現局面で後手が4六金と打てば、打てれば、勝負は終わる。粘る、粘らないの問題ではなく先手は負ける。何よりひどいのは、先手がそれを当然読んでいること、そして読んだ上で飛車を成って攻めを見せたことだ。
「今でも覚えてんだけどさ――」
 モニターから視線を動かさずに、銀乃介が言う。
「――あの日、あの夏の日、デパートの将棋まつりの会場で指導された日だ。
 局面は俺が圧倒的に勝っていたんだ、そのことは感想戦ですぐに気付いた。
 攻めが刺さったと思っていたら、平気なツラで手抜かれたんだ。あまりに平然と指されたから、コッチも手鳴りで受けさせられて、一手必死を見逃した」
 銀乃介の語る内容に響の視線が大盤へ引き戻される。なるほど、今とよく似た状況だ。
「感想戦の時のアイツが言った言葉がよ、今でも忘れられねえんだよな――」
 その一言を、今、千代は木下に向けている。
 ――貴方はどうせ間違える。
 木下に届くはずのない言葉だがその通り木下は4六金とは指さなかった。指せなかった――6四香。
 千代は既に木下の精神を支配している。積み重ねてきた演出によって静かに寄生した根は既に一帯を覆い尽くした。だからこそ4六金と指せない事を察した、だからこそ飛車を成った。
 ふと、今まで動かなかった千代が悠然と扇子を開いた。ゆっくりと二度、三度風を送る、ほんの僅かな間だったが、その間に木下は自身の見落とした4六金の存在に気が付いた。
 木下の表情を見れば解る。隠しようもない溜息を漏らし乱暴に頭を掻いている。
 そうして自らの悪手に気が付いた人間は思わず相手の表情を伺ってしまう。それは殆ど反射と言っても良い反応で、親に叱られた子供がそうするように、上目遣いにそっと覗き込んでしまう。
 見てしまう。
 十数時間を経てもなお、一つとして変わらずに佇む、美しい棋士の姿を。
 木下の視界が千代を収めたことは、響にも、銀乃介にも、恐らくは数十万の視聴者にも、誰が見ても直ぐに解った。その表情がこれまでにない形に歪んだからだ。
 木下が抱いたのは恐怖の念だったろう。見る者の同情を禁じ得ない痛々しい表情だった。
「そんなに可愛げがあるものじゃない」
 響は呆れたようにぼやく。木下が見たのは泥を被ったお姫様などでは断じてない。
 自らが流し続けた血と、そして今までに蹴落としてきた数多の人間の返り血で彩られた恐ろしい女の顔だ。そこに沼があるとすればそれはただの泥沼ではない、彼女の浴びた血を湛えた、蟲毒の底の血の池地獄だ。
 血の池地獄の女王は静かに囁く。
 盤を挟んだ人間の耳元で、おぞましい呪詛をそっと囁く。
 ――貴方はどうせ間違える。
 きっと、今の木下にはその声が止まずに届いている。



             ※



 木下が折れたことは千代にもすぐに解った。しかし油断はない。まだ局面自体は後手が良い。
 実際の所肉体的にも限界を迎えていた。慣れているとはいえ一日正座をし通した足は既に感覚が無いし、顔回りの筋肉も制御するのが一杯、肩も腰も、気を抜けば砕けてしまいそうになっている。他人に言えば笑われるだろう。局面を考えて疲れるのならばともかく盤外戦の為に苦心する棋士など侮られても仕方がないのだ。
 しかし千代はそうして勝ちを重ねてきた。自分よりも巨大な才能を相手にそうして賽の河原で詰むような思いを繰り返してここまで這い上がってきた。浅井響のような圧倒的なセンスも、島津銀乃介のような剛腕も、ましてや妹のように壊れた才能も、何一つとして無い彼女にはそれ以外の道が無かった。
 それが現実だ。
 自身に弟子入りを志願していた沙智をふと思う。彼女はこの対局をまだ見ているだろうか、呆れ果て幻滅して途中で帰ってしまったかも知れない。アマチュア有段もある人間であれば、今日の対局は途中で見るのを投げているかも知れない。見るに堪えない見苦しい棋譜だと笑う人間もいるだろう。だが、それならばそれで良いと思う。自分が彼女に伝えられるとすれば、自分の這い上がったこの地獄だけだろうから、沙智がこれを見て諦めるなら行く先の結論も変わらない。
 ノートを逆から見ることが出来たのなら、きっと自分は棋士を目指さなかったのだ。
 うなだれた木下が馬で飛車を取った。
 同玉と応じる、その動作で音をたてないようにそっと摘む。
 壮絶な泥仕合の果てに局面は先手勝ちに入れ替わった。残ったのは寂寥感すら漂う無残な棋譜と千代が得たただ一つの勝利だけだ。
 自分が残す棋譜には何が描かれているのだろうと、彼女は考える。
 一部の天才たちのように盤上真理を追究することも出来ず、ただ目先の一勝の為に遮二無二なっている自分の棋譜は、見る人に何を与える事ができるのだろう。
 それともやはり、あの日、旭日杯の会場で感じたように棋士は道化なのだろうか。棋譜を残すためでなく、地獄の底でもがき苦しむ様を見せて笑われる為だけに棋士とは在るのだろうか。
 答えなど出るはずもない。
 或いは答えがあるというのなら、それを自覚してもまだ指し続けている今の自分が答えなのだろう。棋士とは周りにどう見られようとも、その結果生き恥を晒すことになろうと、将棋を指す事を止められない人種なのだ。それがなければ死んだも同然の、どうしようもない人種なのだ。

