短い陽はもう暮れようかという夕暮時、日を改めての対局とすることも総司は提案していたが、佐々木はそれを飲まなかった。明日の朝一番に立たなければならない澤山や他の客人の存在がそれを許さなかったのである。挽回の機会は今しかなかった。
 香子が夜に対局が組まれることを伝えに走ると、十兵衛は人の出払った御堂で瞑想するがごとく座しており、解りましたと一言であった。相手が佐々木であると伝えても特段の反応は見られない。
 表の喧騒とは対照的な人の消えた御堂に二人ばかりあった。香子は何かを求めるのでもなく、十兵衛の後ろに座した。盤に向かう十兵衛の背には確かな美しさがあった。順慶の言う仇花とはこの背中の事だろうと香子は思った。
 いつ誰が掘ったかも解らない黒ずんだ不動明王の木像を夕陽が眩く焼いている。十兵衛の背を眺める時、明王が自然と視界の左端に収まる事に香子が気付くと、沈黙の長い御堂の中で像を焼く輝きのみが時の流れを示していた。
「あちらにも後が無いようでした」
 何気なく紡いだ言葉であったが、十兵衛は少しの間を置いてから
「結果は変わりません――」
そう応じた。返答を期待していなかった香子の胸が驚きにはねたが、
「――ご迷惑をおかけします」
それは香子に答えたのではなかったのだろう。十兵衛は、筒井への不義理に負い目を感じながら将棋を指しているのだろう。そしてそれが香子に対して溢れ出てしまったのだろう。短い、不器用な言葉ではあったが、振り絞るような痛々しい声色から解る。
「祖父が貴方を支えろと言っていました」
 何かを言わなければいけないと感じて、自然と口を出たのはその言葉だった。
 十兵衛の背はまるで盤と一つになっているかのように動くことは無く、静止した空間の中で像の輝きだけが弱まり徐々に色合いを変えていく。直に陽が沈む、人が来る前に行燈を用意しなければならない。香子はそう思ったが、その背が瞳を捉えて離さなかった。
 やがて黄昏が訪れ明王がその輝きを失う頃、十兵衛は静かに語った。
「奉公に出された家に、私と同い年の子供がいました」
 ふいに始まった言葉にはわずかな温かみがあった。香子は背中越しに頷いて聞いた。
「何をさせても優秀で誰よりも優れている、その子をそう育てる為に、私は毎日、理由もなく犬の様に地に這い、踏まれ、蔑まれ、その為だけに生かされていました」
「将棋は指さなかったのですか?」
「家が潰れるひと月ほど前に」
 結果は聞くまでもない。香子が次の言葉を待っていると、わずかに十兵衛の肩が揺れた。これを語る時、十兵衛は此岸に戻ってくるのかも知れなかった。
「喋れないほどボロボロにされて、翌日から馬小屋で残飯暮らしです」
 きっと穏やかな笑顔なのだろう。その表情を見たくなったが、見ようとすれば十兵衛はすぐに表情を固くしてしまうのだろう。だから香子はただ頷いて聞いていた。
「きっと、あの不味い残飯を食わされた日、私はようやく生まれることができたのです」
 静かに聞き終えると既に明王は陰に溶け辺りは夕闇だった。名残惜しいが行燈を出さなければならない。勝ちなさい、と一言だけ伝えて香子は立つ。十兵衛は小さく頷いた。


 対局が始まることを伝えに総司の部屋を訪れた香子であったが、襖の向こうから澤山と思しき声が聞こえると、自然立ち聞きする形となった。
「佐々木先生にああ言ったのは、いわば躾のようなものでしてね」
「躾、ですか」
「将棋指しというのはどうにも経営感覚に欠けるようでね、ああでも言わないと危機感を持っていただけない」
「なるほど。棋士の方々はどこか昔気質の方が多いようにも見えますな」
「名人より強い人間など、居て貰っては困るのです」
「社名を出して主催するのであれば当然の主張でしょう。佐々木様も、きっと社長の意をくんでくださいますよ」
「ご理解頂けたようで幸いです……であれば、筒井さんには万が一の時に少し頼みごとを引き受けて頂きたい」
「何、わざわざ八百長など仕組まずとも名人御自ら指されるのです、負けるはずがないでしょう」
「いいえ、どう転ぶか解りません」
「何を仰いますか、十兵衛のような渡世人風情に名人が負けるはずなどありますまい」
「あの浅井十兵衛、界隈ではちょっとした有名人なのです」
「ご冗談を。ヤツはただの渡世人だと、貴方もそう仰っていたではありませんか。折角祭を取材しても渡世人の将棋では記事にならんから、こちらで指し手を用意して盛り上げる、そう言ってくれたのは澤山社長ではないですか」
「最初に負けたのは佐々木先生の孫弟子にあたる新進の棋士でね、田舎の縁日で見かけて、ちょっとした遊びのつもりが負けたそうです。
 次はその兄弟子にあたる人物が始末をつけようと出て行って、これも負けました。
 そこからは芋蔓ですよ、止せば良いのに自分らの不始末をもみ消そうとして、挑んでは負け挑んでは負け、却って話が大きくなっていく。笑い話にもならん。
 私の耳に事の次第が入った頃にはもう、リーグ戦にも参加していた八段が負かされた頃でした。
 ここまで話が大きくなったのだ、棋士連中が必死に隠そうとしても、遠からず愛棋家の先生方の耳にも入ってしまうでしょう。それでは困る。
 ヤツは、浅井十兵衛は、八百長を決して飲みますまい……ならば仕方がない、渡世人が一人消えた所で誰が困る訳ではないが、しかし佐々木先生や将棋連盟の被る損失はもはや一個人のものに留まらない、帝国にとっての深刻な文化的停滞なのです」
 総司は、父はどんな顔をしているだろうかと想像すると気は沈んだが、仕方のないことだと割り切ることも既に容易かった。
 二人の声が消えてから暫く、襖の向こうから告げる。




 星は天高く昇り境内に篝火が炊かれる。盤を囲むように並べられた無数の行燈に二人と明王が赤く燃える。詰めかけた聴衆は息をのみ盤上の攻防を見守る。ただ一人、香子のみが盤を見ず、十兵衛の背を眺めている。
 両者合意の下行われた振駒の結果先手は浅井十兵衛、後手は佐々木金次郎。