一八

               *

 ――千代はどうする? と聞かれて振り向くと、明美だった。瀬川明美、中学から一緒だったからなんとなく高校で一番の友達みたいになっている子。
「駅前に新しくできたカフェの話してたんじゃん、聞いてなかったの?」
「どうせ将棋のこと考えてたんでしょ、いっつもそうじゃん」
「あ、でも今日は違うかもよ。カルティエのカレの事かも」
「えー、千代は男なんかになびかないでよ。ショックー」
 明美と、明美の友達で何となく私も友達やってる加奈子と、三人で話をするときは大抵私の席の近くに集まっていた。
「違うってば」
「あやしー、やっぱカレなんじゃん。いい男なんでしょ? 写メとか無いの?」
「私撮ってるよ。あとで見せてあげる」
「よし、じゃあ今日は千代から事情聴取だね。決定、いこいこ!」
 手を引かれて、抵抗しなかった。一時間程度なら問題無い。そんな風に自分に一生懸命言い訳した記憶がある――この日、確かに私はカフェについて行った。行って、美味しいラズベリーパイを食べながらダージリンを飲んだ。
 彼女達は銀乃介の事を詳しく聞いてきたから、私は良い気になって、手のかかるバカな弟弟子でそんなことは有り得ない、なんて答えた。
「千代が来てくれるの珍しいから、嬉しい」
 加奈子がイチゴのショートケーキを食べながら言った。加奈子はイチゴを最後に食べようとしたけれども、最後の楽しみを床に落としてしまって悔しがっていたから覚えている。イチゴショートだった。
 気分転換も大事なの、と私は答えた気がする。
 窓際の席だった。期末上がりの午前終業の日だったから、駅前を急ぎ足で行くスーツ姿の人達からの視線を何度か感じて、その度に少し浮かれた気分になった。千駄ヶ谷でそういう視線を向けられるのは嫌だったけれども、普通の格好をしている時にそういう風な事があると何故だかとても安心できた。
 その日は金曜日で、翌日に三段リーグの十一・十二回戦が控えていた。その時私は六勝四敗で、史上初の女性三段として取り上げたマスコミは残り全勝なら昇段とかそんな無茶を言っていた。
 将棋に付きまとう余分なものから、そうした全てから逃げたかった。そんなくだらない言い訳を、今でも完全に否定することはできない。
「何かイメージと違う、凄い落ち着いてるじゃん。千代の話だともっとやんちゃなタイプだと思ってた。いいじゃん、この人」
「だってこの人御曹司だよ。大企業の創業者一族だって、本物の貴族だよ」
「ウッソマジで? そんな人が何で将棋指してんの」
「何かね、千代にボコボコにされたのが悔しくて追いかけてきたんだって」
「やだやだやだ何それー。凄いね千代、ウンメイじゃん」
 明美の携帯電話を見ながら盛り上がる彼女達に困った風にしてみせながら、私はやはりいい気になっていたのだと思う。いい気になっていることに気付きながら息抜きのつもりでそれを許容していた。自分のことをバカな女だと思いながら、軽蔑しながら、その感情に気付かないふりをしていた。
「向こうにその気があるなら、悪くないかもね」

 翌日のリーグ戦は散々だった。二連敗で昇段の目が消えた。
 あの時私がトイレで時計を叩き付けたのは、今まで欺いて来た無様な自分から逃げられなくなったからだ。
 トイレに現れた滝川さんはいつものように落ち着いた振る舞いで、私を見ると何か微笑ましいものに気が付いたような表情をした。そして穏やかに、女の子なのだから物は大事にしなさいと諭した。
 女の子と言われた時、血が沸騰して全身から火が出たように恥ずかしかった。見られてはいけない、知られてはいけないものを覗かれてしまったと思った。大人の女性の視線に全てを見透かされた気がして、羞恥に耐えられなくなった。
 だから適当な理由を並べて、また自分に言い訳をして、あれは八つ当たりだったのかも知れない。
 ――思い出したくもない、みっともない記憶。嫌な夢だ。

