「躱しましたね。同銀じゃ後がうるさいし、同金はいくらなんでも、ってことかな」
「オッサン将棋も面白いんだがな、無難に指したか」
「しつこいってば」
 下らない言葉とは裏腹に、頭脳は冷ややかに盤へ潜っていく。

        ※
《棋士控室》

「躱すか……君の教えてくれた同金からの進行も面白かったけど、残念だ」
 継ぎ盤の前に座った竹中が対面に向けて言う。継ぎ盤の局面は先2三歩以下、後同金、先2四歩、後同角、先8二飛、後3後飛、先8一飛成、後2五飛まで。
「新四段、だよね?」
 竹中の問いに、慈乃は視線を合わせないまま小さく頷き、形式的に名乗ろうとした。
 しかし制するように、
「立花慈乃君、だろう。将棋史に残るだろう名前だ、当然知っている」
竹中の言葉は続く。
「浅井君に続いての三段リーグ一期抜け、成績は驚異の一六勝二敗。数字を眺めるだけでも、破格の新人だということは十分に解る」
「星の数なら、響ちゃんも一六勝二敗でした」
「内容というものがある……君の黒星は、昇段確定後の九月連敗だけだろう」
 竹中の含みのある物言いに慈乃は押し黙った。会話の内容に興味が無いというよりも、都合の悪い話題を避けようとしているような、積極的な沈黙だった。
「全勝、しようと思えば出来たんじゃないのかい?」
 続いた言葉は冗談ともつかない。
「棋譜を見ていただければ解りますけど、勝った将棋の殆どは終盤の指運ですよ。今季のリーグは、偶々です。もう一回やったら、きっと、頑張っても指し分けです」
 切れ切れに、消え入りそうな、しかし恐れから縮こまっているのではない、そういう声だった。応えるのが億劫なのだと、そう言っているようにも聞こえた。
 竹中の追求は止まない。
「浅井君や島津君と指していると、時々不思議な感覚に陥ることがあってね」
 独り言のように呟きながら、その目は慈乃をしっかりと捉えている。
「何か違うんだ、明確に違う。同じ将棋のはずなのに見えている世界が違う、とでもいうのかな……まるで彼らは、人ならざる者の将棋に触れたことがあるのではないかと、『その存在』を知っているのではないかと、そんなふうに感じることがある」
 そうして反応を窺うような間を置いたが、慈乃に反応が無いことを悟ると介さないような態度で続けた。
「彼らにその世界を見せたのは君ではないかと、今日盤を挟んでいて、ふと、そう思った」
「おかしな事をおっしゃるんですね、名人は」
「本当に、おかしなことだよ。私は仮にも名人で、君は新四段なのに」
 視線をまっすぐに合わせ、微笑みあいながら、
「一体、何者だい?」
しかしなおも問う。
「女性棋士第一号というお姉さんの存在が無ければ、浅井君という大スターが生まれていなければ、間違いなく世間の注目は全て君のものだった。仮にそうなっていたら、こんな風にひっそりと、控室の継ぎ盤で君と向き合うこともなかっただろう」
「それが、何か?」
「何もかもが仕組まれているような気がするよ……そう、将棋の神が君という存在を俗世から隔離しようとしているかのような、そんな意図を感じる」
 その時はじめて、慈乃の表情が変わった。これまで一方的に質問を投げかけていた竹中が、一瞬声を詰まらせる程の圧迫感だった。
「神なんて、どこにもいませんよ。少なくとも、私は、神の不在を知っています」
 言葉に込められた明確な意志に、竹中の肌は粟立った。
 それは、思春期の学生が口にする神の存在証明とは明らかに違っていた。たとえば科学者が、徹底的数理的証明を以て口にするような、そういう重みがあった。
「神の不在を証明できるというのなら、君は悪魔ということになる」
 或いは神か……それはただの言葉遊びだ。
 慈乃は何も言わず、静かに席を立った。その際垣間見えた、少女の冷え切った表情に、この継ぎ盤での検討が打ち切られたことを竹中は悟った。
「本気で指す機会を待っているよ。私たちにとっては、その方が言葉よりも余程に正確だ」
 背へ向けた言葉は検討の声に紛れ、二人以外には聞こえない。