二十二

 朝は六時に起き、ジャージに着替え、スニーカーを履いて家を出る。三百メートルほど行ったところにある近所の小さな稲荷様を詣で、帰り道で朝日に向けて目を見開いて伸びをしながら深呼吸をする。
 帰宅後シャワーで寝汗を流し黒のパンツスーツに着替える。晒で乳房を押し潰すように、肋骨の軋む感触が解る程度に硬く締め付けると、数年ぶりの醒めた感覚が戻ってくる。
 四段になり対局が増えてから遠ざかっていた当日のルーチンは、出来る事は全て試そうという程度の気持ちからだったが、思った以上に効果があるようだった。感覚が遡り一局への執念が、過去に覚えた敗北の痛苦が、勝利によってのみ覚える安堵が、胸の奥でどす黒く混濁し、反応によって熱を放ち始めている。
 鏡に向き、口角を少しだけ上げた、微笑みとは呼べない程度の、しかし見るものに穏やかな印象を与える為の、柔らかな表情を作りあげる。数度繰り返し、対局時の顔の筋肉の使い方を確認すると、十年以上かけてあの地獄で培った表情の作り方は、多少の時間では身体も忘れないらしい、少なくとも見てくれだけはあの頃と変わらないものが出来上がる。
 自室で支度を整えてから腕時計を付けようとした時に、ふと、机の上の赤い皮の小箱が目に入り鞄の中に放り込む。
玄関で靴を履いていると、いつの間にか背後に母が立っていて、弁当の包みを渡された。四段になり稼ぎが出来てからは店屋物が増えていたため久々だった。
「大変でもきちんと食べなさい、鑑連さんも言っているから」
 かつての朝と同じようなことを言いながら、日常の一コマであるように手慣れた動作で切り火をして送り出す。大一番に臨む人間にだけ母がする立花の家の特別な風習は、千代には四段昇段が懸かった三段リーグ戦以来のことだった。
「ありがとう」
 何を言わずとも察してくれた母に感謝を残して家を出た。


 千代が特別対局室に入るとまだ木下の姿は無く、記録係の姿があるだけだった。
 頭を下げて下座に座ろうとすると、慌てたように制される。
「立花先生は上座に座って頂くように事務さんに言われています」
「どういうこと?」
「女王位は準タイトル扱いの契約とのことで、今日はネット中継も入るのでスポンサーのことを考えろと、松永会長からだそうです」
「……そうですか、解りました」
 戸惑ったのは一瞬だった。対局室に入った以上、精神の揺らぎを周囲に悟られる訳にはいかない。それがたとえ記録係であってもだ。
 上座に着いて暫く、盤の手前に扇子と並べてある風防の割れたカルティエが対局十分前を示す頃に木下は現れた。想定通り上座の千代を見るなり憮然とした表情を隠さなかった。足音を派手に鳴らしながら盤側でただ一言、僕の席がないと吐き捨てる。
「松永会長からの指示とのことです、このままで失礼します」
 千代は取り合わずそう言い切り、目を閉じて瞑想した。木下はまだ怒っているのだろう、着座していないことは見ずとも気配で伝わってくる。
 ――僥倖。この状況は千代にとってそれに違いなかった。
 或いは松永からの意図しない援護射撃かも知れない。それは例えば、野球における一回走者なしの状況でのボールカウント一つ分のような、フルマラソンにおける十秒にも満たない差のような、ほんのわずかな、だが明確なアドバンテージだった。
 ――己の平静を損ねた姿を対局相手に見せたという事実。
 その効果は直ぐには表れない、しかしこれから時間を積み重ねていく中で必ずや意味を成すものだ。
 盤上に駒を並べる間にも、木下の刺すような視線が千代に向いている。千代は穏やかに作り上げた表情で佇む。
 睨み返すような真似はしない、ただ天に向けて背筋をまっすぐに伸ばして正座し、肩の力はやや抜いて、扇子を柔らかに握った左手は脇息に置き、右の手は膝上十センチほどの腿の上に掌を開いて、顔は変わらない表情を浮かべ続ける。
「立花先生の振り歩先です」
 ハンカチを広げた奨励会員が上手の歩を五枚拾う、その過程でまたも木下の眉が僅かに動いた。千代はそうした動作を決して見逃さない。
 ――また一つ、積んだ。
「歩が四枚、立花先生の先手です」
 振り駒の結果を聞くと千代は再び目を閉じた。
 自らが相手を観察していることは知られない方が良い、観察していることを知られたら相手は却って冷静になってしまうから。相手が誰と指すのかが解らないくらいになる方がちょうどよい。目の前の風景に溶けてしまい、見えなくなるような存在であることこそが望ましい。
 だから千代は目を閉ざす。その静けさが却って相手の精神に細波を立てる事を熟知していればこそ、相手の揺らぎがまるで伝わっていない風に、穏やかな表情でその場に佇む。
 やがて定刻になり記録係の声が聞こえると、背中からの礼をした。
 木下の極端に角度の浅い礼が僅かに覗ける。頭を下げる千代を見下ろしながら鼻で笑うように、その肩が小さく揺れた。
 ――また、一つ。
 歩は音も無く7六に置かれる。



