佐々木が駒台に手を置いて暫く、境内は静まり返ったままであったが、それも僅かの間であった。誰かが声を挙げるとすぐさま歓喜の声は伝播し表に伝わる、境内がやはり一瞬の間を置いてから怒声ともつかぬ歓声に支配されると香子はすぐさま十兵衛の手を取って立ち上がった。
 ふと、その場を動かない佐々木の虚ろな視線が向いていることに気が付く。
「貴方も、死んで勝ち逃げされたのでは寝ざめが悪いでしょう」
 睨むように香子が言うと佐々木は視線を逸らした。早く行けという事かも知れなかった。

 一日中将棋を指していた十兵衛は足がもつれるのか、年下の女である香子がその手を引く形で二人は駆けた。あの騒ぎでは既に佐々木の敗北は家に伝わっているだろうし、そうなれば総司が澤山を御することなど出来るはずもない。
 滅多に人が通らない、隣町へと繋がる古道だった。松明を片手に行く道中、十兵衛はいつもの様子で何度も香子に家へ帰るよう説得したが、香子は一切合切を無視して突き進んだ。こうなると将棋で弱っていた十兵衛の体力がむしろ香子には有難かった。今ならば非力な自分でも十兵衛の先を行くことができ、自分が先を歩いていれば十兵衛はそれを見捨てることをしなかった。
 やがて数刻も経ち山道の終わりが見え始めると、道端で火を炊く男の姿が見えた。先回りされたかと様子を伺いながら近付き、その姿を認めると祖父の順慶だった。
 祖父であればと、香子は無防備に近付いて声をかけたが、それは誤りだった。
 祖父の手には白鞘が握られていた。
「どういうつもりさ」
「来るならこの道だと思ってな、待っていた」
「そんな事を聞いているんじゃない!」
 順慶は食って掛かる香子を見ようともせず、後ろに立つ十兵衛に語り掛ける。
「ここに来たということは倒したのだろう、名人を」
 十兵衛もまた、敵意や警戒といった情は一切感じさせない、穏やかな表情で頷く。
「そうかい。大したもんだよ」
 香子は順慶の頬を平手で張った。冬の冷え切った空気を切り裂くような鋭い破裂音が響いたが、順慶は身じろぎ一つせず言った。
「どれだけ馬鹿な話でも家長が持ってきた事だ、家としての義理は立てねばならん」
 叱ることもなくそっと香子を脇に追いやり、順慶はゆっくりと十兵衛との距離を詰めた。十兵衛もまた覚悟を決めたように静かに向き合っている。懐から取り出した撚紐を十兵衛の肩に回し、衣擦れの音が漏れるほどに強く縛ると、少し待てと言って煙草に火を点けた。
 白い息を吐きだしながら夜空を見上げる。言葉を交わすことは無かった。香子は割って入ることの出来ない空気を察し、黙って満天の星々を見上げた。七星が煌々と輝いているのが良く見えた。
 どれだけの間であったのかは解らない。
「香子の事、頼んだぞ」
 やがて順慶はそう言うと白鞘を抜き、十兵衛も解したかのように右の腕を差し出した。
 鮮血が散ることは無かった。ただ真白い雪上に朱の斑点が滴ったばかりだった。
 倒れ伏す十兵衛を懸命に受け止める香子へ、風呂敷包みを押し付けながら、
「すぐ先に医者を待たせている、行け」
 そう残し、順慶は切り落とした腕を大事そうに抱えて来た道を戻り始める。
 香子はその背を追う事もせず、十兵衛を抱えて歩を進めた。