一七

 左近位リーグ戦白組一回戦、吉川元春八段対島津銀乃介七段。
 七大タイトルの一つである左近位は七月から八月にかけての夏場に行われる二日制棋戦であり、現在は小寺孝高二冠が保持している。同タイトルの本戦にあたるリーグ戦は紅白二組に分かれて四か月近く行われ、それぞれのリーグ優勝者で挑戦者決定戦を行うという長い道のりの棋戦となっている。
 双方どっしりと構え合う相矢倉の一戦となった本局は後手番の銀乃介の完勝譜になった。中盤の仕掛けから悪くしたと認識していたという吉川は夕食休憩前後から気持ちを整えていたらしい、七時過ぎにさっぱりとした様子で投了を告げた。
「先手だから矢倉選んだけど、島津君相手じゃ失敗だったかな」
 敗れた吉川からそんな軽口が漏れる程度に感想戦も軽い空気で進みトントン拍子に終盤まで進んでいく。お互いに聞きたい事は聞き終えて、後は観戦記者からの質問が無ければお開きにして良い局面だろう。
 視線で伺うと、吉川も小さく頷いて同意した。
「話しておいた方が良い変化、ある?」
 記録用の机に陣取る記者へ尋ねると、
「十分です、ありがとうございました」
丁寧なお辞儀とともに返される。ついでに、記者の隣に座る記録係の奨励会員に視線を向けるとこちらも満足したらしい、大丈夫ですと一言だった。銀乃介の一年後輩だったろうか、今は三段で指しているはずだ。
 上位者の吉川が駒を仕舞い終えるのを待ち、それから改めてお互いに礼をする。
 記録係と観戦記者が席を離れたのを見てから、島津君は優しいね、と吉川が呟いた。
「記録の子、話振って貰えて嬉しそうだったよ」
 感想戦の事だろう。棋士によって違いはあるが、銀乃介は、極力記録係にも話を振って意見を求めるようにしている。そうしてあげることが一日世話になった彼らへの礼になると考えているからだ。
「島津兄貴の記録係は人気らしいよ、取り合いだってさ」
「何すか、それ」
「一緒に研究会やってる子が言ってたんだよ。モテる男は羨ましいね」
「男にモテてもねえ」
「私も君との感想戦は楽しいからね、彼らの気持ちは解るな……と、負けた勝負でこんな事言ってちゃ世話無いか」
 冗談めかして言ってから、さて退散だと膝を叩いた吉川が立ち上がるのを見て銀乃介も腰を上げた。時計を見ればまだ八時前、すぐに帰れば鑑連の晩酌に間に合うだろう。
「この後どうだい、自棄酒やるけど一杯付き合わない?」
 床の間の脇にある押し入れから取り出したコートを羽織りながら、猪口を傾ける仕草を付けて吉川が言う。
「明日も対局なんで、すんません」
「そういや島津君は明日有楽町なのか……っていうか最近の君改めて考えると結構とんでもないね、放送協会杯も決勝なんだろ?」
「耳早いすね、どこからです?」
 月初の月曜日に収録を終えていた放送協会杯準決勝は竹中重治との一戦だったが、放映前から結果が知られているらしい。苦笑しながら銀乃介もコートを羽織った。
「研究会の時に本人から聞かされたよ、あの人が珍しく褒めてた」
「名人に褒められるとは、俺も出世したもんだ」
「早指しに関しては本当にアホみたいに強いって」
「それ、褒めてんですかね?」
「負けず嫌いだから、あの人」
 扇子などの簡単な手荷物をコートのポケットに突っ込み帰り支度は完了。鞄を持たない主義の銀乃介は他のどの棋士よりも帰り支度が早く終わる。
「ともかく、旭日杯と放送協会杯二つとも優勝なら一気に一千万以上は稼ぐ訳だろ。少し分けてくれよ……子どもが私立行きたいとか言い出してさあ――」
