十四の三

 島津家次男・俊久が帰宅すると、リビングでは疲れ切った表情の父が、一人紅白歌合戦を点けながらビールを呑んでいた。異常なまでのタフネスを誇り、どのような仕事をこなした後でも全く疲れを見せない人間であるのに一体何があったのかと、その様に狼狽える。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
 パタパタとスリッパを鳴らして近付いた母にコートを預けながら、
「父さん、何があったの?」
尋ねると、
「銀乃介と将棋を指していたら、盛り上がってね。何て言うか、気にアテられて、参ってしまったみたいなの」
ほわりほわりとした、いつも通りの空気で母は答える。
「ああ、なるほど。兄さんはどこに?」
「今お風呂に入っているわ。ご飯ももう少しかかるから、俊久も一緒に入ってしまったら? 豊明があと三〇分くらいで着くらしいから、それに合わせているの」
「そう……なら少し話もあるし、そうするよ」
 ワイシャツのボタンをぷつりぷつりと外しながら、俊久は風呂場へ向かった。


           ※


 わかっちゃいるけどやめられねえアホーレ、と、昭和の親父さながらに、銀乃介の響かせていた歌声は、突然開いた浴室の戸にぶつりと途切れた。
「ようトシ、元気か」
 島津家の風呂は広い。この年になっても一緒に風呂に入る事は珍しくなく、悠々と湯船に浸かりながら迎え入れる。
「そっちは元気そうだね、こっちは大変だよ。聞いてるだろ?」
 言う俊久は、シャワーで髪を濡らすと早速泡を立てている。
「訴訟起こすんだろ、勝てんのか?」
「勝てなきゃやらないよ、頼りになる人集めているから……兄さん風に言うなら、ケツの毛まで毟り取ってやる、だね」
 事も無げに言う弟がたのもしい。
「ま、頑張れ……トヨは、最近どうしてんだ?」
「国の総合職目指すってさ、今年はずっと勉強してたよ。今日も図書館行ってるし」
「マジでか……ウチの家系って何で俺だけバカなんだろ、母さんに似ちまったのかね」
「母さんだってペーパーの点数は良かったはずだよ、あんなだけど」
「そうなんだよな。俺以外で赤点取った事ある人間いねーだろ、ここの家」
「兄さんはそういう部分の能力値、全部将棋に突っ込んじゃったんだろ」
 喋りながら身体まで洗い終え、浴槽へ浸かる。二人の男が肩を並べてもまだ二、三人の余裕はありそうだった。
「将棋と言えば、浅井君だっけ。彼、すごいね」
 と、出てきたのはよく知った名だが、だからこそ、銀乃介の反応はワンテンポ遅れた。
「何だ突然」
「ウチの将棋部がさ、最近注目を集めているから」
「ああ、どこぞの専務から出世させないって言われちまってる連中だろ?」
「基本的には良い人達だよ。出世から外れた事を自覚していればこそ、話してくれることもある」
 そう言って、俊久は一見屈託のない笑顔を見せた。こういう時の弟は何を考えているか解らない事を、銀乃介もまた当然理解している――とはいえ、それに張り合うつもりも、張り合えるだけの器用さも、まるで持ち合わせていないのだが。
「将棋の件は、純粋に連中が頑張ってるからだろ。職団戦だって来期からAクラス、元奨やらアマ強豪で固めた訳でもねえのに、純粋な企業部活動として立派なもんだよ」
「確かに将棋部の人達が頑張っているのも要因ではあるけど、それだけじゃないんだ――」
 声色が、一段と落ち着いたものになる。
 意識的に変えているのだ。聞き手に態度を改めるよう、それとなく促している。
「――浅井君という存在の力で、将棋というゲームに対する評価があからさまに変わった。特に若い世代の間で」
 相手が彼の兄でなければ、銀乃介でなければ、有効な手段であろうが、
「若い世代って、俺もお前も若いだろうがよ、ジジくせえこと言いやがって」
この男にはまるで意味が無かった。平然と聞き流し、今にもハナクソでもほじり出しそうな空気を崩さない。
 尤も、俊久も兄の性質など熟知しており話を続ける。聞いていない訳ではない、という事もまた承知していた。
