十四の四

 一家五人の食事を終え、島津家年末の恒例行事である『桃鉄九十九年ぶっ通しプレイ』の最中、酔い覚ましを兼ねて、煙草を吸おうと表に出たところ、俊久に声を掛けられた。
「一本ちょうだい」
「吸ってたか?」
「付き合い程度ならね、肺には入れないけど」
「誰がやるか、勿体ねえ」
「ケチだな」
「悪いな……今時煙草吸うヤツなんてよほどのバカだけだ、やめとけ」
「自分は吸ってる癖に」
「バカでなきゃ将棋指しなんざなるかっての」
 ケッ、と笑ってみせると、俊久は苦笑していた。
「ウチの家系じゃずば抜けた天才だよ、兄さんは。間違いなく」
 言いながら、自身の懐をまさぐり、取り出したのは葉巻だった。手慣れた仕草でカットすると、どうやら火は持って来なかったらしい、手で催促する。
「吸わないっつってたろうが」
「肺には入れない、って言っただろ?」
「ジッポしかねえぞ」
「たまにはオイルの味も良いさ」
 右手を振って火を起こす。暫くすると葉巻の甘い匂いが漂った。
「ニオイ、混じらねえか?」
「言うなよ。兄さんの隣で煙を吐いてみたかったんだ」
「物好きなのは結構だが……この時期じゃ、息が白くて解りゃしねえよ」
 空を覆う雪雲に星は隠れているが、まばらに舞う雪が反射する街灯で、不思議な明るさがある。新潟を、響がタイトルを奪取した、あの雪化粧の街を思わせる夜だった。
「さっきの新棋戦の件、早速だけど、一つお願いがあるんだ」
 ゆっくりと、舐めるように煙を吐きながら、俊久は話を切り出した。
「立花姉妹を口説いて欲しい」
「ああ……なるほど」
「連盟の事務方に軽く打診した時は、本人の意志を尊重したいと……要は、良い感触ではなかったんだけどさ。仲、良いんだろ? 昔からよく名前聞いたし」
「アイツら棋士だしな……本人が出る気ないって言うなら、難しいんじゃねえか」
「そう、何より重要なのは本人のやる気。だから、その気にさせて欲しい」
 切り返しの早さに、どうやら俊久も本気らしいと悟り、銀乃介は己の軽口を悔やんだ。
「勿論、対局料に関しては別枠を用意する。連盟の事情も理解している、棋士と女流棋士を同列に扱うような真似は誓ってしない」
「そこまでされたら、事務方じゃ嫌とは言えないわな」
「女流至上ぶっちぎりの賞金額、棋士のタイトル戦を一つやれるだけの金を投資するんだもの、疑問が生まれる余地なんてないはずだよ。勝って稼ぐ、それだけだ」
 俊久は人の心の解らない人間ではない。とすれば、敢えて感情を消しているようなこの無機質な物言いも、仕事上の必要から身に付けたものなのであろう。
「アイツに……血ヘド吐く思いして這い上がった人間に、今更女流と混じって指せなんて、簡単に言えねえよ。正道でプロになった人間に、女性なんて枕詞は侮辱と同じだ」
 或いは慈乃ならば二つ返事で了解しそうなものだが、千代の場合は事情がまるで違う。
 彼女が女流という退路を自らの内で断ち、背水の覚悟を背負って奨励会という修羅場に臨んでいた事を、当時の悲痛なまでの決意を、自身の臓腑をすり潰す事すら辞さなかったであろうおぞましいまでの執念を、銀乃介は誰よりも間近で見ている。故に、千代が女流という人種に対して、他の棋士とは異なる、複雑な、ある種の屈折した感情を抱いている事も、今はまだ、仕方のない事だと理解している。
 だからこそ頷けなかった。
「まだ、仕方ねえんだよ……ついこの間まで、アイツは、そこに行かない事を誓いにして指してきたんだ、堪えてきたんだ。そのことを解ってやってくれ」
 言葉のやり取りでは敵わぬと事実上の投了を告げ情に訴える。銀乃介には最早それしか手が残されていなかった。
 これにはさしもの俊久も言葉を躊躇った。少なくとも、それまでの饒舌は消えていた。
 故に、それは精一杯の温情に他ならなかった。仕事であれば決して明かさないだろう、自らの狙いを、隠すことなく打ち明けたのだった。
「なら、言い方を変えるよ。立花姉妹に……立花千代さんに、謝っておいて欲しい。少しでも納得した状態で場に出てきて貰う為に」
「どういうことだ」
「事務方とは別ルート、松永会長がこちらの条件を呑んだ……強権も辞さないという言葉まで付けてね」
 聞いてから吐き出した息が、ひどく重かった。
 俊久の言葉を疑う事すら出来ない。松永であればそうするだろうという思いが、銀乃介の中にもあった。そして、事態が彼女の意志とは無関係なところで既に動き始めているのだと知ると、俊久の依頼を受ける以外に方法が無い事もまた知れた。
「つまらない営業でしか稼げない女流棋士を本当の意味で独り立ちさせる機会だ――あの人はそう考えている……常識的な判断だと思うよ」
 ならば何故、わざわざ自分に話をした。と、言葉に出すよりも先に、俊久は続ける。
「それでも、本人には出来るだけ納得した状態で出てきて欲しいんだ……協力的な人間に優勝して貰った方が主催者としては有難いってことは、何となく解るだろ?」
 無理矢理引っ張り出したのでは、広報活動に協力して貰う上で不都合がある。そういう意味だろう。響のような例外を除けば、愛想のない棋士が自社の棋戦を勝ち進む事を主催者側は歓迎しない。それは当然のことで、だからこそ、俊久の発言全てに納得がいく。
 棋戦の開催も、そこに千代と慈乃が参加させられる事も、或いは、棋士と女流の棋力差からして、姉妹のどちらかが優勝するであろうという事までも、スポンサーとしては既に織り込んでおり、その上で、今後彼女たちを巧く使う為にアリバイを作っておきたい――言ってしまえばそういうことになる。
 あまりにも自分たちの世界をコケにしているが、銀乃介は怒れなかった。スポンサーとしては当然の理屈であると理解していた事もあるが、それは決め手ではなかった。相手が俊久でなければ、このような依頼をする無礼な人間は即座に殴り飛ばしていたか知れない。
 しかし、どうして怒れようか。俊久がこれを言うのは、彼がその背に負った存在の為である。彼がその存在を背負うのは、銀乃介が放り出したが故である。つまり、俊久の発言は全て、銀乃介が言わせていることと同じなのである。
「解ったよ……俺からも話しておく」
 連盟の命令で出場することと、弟弟子に頼み込まれて出場するのでは、彼女からしてもまるで意味合いが違ってくる。自分たちの関係を過信するのではないが、彼女の精神的な負担が軽いのは確実に後者であろう。自らの意志を踏み潰されて出るのではなく、間抜けな弟弟子を助けてやる為に出場してやるとなれば、最低限のメンツは立つ。
「すまない。ありがとう」
 そういった俊久は、下唇を軽く噛みながら頬を少し膨らませた、知らない人間が見れば相手をからかうような表情だった。そしてそれは、昔と変わらない、彼が心から謝罪の念を感じている時に出てしまう癖だと、銀乃介は知っていた。小学生の頃、銀乃介の作ったプラモデルで遊んでいて壊してしまった時と、全く変わらない顔をしていた。
 その後は無言だった。雪の散る中で、ただひたすらに二人並んで煙を吐いていた。