 はいはいと適当な相槌で流しながら連れ立って会館を出る。吉川のバカ話は千駄ヶ谷駅の改札で分かれるまで延々続いた。


 立花家に着いたのはまだ九時だったが玄関の灯りが落ちていた。合鍵で上がり込み方々灯りを点けながら居間を覗くも当然人の姿は無い。妙に思いながら、居間にかけられている全員の対局予定が書きこまれたカレンダーを確認すると、鑑連のタイトル戦が今日までやっていたのだった。
 そういえば今日勝てばタイトル奪還だったはずだと思い出しながら携帯で検索してみるとどうやら勝ったらしい。
「五千万だったか」
 おばちゃん喜んでるだろうなあ。
 謎が解けた所でその場に座り込み響に電話をかける。十回ほどの長いコールの後で出た響はどこか機嫌が悪いようで、
『なんだよ』
開口一番それだった。
「今どこにいんだよ、家に誰もいねーじゃん。あ、あと勝ったからな」
『お疲れさん、中継見てたから知ってるよ。次のVS矢倉やろうぜ』
「素直に教えてくれって頭下げたら鍛えてやるよ、その代わり一手損の後手早繰り銀な」
『ああ、順位戦の最終局川崎先生の後手だっけ。それならやっといた方が良いわ』
「近いうちにな。で、今どこだよ」
『アパート、来週追試だから追い込み』
「やっぱりあったか、何科目だ?」
『三つだな、日本史と世界史と生物』
「暗記科目はしゃーないわ、大人しく勉強しとけ。にしても年収ウン千万の身分で追試の勉強とは、ご苦労なこったよ」
『高校辞めるのも手なんだろうけどさ……あと一年まで来たし、親との約束だからな』
「そういうこった。安心しろ、俺も赤点常連だった」
『ありがとよ、少なくとも赤点取っても将棋に不都合ない事は解った』
「そういや、慈乃はそっちか?」
『引き取りにきてくれ』
 話題に上るや否やの返答に不機嫌の理由が解ると力が抜けて笑ってしまった。電話越しに妙に物音がしているが、響の興味を引くためにちょこまか動き回っているのだろう。
「アイツも追試か?」
『凄いぞ、全科目だ』
「……流石にバカ過ぎて俺でも笑えねえぞ」
『おじさん達が帰ってきたらマジで説教して貰った方が良いよ。っていうか高校辞めても怒られないんだから、さっさと辞めりゃ良いんだ』
 言いたい放題言っていると受話器の向こうからでキンキン声が鳴り始める。やがてドタバタと物音がしてから、
『銀ちゃん今私のことバカにしてたでしょ!』
と間抜けな妹弟子の声が届く。
「お前さ、折角高校入ったならもう少し危機感持てよ。それじゃ通ってる意味ないだろ」
『学校は友達と遊ぶために行くんだよ、銀ちゃんだってそう言ってたじゃん』
「まあ、それはそれでお前らしいか……で、今日はそっち泊まるのか?」
『うん』
「そうか、んじゃ響に代われ」
『――代わったぞ、どうした?』
「慈乃そっち泊まるらしいから、避妊はちゃんと――」
 ヒの字辺りで察したのだろう、反射神経のテストでは無いが、ンの言葉と同時くらいに通話は切られていた。
「全科目ってのは流石の俺でも無かったな」
 寝転がり天井を見上げながら呟くと、一人の家はあまりにも静かで壁掛け時計の秒針の音が聞こえてくる。
「おばちゃんいねえのか……何か腹に入れてくりゃ良かった」
 六時前の夕食というのは小腹が空く。今から外食というのも手間だがこのまま寝るには物足りない、そんな絶妙に微妙な感覚だ。
「あー、畜生。ついてねえ」
 ぼやきながら畳の上で二度、三度と寝返りを打つようにじたばたしていると、突然襖が開けられてヒエッっと情けない声で飛び上がった。