             ※



 響にとっては初めてとなるスタジオ解説だったが、場所は普段と変わらない千駄ヶ谷であり場所が地下であることを除けば特段と緊張することもない。配信企業のスタッフに髪をいじられるのも任せて本番を待っているところだ。
「響ちゃんはオシャレしてないね」
 声を掛けられて向けば薄く化粧もしているらしい、本日のダブル解説の相方である慈乃が立っている。
「する必要無いだろ、将棋の解説だぞ」
 響も慈乃も普段通りの学生服だが、慈乃はブレザーのスカートを普段よりもかなり短く巻いているようだ。スタイリストからの指示らしい、女子高生棋士という肩書を売り込むには確かにこういう方が良いのかも知れない。
「駄目だよ、普及の為にも頑張れって会長も言ってたじゃん」
「どうしてもってなら他の人間あたって貰うさ」
「ひねてるねえ」
「元からだ」
「機嫌なおしなよ、もう本番始まっちゃうよ」
「別に機嫌は悪くない」
「ほらほら、今日は超ミニだよ?」
 チェックが入った灰色のスカートは響も見慣れたものだが、ひらひらとさせながら言うと普段とは違う光景になる。
 響は反射的に視線を逸らしていた。耳の裏が少し熱くなっている。

 お互いの棋風からして先手の居飛車に後手が飛車を振る対抗形、囲いは両者穴熊が有力と解り切っているだけに序盤でそうそう話すこともないと見られ、事前の指示では対局が開始して暫くはくだらない雑談でもして間を持たせてくれということだったが、二手目にしてそういう訳にはいかなくなった。
 振り飛車党である後手の木下が二手目8四歩と突いたのだ。常識で考えれば相居飛車の意思表示である。
「これは驚きましたねえ」
 慈乃が大盤の駒を動かしながら呆けたように言う。
「どうせこんなもんだろ、って感じですか」
「ひ……浅井王竜、表現が少しストレート過ぎませんか」
 カメラを意識してか、普段通りの話し方が出来ずに苦しそうな慈乃はそれでもフォローを入れようとするが響は遠慮しなかった。
「普通に考えればそうですよ。振り飛車党の人間が居飛車メインの相手に二手目8四歩を突くなんて、喧嘩売る以外の何物でもない」
「もしかしたら研究を試したいとか、そういうことかも」
「まあ否定はしないですけど、木下九段の居飛車って振り飛車党を相手に相振りを避ける目的以外じゃ印象にないですし、それにしたって相振りの方が多いでしょう」
「でも、ね?」
「まあ、棋風改造考えていてその為のテストかも知れないですけど」
「そう、そうだよ」
「でも指されて気分が良いもんじゃない事は確かです。立花女王は基本居飛車ですし」
「響ちゃんってば!」
 必死の執り成しを延々無視されてはこうなるというものだ。素の話し方を隠しきれなくなった慈乃にも気付かず、響はモニターの対局室を眺めていた。そしてふと、そこに映る千代の姿に懐かしさを感じていた。
 いつだったか、千代がまだ奨励会員だった頃、響が小学生だった頃の話だ。千代と練習将棋を指す時にはいつも姿勢のことを注意されていた。常に見られていることを自覚しろと千代は常々言った。
 お互いに奨励会員の身だ、公開対局を意識しての発言ではない。
 盤向かいの相手から見られていることを意識しろ。精神の揺らぎを相手に悟られて得なことは一つも無い。盤に向く時は徹底して己を殺し、相手に毛ほどの情報も与えるな。
 モニターに映る千代は凛とした佇まいで盤に向いている。対局が始まり木下が足を崩しても正座のまま、盤に向く表情は水鏡のように透徹した静けさを帯びどこか微笑んでいるようですらある。
 盤からやや遠く距離を取り、沈むように前のめりになることは決して無い。背から首が一直線に天へ向けて伸びる姿勢は、肩をいからせる風ではなく、首筋から腕にかけてなだらかに描かれる曲線は、むしろ茶道や華道を嗜む人間のそれに見る幽玄さすら放ちそれでいて不用意に揺らぐ事も無い。光を透かす柔らかな布、或いは山間を人知れず行く清流のような佇まいによって内面の苛烈さは見事なまでに覆い隠された。
 しかし響は知っている。その全てが立花千代という棋士によって練り上げられた勝利の為の策であることを、彼女の意思によって完全に制御され演出された自然さであることを。
 モニターに映る千代の姿が三段時代の彼女と重なる。
「今日、長いかもな」
 カメラの存在を忘れたように響は呟いた。

