断していた銀乃介の足はふらついた。
「蟹を買ってきた。今日は鍋だ」
「んなこと聞いてねえよ」
「局面はどうなっている」
「は?」
「将棋の局面だ。指していたのだろう」
「ああ……キンタマで相手してやったけど、ありゃ弱すぎだわ。流石に負けてやれねえよ」
「ふん。バトンタッチだな」
 ぼそりと呟くと、銀乃介を押しのけて家の中へ入っていく。
 程なくして、母の甘えた声が玄関先まで届いた。
 父・龍之介と母・日向、共に四十八歳とそれなりの年齢であるはずなのだが、金の力かそれとも夫婦の関係故か、見た目も中身も異常に若く、初対面の人間から常に驚かれる程である。実際、二桁少々のサバを読んでも十分通じてしまうだろう。
「この年で弟やら妹ってのも、勘弁して欲しいよな」
 有り得ないと言い切れないのが、息子としては恐ろしいのだ。