いずれ仕掛けてくることは解っているが、相手が変化したとしても、こちらの手が変わる局面ではない。であれば、ここで時間を使うのはただの無駄。そう割り切った一手。
 指し終えてから、窓の外、鳩森の方角を眺めていると、
「少し、長くなるぞ」
聞かせる風でもなかったが、二階堂が呟いたので、響は気分転換のつもりで席を外すことにした。
 本来なら長くするような局面でもない――とすれば、先の3八銀、ただの手順前後ではなかったということだろう。


              ※
《地下スタジオ》

「――そもそも、横歩取りって戦法名自体おかしいよな。後手が誘導してんだから、横歩取らせ、だろう」
「よく言われる話ですけど、確かにそうですよね。先手も拒否したければ角道止めて無理矢理矢倉とか、あることにはあるんですが、やはり不自然ですし、自然に指そうとしたら横歩を取ることになる。でも、呼ばれ方は横歩取り」
「語感もあるんだろうけどな、不思議なもんだ……と、どうでも良いこと話して大分経つが、あのじいさんまだ指さねえか」
 呟くように吐いた銀乃介の言葉は、状況に対する苦しさからのものだった。もう少し進んだ局面での長考であれば、局面を一から振り返るなどして間を保たせることも出来るのだが、この序盤ではそれも出来ない。
「かれこれもう一時間近く考えていますか……三時間勝負ですし、そこまで考え込む局面ではないような気がするんですが」
 困ったような表情で続けた千代には、しかし、一つの予感もあった。
 例の新手である。8五飛を潰す、とまでぶち上げた以上、今までの常識を超える新手を用意していることは間違いない。そしてそれが、限定的な局面でのみ有効な新手ではなく、戦法そのものを見直さざるを得ないような新手であるとするならば、この序盤での長考も頷ける。
 銀乃介もそのことには当然思い当たっていた。だからこそ、必要以上に茶化すことが出来ない妙な緊張感が苦しかった。
 視聴者のことを考えれば何かしゃべらなければならない。しかし、二階堂の秘めている、次の一手が気になってまともに口が回らない。
 時刻は十四時も半分を回ろうとしている。
「ネット解説も楽じゃねえな、ったく」
 銀乃介がぼやいてから、数秒の間があったろうか。無限に続くとも思われた、重い空気など素知らぬ風に、二階堂の手がゆっくりと盤上に伸びた。
「ようやくか、待たせやがって……って、マジかよ」
 呆気にとられた、という表現が、一番正しかった。銀乃介が軽口を忘れてしまうほど、その手は想像を越えていた。
「冗談キツイぜ」
 ようやく喉から押し出せたのは、ただその一言。
 それでも、いつまでも惚けている訳にはいかない。向けられたカメラの存在に気を立て直し、言葉を紡ぐ。
「……これが通るなら、本当に、8五飛は今日で終わる。そういう手だ」
 それが洒落や誇張ではないことは、絶句した千代を見れば解る。彼女はおそらく、目の前のカメラの存在すらも、頭から消えてしまっているのだろう。
 ――先3六歩――