 久方ぶりに見る、家に籠もって研究する時の、着古した高校指定の青い芋ジャージ姿の千代だった。疲れているのだろう、目の下のクマもそうだが頬が蒼白い。
「居たのかよ……勝ったぞ」
 気付かないフリをして言うと、千代もまた、知ってる、と一言だった。
「慈乃は響のとこに泊まるってさ」
「そう」
「お前は何してんだ?」
「棋譜見てたのよ、女流棋戦の」
 捨て鉢であることを隠そうともせず、笑いたければ笑えば良いと言いたげだ。誰よりも千代自身が自らを嗤いたいのだろう。
 その原因が自らにある銀乃介は笑う事も詫びることも、どちらも出来ず、
「夜食食う?」
だからそう聞いた。
「腹減ったからうどん茹でるけど、お前も食う?」
 その言葉で千代はようやく微笑むと、
「蕎麦にして」
と、疲れは見えるが妙な棘も無い、いつも通りの口調だ。
「俺の夕飯、知ってるだろ?」
「とろろ蕎麦でしょ、中継に載ってたけど」
 それが何、と続きそうなほど自然に返されるとぐうの音も出ない。
「うどんじゃダメか?」
「蕎麦も茹でてよ」
 妙なところで強情なのは昔から変わらない。出来たら持っていくと伝えると、満足したように自室に戻った。

 入るぞー、と一応言いながら扉を足で開ける。純和風な立花家において唯一カーペットが敷かれた洋室のど真ん中に脚付きの盤が鎮座して、千代はそれと睨み合っている。とは言え多少目を動かせば人形が置いてあったり本棚に棋書と混じってファッション誌や少女漫画が並んでいたりもする。普通の女の部屋だ。
「ほれ、蕎麦」
「冷たいのが良かった」
「今更言うなよ、黙って食え」
「そうね、ありがと」
 言いながら盤上の駒を雑に片付け、千代の丼はそこへ置き、銀乃介は学習机の椅子に腰を下ろした。千代の部屋に入る時は大抵そこが銀乃介の定位置になる。机の上には棋譜が錯乱しており、一日眺めていたのだろう、女流のタイトル戦や奨励会の女性会員の物だ。
 すすりながらペラペラと眺めていると、
「負けられないの。誰に何言われても、笑われても、絶対に」
途切れ途切れに、ぼそり、ぼそりと。
「言いたい奴には言わせておけば良いんじゃねえの」
 半ば本心からの言葉だ。勝負事の世界の常として、徒党を組んで他者を陥れようとする人間は必ずいるし、そしてそうした連中を相手にしていると自分の調子を落とすのもまた事実だ。
 銀乃介からしても他人事という訳ではない。今時二手目8四歩なんぞを好んで指す棋風なだけに負けた時には陰口めいた皮肉を言われる事もある。だがその信念を曲げる必要性は感じない。そうした連中は例外なく次の勝負で黙らせてきたからだ。
 眺めている棋譜に特別感じるものが無い事を悟ると、千代の机に視線が移った。デスクマットには様々な写真が挟まれており、千代の高校の友達や奨励会同期達、或いは一門会のものに混じって、響の王竜戦の時の解説だろう、ホテルのロビーらしき場所で銀乃介と二人並んでふざけたポーズを取っている写真もある。撮ってくれたのはファンだったろうか、記者だったろうか、すぐには思い出せそうにない。
「ネットで棋士のレーティング出してるサイトがあるの、知ってる?」
「存在くらいは」
「アンタは一八六二、響は一八二七、慈乃は一五八二、私は一五〇四。奨励会三段の公式戦出場者平均は一五四一、アマトップで一三九六、女流のタイトルクラス平均で一一二五……現役棋士一六〇名中アンタは二位、響は四位、慈乃は七十六位、私は九十五位」
「へえ、俺メッチャ強いんだな」
 関心の低さを隠すつもりは無かった。勝ち負けの結果だけを見て算出された数字は指標としてはそれなりに有用なのかも知れないが、目の前の一局の、実際の勝負の足しになるものではないからだ。