              *

 陽の眩さに目を覚ました千代が枕元の時計を確認すると、既に十二時を回っていた。
 うなされるような悪夢でもないが寝覚めは悪い。ベッドから降り並べたままの盤を見ると、布団に入る直前のまま、滝川圭子女流二冠の棋譜が並べられていた。
 こんなものを並べたせいだ。乱暴に駒を片付けて風呂場へ向かう。
 風呂を沸かす時間に棋戦情報を確認すると銀乃介は午前中の準決勝も無事勝ったらしい。小寺二冠を相手に後手番、戦型は先手が中飛車に振っての対抗形。銀乃介を相手に相居飛車を避けたかったのだろうが、居飛車一本の人間というのは対振りの経験値もズバ抜けて高い。殊に銀乃介のような棋風では猶更だ。本職の振り飛車党でも苦労する相手をオールラウンダーの振り飛車でどうこうするのは至難の業であることが棋譜を読めば良く解る。
「結局、アイツ倒すには相居飛車しかないのよね」
 脱ぎ捨てたジャージを脱衣場のカゴに入れると、さっさと身体を洗い浴槽に浸かる。
 陽が明るいうちの風呂はどうにも贅沢な気分になれる。差し込む陽光が羽のように煌く様を眺めているだけで沈んでいた気持ちが心なし軽くなる。
 膝を抱くようにして湯船に顔をつけながら、今日着ていく服を考える。
 自然とそんな風に考えていた自身の浮かれている心に気が付き、もうダメかも知れないと千代は思った。その気持ちを軽蔑することすら、今の自分にはできそうもなかった。
 弱くなった理由は明確だった。銀乃介に言われて自覚した。
 もう、熱が無いのだ。
 奨励会の頃は常に中間よりも上だった。地獄だった三段リーグすら負け越したのは最初だけで、以降は常に指し分け以上を保てていた。今振り返れば、上を見て目指せない距離では無かったのだ。絶望に支配されていたそこには、しかし確かな夢が、感じられる希望があった。
 プロは先が見えない。奨励会の頃と違い生活が保障された幸福な環境で延々と勝ち負けを繰り返していく。安寧にまどろみながら常に遥か上空を見上げ自分を擦り減らして行く様は飼育されている家畜と同じだ。
 銀乃介や響は一瞬で上へ駆け上がった。それこそ奨励会の頃と同じ速度で、同じ感覚で、天井など知らぬ風に上へ行ってしまった。自分は勝てない。一度は昇級したがそれきりだ。
 食べていくための職業として考えるなら四段に上がった時点で満足するべきなのだろう。けれども、上を目指すことを諦め、食べていく為だけに指すのであれば、それは果たして棋士を続ける理由になるのだろうか。それこそ適当に結婚をして、母のように夫を支えていく生き方でも良いのではないか、その方が幸福を感じられるのではないか――そんな事を考えるのも自分が女だからだ。
 千代はふと自分の乳房に手を当てて揉んだ。掌に残る柔らかさと臍の奥を蠢く感覚に気持ち悪いと言葉が漏れた。

 ぼんやりと風呂に浸かっていると、玄関から物音がした。鑑連達が帰って来たのだろう。
「勝ったぞ、おい、誰もいないのか!」
 上機嫌な鑑連が廊下を走り回る足音の後で暫くしてから、脱衣場の戸が開けられ、千代かしら、と母の声が届く。
「銀ちゃんの対局、今日じゃなかったかしら。行かないの?」
「この後行くよ。結果は知らないけど外で食べてくるから」
 言うと母は少し間を開けたが、解ったわと頷いた。
「ちゃんと御洒落して行きなさいね」
「何言ってんのよ」
「お泊りでも良いのよ? 鑑連さんには上手く言っておくから」
「冗談やめて」
 言いながら、普段なら呆れ笑いが自然と浮かぶところで黙ってしまった。笑えなかった。その一瞬で母は察したのだろう、ごめんなさいとその声色は真剣だった。
「細かい事は忘れてゆっくりしてきなさい。千代だって、たまにはそれ位いいのよ」
 ふいに鑑連が母を呼ぶ声がした。家に誰もいないことが解って、褒めて貰う相手がいないことに寂しくなったのだろう。母は苦笑を浮かべながら、鑑連の相手をしに行くのだろう、脱衣場から背を向けた。
「ねえ、母さん」
 立ち去ろうとする母を呼び止める。
「父さんを待つのって、どんな気持ち?」
 母は背を向けたまま、その表情を伺うことは出来なかったが、犬ね、と言った。
「犬?」
「ほら、ボールを投げて取ってきなさいってやるでしょう。あんな感じ。ボールの代わりに札束咥えてくるのよ、あの人は」
 今回は五千万咥えてきたわと、冗談なのか本気なのか定かでなかったが千代が噴き出すと母も笑い、静かだった風呂場に気持ちのいい笑い声が響く。
「でも本当なの。私は私以外の生き方を知らないけれど、この生き方もとても幸せよ」
 そう続けた母に、震える肩でありがとうと返した。