 煙草も三本目を吸い終わろうかという頃、家の中から、桃鉄の続きに焦れた父親の呼ぶ声が届くと、二人で顔を見合わせて、呆れ笑いが浮かんでいた。
「そろそろ戻るか」
 言って煙草の火を消して、玄関の扉に手をかけた銀乃介に、後ろから、
「兄さんは、何故将棋を指してるの?」
「あ? 何だよ、急に」
「いや……企業勤めしてると、利潤や社会貢献に繋がらない目的意識って凄く新鮮だから。気になってね」
振り返ると、いつも通りの、しかし、今日は初めて見る顔かも知れない、余計な肩の荷を降ろした弟の顔だった。
 銀乃介はふと考え、
「敢えて言葉にするのなら、不条理なるが故に、ってヤツか……結局はそこに行き着く」
そう答えた。彼自身、そうとしか言いようが無かった。
「元より、堅気の人間には理解されない感覚だ。解らないならそれで良いさ」
 答えを聞いて不思議そうな表情を見せた俊久に、更に続けて言い残すと、今度こそ家の中に入った。

 この家は、彼という人に与えられた才は、少々恵まれすぎていた。故に、彼は真っ当に生きられなかった。
 プロになったのは、全くの偶然である。あの日、将棋祭りの対局コーナーで彼女に出会わなかったらば、乞食暮らしをやりながら片田舎の道場で将棋を指し続けある日ぽっくり野垂れ死ぬような、そんな人生を送ったのかも知れない。
 金も、名誉も、彼は将棋に報酬を求めない。唯一求めるものがあるとすれば、より強き存在、それのみであろう。
 人生が不条理に囚われていることと同じように、或いはそれ故に、彼は、あらゆる意味の霧散した精神の荒野で将棋と遊び続けることを選んだのである。