「で、それがどうした?」
 千代は抱えていた丼を盤の上に置くと、口元を手の甲で拭ってから言う。
「私、弱くなってると思う?」
「数字で計ればそうなるかもな、一部の三段とは言え奨励会員より下なんだから」
 月並みな返答をしてからそばを一気にすすりあげ、ご馳走様と端を置く。食後の一服をしたくなり立ち上がってガラス戸を開けると、
「真面目な話なの」
特別な重さは籠もっていないが、だからこそ危うさを感じさせた。
 振り返ると、師に対するように姿勢を正して銀乃介へ向いた千代と視線が合った。
「レーティング二位の、トップ棋士としての意見を聞かせて」
 観念して息を吐き、開けたばかりの戸を閉める。
「確かに、そうだな」
 向かってくる視線をまっすぐに見返しながら答えた。
「棋士になってから営業ばっか回されて、盤に向かう時間が減ったのは間違いない。周りの変化に置いていかれてんだよ……そんなこと自分が一番解ってるだろ」
 銀乃介がひとしきり語り終え椅子に戻っても、千代は何かを待つようにじっと視線を動かさなかった。
 銀乃介は気付かない風に机の上を眺めた。レザーカバーの日記帳、十数年前からの対局ノート、神保町で見つけた大谷崎の源氏、赤い皮の小箱――
「きっと、それだけじゃ無いよね」
 丁寧に整理された机の上から懐かしい小箱を手に取って開けると、風防のガラスが砕け散って針がむき出しになったカルティエはまだ時を刻んでいる――だからだろう。
「……命削って指してたあの頃と比べたら、今のお前は怖くない。それはきっと、研究量がどうとかより、もっと単純なことだ」
 壊れたカルティエの秒針に押されるように、数年前からの本音が漏れる。
「うん、そっか……ありがとう」
 静かな呟きとともに、蛍光灯の灯りは頬に垂れた雫の一筋を反射した。
 初めての事だった。殊将棋に関しては絶対に見せなかった姉弟子の涙を銀乃介は初めて正面から見据えた。そしてそれはいつかの松永の言葉を想起させる光景だった。
 ――どこかで認めなければ、壊れるのは彼女だよ。

「明日七時目安で出て来いよ、対局終わったら飯でも行こうぜ……お休み」
 部屋を出て廊下を行きながら、今なお一部で語り継がれている【女子トイレ平手事件】を思い起こす。
 もう七年前だろうか、高校二年生にして初めての三段リーグに臨んでいた千代が、当時は女流三冠、歴代でも女性最強と呼ばれていた大御所を平手でぶん殴ったというもの。
 きっかけはリーグ戦で逆転負けを食らった千代が腕時計をトイレの床に叩きつけたことにあるらしい。そこに件の大御所女流棋士が現れて女性としての立ち振る舞いを説教したところ千代がかなり苛烈に言い返した為これに大御所からの平手が飛ぶ。普通奨励会員は女流棋士よりも低い立場であり言い返すこと自体に問題があるのだが、ましてや殴り返したとあっては騒動にならないはずがない。
 あの時は師匠の結城も珍しく取り乱し、茶菓子を買って相手の女流に頭を下げに行く事になったのだが、それすらも千代は同行を拒否したため、まさか師匠を一人で行かせる訳にもいかず何故か代わりに銀乃介が連れていかれた。
 あのカルティエは三段の昇段祝いに銀乃介が贈ったものだ。何が欲しいと尋ねたらカルティエだと言ったのでくれてやった記憶がある。高校生の身分から息抜きの雀荘やら競馬で人並み以上に稼いでいた銀乃介だからこそなしえたプレゼントに違いない。
「とんでもねえ女だったな」
 そう漏れた言葉には一抹の寂しさが籠もっていた。