 数手進むと矢倉模様の戦型が見えてきた。モニター越しの木下は時折千代に視線を送るようにしており、それは同職として意識しなければ気付けないものだが、棋士ならば誰しもが察するような嫌な観察だった。見下されたことに怒る彼女を見たいのかも知れない。
 しかし今日の千代ならば相手にすることは無く、むしろ冷静に積み上げたものの一つとすることができるだろう。むしろ木下の視線は千代にそうすることを強要されているのかも知れないと、響にはそう見えた。
 木下は気付かないうちに底無し沼へ片足を入れてしまったのだ。
 千代の様子を意識すればするほど、視界に入れれば入れるほど、否応なしに千代の演出は足元からそっと這い上り、自分ではどうすることもできない、精神の深奥部分に静かに根を張って寄生し静かに脈を打ち始める。
「矢倉模様ですね」
 呼びかけるように言った慈乃に引き戻された。適当な解説でも言葉を続けなければいけない。
「将棋の純文学ですか」
「そんな言葉もあるよね、本当に昔からの戦型だし」
「基本的な組み方だけでも解説しましょうか。居飛車を指そうとすると大抵これが基本になりますから、知っておくと便利ですよ」
 大盤の駒を初期配置に並び替え昔ながらの二十四手組を解説しようとしていると、モニターに表示される視聴者のコメントに面白いものがあった。
【矢倉は高尚なの?】
 流れていくコメントを見て一寸固まった響はやがて、
「何で?」
と率直な疑問を口にした。
「別に高尚でも何でもないですよ、まあ正統派の将棋ですけど」
 カメラに向けて応答していると、慈乃が横から、
「純文学って言ったからだよ、きっと」
そう付け加える。響はようやく合点がいきなるほどと一つ手を叩いた。
「あれはそういう趣旨の発言じゃないんですよ。二階堂さんっていう棋士が、この間私と新人王の記念対局やった方ですけど、あの方がぼやいた発言でして」
 二階堂秀行が言ったと聞けば、あのオマンコジジイがそんなあからさまに高尚な発言をするはずが無いぞ、と察しの良い視聴者は気付き始める。
「そもそも二階堂さんが言った事ですから、アレは一種のジョークなんです。純文学って地味で陰気でネチネチしてるでしょ?」
 文学マニアが聞いたら卒倒しそうな発言だが視聴者には受けが良いらしい、語り出した途端にコメントが盛り上がっている。
「矢倉も同じで、相手の手を見て変化する部分が多い、要は凄く細かい折衝が多いんです。だから将棋の純文学、派手さが薄くて細かい戦いになり易い戦型って意味です。でもまあ、将棋の王道ってのも正しいですからね、二つの意味をかけているのかと」
 一通り語る間に、どうやら慈乃が並べ替えたらしい、大盤の駒は初形に並べられていた。
「おお、悪いな。助かった」
 普段と違って妙に動きの良い慈乃に礼を言うと照れたように頭を下げられた。どうにも素直に対応されると気恥ずかしさも感じたが、流して二十四手組の解説を始める。

 対局が昼食休憩に入ったのを見届けてから、響たちは連れ立って昼食に出た。
 気軽な立場ということもあり、今日は散歩がてら外食しようかと店を相談していた矢先に同じく昼食に出てきた銀乃介と鉢合わせになり、誰が言い出すでもなく連れ立って向かうこととなる。
「この序盤でひでえもんだ」
 手近な寿司屋にふらりと入りカウンターに並んで陣取る、おしぼりで豪快に顔を拭きながら銀乃介が放った第一声がそれだ。
「端があんだけ綺麗に破られるとな、確かにひどい」
 続く響も気が抜けたように言う。
「まあ、そうだね」
 慈乃も続くと全員揃って形勢を悲観しているようにも聞こえる。
「ご注文はどうなさいます?」
 注文を取りに来た店員に間髪入れず、
「特上三人前」
銀乃介が言う。
 響も慈乃も、敢えて訂正しようとはしない。どこかゲンナリした表情で頷くばかりだ。
「覚悟して食えよ」
 悲壮感が漂うのは言葉面だけで、語る銀乃介の口調は明朗だった。表情はむしろやる気に満ちておりその目はぎらついている。
「お前の嫁だろ、責任取って午後交代で入ってくれよ」
 溜息を隠さない響が言うと、
「手が空いてりゃな」
銀乃介は面倒臭そうに返した。


 午後に入っても盤上に先手の良い変化は見えず、先手の手を考える事も嫌になる局面が続いた。
「まあ、先手としては入玉を目指すくらいしかやれることが無いんですよね。最善手ではなく紛れが増える手を続けていくしかないでしょう」