 千代としては無難なワンピースとコートを合わせた適当なファッションのつもりだったが、周囲にはそう見えなかったらしい、家を出ようとしたら目の色を変えた鑑連が男かと問い質してきた。
「銀だよ?」
 そう返してもううむと唸るばかりで力が抜ける。相手をしたくないので背後の母に視線を向けると、行って来いと目配せされた。
 電車に揺られながら何故だろうと考えてみたら、高校を卒業してからスーツ以外でスカートを履いていなかったことに気が付いた。大抵がパンツルックか和服だ。
 ふと窓を見ると変装用のサングラスを付けて薄く化粧をした自分の顔が映った。
 ――もう今日は考えない、開き直って遊んでやろう。
 いつぞやのように言い訳をする気も無い。
 いつものように、いつもとは少し違う視線を感じながら電車を降りると、三時少し前の有楽町には雪が降っていた。降るという予報はあったのだろうか、ニュースを見ていないから解らない。
 公開対局の会場になっているビルに入ると、将棋のイベントにしては妙に人が多いような気もした。響の活躍で最近急増した将棋ファンかも知れない。
 棋士検討室に行くつもりはハナから無く、一般の観客に紛れるように当日券で入場すると大盤会場はやはり例年に比べて人口密度が高い。壇上では準決勝で敗れたはずの小寺が一人漫才のごとく喋り続けて客席を沸かせている。
 最後方の席にそっと腰を下ろし大盤を眺めると戦型は正調角換わりの腰掛銀同型、昭和の昔からこねくり回され先手必勝手順も見つかるなどしたが、現状は更に進んで別の定跡が開かれている。
 先手はB級1組の太田賢将七段、銀乃介より五歳年上だが棋界的にはまだ若手とされる二十台の有望株だ。
「島津君の居飛車はホンマ鬼のように強くてな、せやから僕は逃げたんや! ああそうや、みんな思っとるやろから自分で言うたるわ、今日の中飛車は逃げや!」
 髪をグチャグチャに掻き回しながら絶叫する小寺は、笑いを取る為ではなく素でやっているのかも知れない。
「ですが、太田七段は敢えて居飛車で勝負したと。譲れないものがあるんでしょうか」
「意識はしとるやろなあ。太田君は順位戦の直接対決で負けとるし、しかも島津君は現状昇級候補の筆頭や。自分より年下で三期も遅く入ってきたのに追い抜かれるっちゅうのはなかなかツライもんやで」
「なるほど」
「せやから、ここ一番で負けられんと思っとるのは間違いない。順位戦で先越されても全棋士参加の棋戦優勝で先に立てればまだ格付けは終わらん、そう考えとるかも知らん」
「厳しい世界ですねえ」
「女流かて同じやろ? この世界は勝ち続けるかふるい落とされるかの二択だけや。その二択が延々続く、どこまで行っても終わりはない」
「小寺先生でもそうなんですか?」
「せや。タイトル負けたら僕なんぞただのひょうきんな大阪人やもの、帰って串カツ屋の営業せにゃならんくなるわ」
 と渋い顔で聴衆を引き付けておいて、らっしゃいやせー、と串カツ屋の親父のフリまで付ける。間の取り方も一流だから観客は手を叩いて笑う。
 局面は既に駒がぶつかっている。4・2・1・7・3筋の歩を突き捨てて仕掛ける先手に後手は3筋を手抜いて飛車先から突っかける。以下7筋の折衝を続けてから先手の7六角打が良く先手が指しやすいとされている将棋だったが、こんな変化を受けるのも銀乃介だからだろう。現にモニターに映る両対局者の表情を見れば、良いはずの変化に飛び込んでいる先手の太田七段が険しい表情で考え込んでいるのに対して、後手の銀乃介は不敵なまでに超然とした表情で睨んでいる。
 負ける気など毛頭無い、相手を見切ったようですらある態度。本当の一流にしか許されない大上段の気迫。
 太田の険しい表情には銀乃介の態度への怒りも込められているのかも知れない。千代はそれに気が付くと痛々しさを感じてしまった。それは独りよがりな共感だった。遥か格上の太田の表情に千代は自分自身の姿を重ねていた。
 そうしてようやく、結局自分は本当の意味では客席に座れないのだと気が付くと、急に寒気がした。
「しかしこれ先手が良いはずなんやけど、島津君が知らんはず無いしなあ」
「とすると、ここから島津七段の新手が見られるということでしょうか?」
「せやな。それないと飛び込まんもの、この変化は」
「どの辺りで変化するんでしょうか?」
「知ってたら僕かて今日飛車振らんで勝負したわいな」
 また笑う。笑われているのは太田だろうか、銀乃介だろうか、小寺だろうか。棋士とは地獄の底でのたうちまわる姿を観客に笑って頂くお仕事なのだ。
 冷笑に支配された考えであると解ってはいる、しかし思考が切り替わらない。
 千代は静かに会場を出た。