「たとえば、理研・日電・富士重機・三銀・ニチレ」
「S級常連のメンツか……そこら辺の部員はほとんどセミプロの域だな」
「浅井君絡みで将棋が注目を集めるようになってから、材料が少ない日でも株がじわじわ伸びてきてる。特に顕著なのは、ニチレが将棋イベントを発表した事は知ってる?」
「あー……自分の所のコーヒーチェーンでやる将棋カフェってヤツか。詳細は知らんけど、連盟にも話は来てるみたいだな」
「発表から八営業日続伸だったよ。仕手筋の動きが見えたし、イベントの成否自体も現状じゃ不明だけど、マーケットが将棋という材料をどう捉えているかは十分に解る。
 ラグビーや駅伝なんかの、企業における花形部活動と同じ視線が、いやそれ以上のものが向くようになったんだ。これからは、将棋と縁が深いというステータスが、企業広告の上で相当な武器になる」
「で、結局何が言いたいんだ?」
「……大東亜が出資して新棋戦を立ち上げる計画がある、って話だよ」
 流石に、銀乃介のだらけきった空気にも細波が起きた。
「突拍子もない話じゃないさ。今の世相なら、将棋にはそれだけの金を出す価値がある」
「俺が身内の人間だって事で宣伝する気なら、悪いけど受けねえぞ」
「当然、兄さんには迷惑がかからない事をやるさ」
 どういう事だ、と視線で問うと、
「作ろうとしているのは、女性の最強を決めるタイトルだもの」
これもまた予想外の答え。
「その前に背景を軽く説明しておくと、日本の鉄の未来は決して明るくないんだ。何より単価の安い国を相手に戦っていかなければならないし、技術的な付加価値だけで商売するなんて現代市場じゃ無謀なだけ……勿論、今回みたいな知財管理の甘さは別問題だけど」
「解り易く一言でまとめろ」
「大東亜ブランドを、一般の消費者層にPRしたい」
「もっと解り易く」
「たとえば一般消費者が車を買う時に、その車のボディはどこの製鉄会社が作った鉄なのか、少しでも意識するようにさせる。多少価格が上がっても、海外の鉄よりも国産の鉄で作られた製品に有り難みを感じるようにさせる。国産鉄というブランドを、一般消費者が意識するように仕向ける。そうなれば、製造業は国内製鉄をそう簡単に捨てられない」
 銀乃介はふと、淡々と語る俊久に、父・龍之介と同じものを感じていた。目の前の弟は、その戦場の最前線を知っている人間に違い無かった。
「タイトル戦の際に着る和服、江戸時代から続く風習の数々。その実はどうでも、将棋は日本の伝統文化であるという、連盟のイメージ戦略は実に成功している。こちらとしてはそれに乗っかりたいんだ。日本の伝統文化に理解があり、一般生活の身近な所で役立っている、最高品質の鉄を作っている大東亜。そういうイメージを、もう一度浸透させたい」
「その上で、響が出てきたって事か」
「まあ、今言った事に関しては、気休め程度の効果でもあれば上等、って感じだけどね」
 俊久は包み隠さずに笑うと、
「それでも、純粋に費用対効果で考えれば、今の将棋は格安だ。たったの三億で、確実に全国民が大東亜の名前を覚える、日常生活の中で意識するようになる」
ハッキリと言い切った。
「対象が女ってのは?」
「イメージ戦略で女性が重要視されるのは必然だし、それに、女性に対するアプローチは棋界が出遅れている部分だからね、古参スポンサーとの無用な軋轢も避けられるだろ?」
「なるほどねえ……よーく解った」
「兄さんはどう思う?」
「俺が口挟めるこっちゃねえだろ、好きにしろ……必要なら頭くらいは下げてやるさ」
 棋士と言っても指す専門、棋戦運営に関する知識などまるで無いに等しいが、事務方を紹介するくらいならばしてやれるだろう。全て押し付けて勝手をやらせて貰っている負い目もあり、やれる事はしてやりたいと、そう思うのは自然だった。
「本当に、頼りにしても良いんだね?」
 念を押すように問うた俊久の表情は、気の置けない兄弟の会話という雰囲気ではないが、
「俺のやれる事ならな……じゃ、先上がるぞ」
深く考える事もなく、普段通りに応じると、ざぶりと、豪快な音を立てて湯船を出た。