一の二

 島津の行きつけである小さな食堂だった。響がオムライスを食べたいと言うと、メニューにはなかったが女将は気軽に応じてくれた。島津は生姜焼き定食を頼むと、店に置かれているテレビのチャンネルを手慣れた風にいじり、お笑いの番組に合わせた。
 テレビからのガヤの笑い声と厨房から届くフライパンの油の音を聞きながら、島津が何とない風に尋ねる。
「響は、女流の人たちが嫌いか?」
「強いのなら別に……でも、女に勝負は出来ないよ。あいつら場を汚すことしかできない。相撲と同じようにすれば良いんだ、盤も、駒も、女に触らせない方が良い」
「棋士たるもの強さこそが全て、みたいな考え方か」
「何かおかしいですか?」
「いや、考え方自体は正論だと思うけどな。ただ、最近はそうも言ってられないじゃないか……ソフトの進歩とかを見てると、名人がコンピューターに負ける時代がいずれ来るなんて明らかで、もしそうなっても強さこそが全てだって言い続けるなら、いずれプロ棋士は全員今の女流みたいな、つまり、どうあがいても一番にはなれない立場になっちまうんだぞ。お前はその時がきても、棋士は強さこそが全てだって言い続ける自信があるのか?」
「そのときは、棋士がコンピューターソフトに挑戦すればいい。棋士だろうとソフトだろうと、強い方に価値があるんだ。勝負って、そういうことのはずでしょう。人がその意志さえなくしてしまうなら、そのときは将棋の意味も消えちゃうよ」
 言った響に島津は呆れたような苦笑を漏らし、
「最後に残るは名人一人ばかりなり、ってか……色々と子供だが、でも、大筋の結論としては間違ってないよ。そう思えないと駄目だよな。相手を理由にして負けて良いなんて思っちまったら、勝負なんてできやしない」
しかし頷いていた。
「そういやお前、奨励会の推薦人六角先生だよな?」
「そうですけど、何か?」
「弟子取らないことで有名な人なのに、なんかツテあったのかなって」
「じいちゃんと関わりがあったみたいで」
「へえ……お前のじいさん、今は何してんの?」
「去年死にました。二月四日で一周忌です」
「立春か」
「ぼくの誕生日なんです」
 そのとき厨房から、気を利かせて上手く作ったのだろう、オムライスと生姜焼き定食が同時に出てきた。

 響と島津の勝負は、指導とは言えまるで相手にならないものだった。それは島津が真剣に教えたということでもあり、そこで打ち負かされる経験は、まさしく響にとっても指導を受ける喜びを感じられるものだった。だからこそ響は島津の誘いを受けた。本来人付き合いを好む部類でもない、特に勝負絡みでは不器用なまでにこうした関わりを避けていた。
「六角先生に指導付けてもらったりしてんの?」
 島津の問いに響は首を振った、その唇にはほんのりとケチャップがついている。
「面倒は見てやるけど自分で強くなれって、最初にそう言われてるし」
「独学であれかよ、末恐ろしいな……よし、んじゃこれからは俺の勉強につきあえ。六角先生も放任主義みたいだし、どうこう言うタイプじゃないだろ」
「いいよ、将棋の友達はいらない」
「そう言うなよ、俺も他の人の研究会とか息苦しくて出たくないんだ。お前ぐらい誘っておかないと、ほんとに一人になっちまう」
 ふと言葉を止めて、島津は響の口元についたケチャップを親指で荒くぬぐった。恥ずかしいのか、響は頬を赤らめて、ありがとう。
 親指のケチャップをぺろりとなめながら島津は続ける。
「それじゃあそういうことで、これからよろしくな……あ、紹介しておきたいヤツがいるから今度会いに行こう。今三段リーグの俺の下で二位争いしてるヤツだけど」
「勝手に決めないでよ」
「そいつに会えば、きっとお前の考えも良い方に変わるよ。そいつは女流じゃないけど」
 島津は強引だった。響は残りのオムライスをほおばりながら、今度は唇にケチャップを付けないようにしなければと思った。