 ぼんやりと、サングラスを外して、ホールエントランスで外の景色を眺めていた。雪の勢いは増している。いつ以来だろう、きっと積もる。
 本当に泊まりになるかも知れない。
「雪、困りますね」
 突然背後から声を掛けられ、振り返ると滝川女流二冠だった。親しい間では当然無いが、見かけたので声をかけたという所だろう。
「聞き手だったんです、今日。出番が終わって暇になった所でお見かけしたので」
 十数歳年下の人間、それも数年前までは自分よりも下の地位にいた人間でも、四段以上であれば丁寧語で話す。それは紛れもない女流棋士の姿だった。
「この後お出かけの予定だったんですか?」
 千代の格好を一瞬だけ眺めると、その相手まで全てを察したように言う。今で無ければ激昂していたかも知れないがそんな気力は無い。
「オフなので」
「そうですか、折角なのに……でも、雪景色も素敵かしら」
「私は、そういうことは」
 言葉少なに返すと滝川は微笑みながら、すみませんと言った。
「先生のそういう格好初めて拝見したので。とても可愛くて、からかってしまいました」
 千代を試しているのかも知れなかった。以前であればまず間違いなく言い返していた。
 千代が無言であることを悟ると、満足したのだろうか、それとも諦めたのだろうか、
「大東亜製鉄さんの棋戦の件、先生のお陰です。本当に有難うございます」
そう言って深く礼をしてから立ち去った。

 立ち去ったはずの滝川が戻ってきたのはものの数分と経たないうちの事だった。その手には白扇と筆ペンが握られており、聞けば揮毫をしてあげて欲しいという。彼女の指した方向には若い夫婦とその陰に隠れるようにして女の子がいた。
「話を聞いていたんですけど、折角だからと思って」
 何故か腹立たしさは感じなかった。そう伝える滝川の表情が本当に優しい、慈愛に満ちたものであったからだ。
 オフではあるがこのような頼まれ方をしたのでは断れるものではない、千代は手近なソファに腰を下ろすと少女を手招きして尋ねた。
「お名前は?」
「たちばなさちです」
 五歳くらいだろうか、若夫婦に視線を移すと、橘沙智だという。
「漢字は違うけど、同じ苗字だね」
 ファンへのプレゼントに良く書く夢の一文字を描くと、少女は少し悲しそうな顔をした。
「欲しい字、あった?」
 ごめんねと笑いながら頬を撫でると親の方が狼狽している。剥きたての茹で卵のような気持ちの良い肌だった。
「この子、本当に先生のファンなんです。だから先生が使っている扇子と同じものが欲しいと」
「でも、読めないでしょう」
 話していると、
「ひゃくせつふとう」
少女は大きな声で言った。
 新四段になった時、タイトル挑戦をする訳でもないのに記者会見で白扇に揮毫をさせられた。その時に書いた文字――百折不撓、命尽きるまで諦めない意志。
 希望の言葉が解ったのだから新しい白扇に書き直してやれば良いが、しかし躊躇われた。あの頃であれば、それが自分の将棋だと胸を張って言えたはずだった。
「沙智ちゃんはね、女流じゃなくて奨励会を目指すんですって」
 滝川は本当に嬉しそうに言う。自分たちの世界を軽視されたことなど欠片も気にしていないのだろう、そうでなければ表れるはずのない美しい笑顔だった。
「きっと、これからは女の人でもそういう人が沢山出るわ。だから先生が書いてくれたのは、沙智ちゃんの夢が叶いますようにって、そういう意味よ」
 滝川が上手くまとめると、少女は満面の笑みでそれを受け取った。
 去り際の握手をして去っていく少女を、千代は黙って見送った。
 ――やめておきなさい。
 迂闊に口を開くとその言葉が溢れそうだった。
 ふと、ホールから歓声が届いた。決着したのだろう。

 終局後、大盤解説場ではそのまま表彰式が始まった。
 沈痛な面持ちの太田はそれでも歯を食いしばって銀乃介を称えている。
 勝者インタビューで賞金の使い方を尋ねられた銀乃介は、思い立ったように、時計でも買うかな、と答えた。