口が、ぽかんとあいている。

          ※
《棋士控室》

 二階堂の3六歩にどよめく室内、全ての視線は現名人・竹中重治に注がれていた。二階堂の直系である彼ならば事前に何かを知らされているかも、という期待からのことだった。
 しかし継ぎ盤の前に座る竹中は落ち着いた表情で、
「これ、予定と違いますね」
さらりと言う。
「竹中先生にも秘密にしてたってことですか?」
 誰からか出た問いに、
「それは無いと思いますけどね。師匠の練習相手って、現状だと私だけですし」
静かに応えると、しかし、と視線を滑らせて、
「六角先生は、何かご存じですか?」
 部屋の隅で沈黙を守る、六角源太に水を向けた。
 途端に室内の空気が一段下がったのは錯覚であろうか。
 そもそも六角が控室に姿を見せている時点で全く異例と言って良い事態であった。若手棋士などは萎縮してしまい、おいそれと口を開ける雰囲気ではない。ましてや質問を投げかけるなど、竹中以外の人間には到底出来なかっただろう。
 一つ、二つと呼吸できるほどの間を置いてから、
「秀行の、いつもの癖だ」
六角はぼそりと呟いた。
「癖?」
「弟子なら知っているだろう。早石田の時もそうだった」
「ああ……名人戦の。確か、あの時も予定とは違う勝負になったと」
 半世紀以上前の、六角・二階堂両者による名人戦。
 当時、奇襲・ハメ手の類としてプロ間では軽んじられていた早石田流三間飛車を二階堂は独自の感性で指し回し、一つの戦法として確立、結果名人位を奪取した。
「あの角も、その場の閃きだったそうだ」
 言った六角に、懐かしむ様子は欠片も見えない。
「研究を超える閃き、ですか」
「違う……研究あっての閃き、だ」
 竹中はやや考えるような間を置いてから、
「目の前の将棋を勝つためだけに行う、指定局面に拘るものを研究とは言わない。研究とは、将棋そのものに対する理解を深めるために行うもの……今の言葉は、そういう理解でよろしいですかね?」
六角がそれ以上応えず、口を開くことも無いと解ると、竹中もまた、自身の継ぎ盤に向き直る。
 暫くして、居心地の悪さをごまかそうとする数名の若手棋士から、大げさな談笑の声が漏れると、室内はぎこちなくも元の空気に戻っていった。
 竹中の対面、継ぎ盤の後手が静かに5一金を示す。
「君は、この手、3六歩、どう思う?」
 目の前の、後手を持つ少女に、竹中は問う。
「とても、良い手だと思います。まさかこの将棋で出るとは思いませんでしたけど」
「さすがの浅井君も、これには面食らっただろうね」
「響ちゃんなら、動揺はしないと思います」
「何故?」
「こういう将棋も、たくさん指していますから」


《特別対局室》

 3六歩を見て、響は納得したように小さく頷いた。
 玉上がりを省いての3八銀、そしてこの序盤での長考。新手があるとすればなるほど。客観的に見れば、可能性の一つとして十分以上に有り得る一手だ。
 しかしそれだけでは、心を落ち着かせるのに到底足りない。
 何故なら、この一手は、玉周りにこれ以上手を加える必要はないと宣言するものだからである。
 即ち、居玉での開戦。いかに横歩取りとは言え、囲いを重視する現代将棋に真っ向から反逆する思想。通常のプロであればまず切り捨てる読み。いかに冷静な思考を持っていても、通常であればこの一手、動揺しないはずがなかった。
 だが、響に動揺はない。
 何故なら、彼はこの局面を〝知っていた〟のである。
「指したコッチがヒヤヒヤしてんのに、つれないもんだ。少しは驚け」
 冷静に盤を眺める響が不満だったのか、二階堂が言う。
「知り合いに、こういう将棋を好きなヤツがいるもので」
「予習済みか……そんじゃあ、この後どうなるか、お前は知っているのかい?」
「いえ。そこまで掘り下げていませんから」
「なんだい、知ってりゃ教えて欲しかったんだがな」
「俺に聞いてどうするんですか。研究してきたんでしょう?」
 尋ねた響を、二階堂は威勢良く笑い飛ばした。
「実はな、予定してたのは別の手だ」
「じゃあ、これは?」
「お前と盤を挟んでいたら、ふいに浮かんできたもんでよ。何となく、指してみた」
 聞いた響の力が抜ける――何となく――その理由まで慈乃と同じだ。