 数十手後、投げ場を失い彷徨っていた壊れかけの木下は崩れるように投了を告げた。





 感想戦を終えると木下はそそくさと対局室を後にした。無理もない、感想戦では敢えて4六金に触れてやり、これなら間違いなく負けていたことを笑顔で伝えてやったのだ。
 感想戦は貴重な死体殴りの場とすることもできる。相手に苦手意識を植え付けて終えることが出来れば、次局以降も【一つ分】を先行して積み重ねることができるかも知れない。ましてや木下には散々唾を吐かれてきた件もある。今後暫くは白星を献上して貰えるよう取れる手段を徹底しても、千代に気後れはなかった。
 木下が去った対局室で一人、千代が盤の前で呆けていると、いつの間に入って来たのか銀乃介がいた。声をかけるでもなくただ立っている。
「どうしたの?」
 かすれた声で問うと、
「降りてこねえから迎えに来たんだよ」
言いながら、早くしろと手で催促している。
「悪いんだけど、今立てないの」
 自身の足を指して千代が応えると、愉快そうに笑いながら、
「背負ってやるから、早く帰るぞ」
盤側まで歩み寄り、しゃがみ込んで背を向けた。

 銀乃介に身を預けながらエレベーターに乗り込むと、何故か彼は二階を押した。
「帰るんじゃないの?」
「約束したんだろ」
「どうせ帰ってるって」
「いるさ、絶対に」
 自信ありげに断言する銀乃介は子どもを解っていないと千代は思う。
 子どもはとても正直で、とても残酷な生き物だ。
「あんな将棋見てまだ弟子になりたいって言うなら、ほんとに考えてあげるけどね」
「その言葉、忘れんなよ」
 言い合いながら、千代は自身の胸が僅かに高鳴るのを感じたが、疲労からそれもすぐに忘れた。たとえ沙智がいなくても、やり切ったという満足感が確かにあった。
 してみれば、千代にとってこれはちょっとしたオマケなのである。
 自分が選んだ道は間違いではなかったか――そんな事は下らない問いだったと極限までやり切った今はそう思う。正しいと出ても、間違いと出ても、所詮は今生きている現実のオマケに過ぎない。
 人生にやり直しなど出来るはずもないのだ。
 エレベーターが止まると道場へ足を向けるまでもなく橘一家が待っていた。既に解説会に来ていた客の姿は消えていたが、道場から撤収の作業音が届く中、薄暗い灯りのエレベーターホールに二人と殊更に小さな一つの影が立っていた。
「立てるか?」
 銀乃介に問われると千代は何だか妙に気恥ずかしくなり、小さく頷く。
 地に足を付けるとまだ感覚はおぼつかず、沙智に知られないように銀乃介の肩を借りる。どうにか体面だけは取り繕わなければと必死になっていた。
 当然帰っているものだと思っていたので、何を言うかは全く考えていない。
 まごついていると、先に声を発したのは沙智だった。
「弟子にしてください」
 ただの一言、ただその一言を聞いた途端に、千代は込み上げるものを堪えるのに必死になっていた。オマケであることは本当だったろう、どうあっても変えられないことも事実だ。それは子ども特有の、何気ない、気まぐれな一言であるのだ。容易く裏表が変わってしまうような、およそ成人した人間が言葉に込める信念めいたものなど何一つない、残酷な言葉だ。
 しかしそれでも、橘沙智という少女の一言は千代の全てを肯定してくれたように思えた。それが泡沫の幻であったとしても許せる夢だった。
「一日二枚、屋代先生と将棋を指して棋譜を採りなさい。それから、毎週一度、屋代先生が道場に来ない日にその棋譜を持ってうちに通いなさい。それを二年間続けられたら正式な弟子にしてあげる」
 そう答えるのが精一杯だった。これ以上言葉を続けたらきっと涙が溢れてしまうだろう。だから千代は鞄に突っ込んでいた扇子に自宅の住所を書きなぐって沙智に押し付けた。
「それもあげる、貴方が欲しがっていた物だから」
 そっと開いた沙智の表情が一瞬で笑顔に染まると、自分の将棋が誰かに、嘲笑ではない心からの笑顔を作れたことが、千代にとって何よりの幸せだった。





 結局足は元に戻らず、橘一家と別れた直後、エレベーターの中から自室のベッドに降ろされるまで、千代は銀乃介に背負われていた。情けないと思う余裕も無い、根性云々以前の問題として身体が持たないことを痛感する。
「お疲れだったな、今日そのまま寝ちまえよ」
「服、着替えさせてよ」
「いや……恥ずかしいじゃん」
「アンタ何言ってんの?」
 曲がりなりにも夫婦であろうに、目の前のすっとぼけた男はそんなことを言った。第一最初に押し倒したのはお前だろうと千代からすれば言いたくもなる。
「良いから、さっさと脱がせて。疲れてんだから」
 そう背を押してようやくずるずると動き出し、ぎこちない動作でスーツを脱がせていく。シャツのボタンを外した所でふと、銀乃介の手が止まった。晒に気付いたのだろう。
「お前これ、痛いだろ」
「痛いわよ」
 当たり前だと答えると、自然と頬は緩んでいた。
「女ってのは、苦労すんだな」
 解かれた晒にようやく深く息を吸うと、生き返るようだった。仰向けに寝転ぶと素肌に触れる空気の感触が気持ち良い。
「離婚するか?」
 ふと、銀乃介が言った。冗談のような内容だがどうやら大真面目らしい、千代には声で解る。どうせ面倒臭い事でも考えているのだろうということまで。
「別れたいの?」
「いや、全く……ただ、今日の将棋が指せるならお前もまだまだ上目指せると思ってな」
 なるほど、どうやら格付けを撤回するという趣旨の発言らしい。
 今度こそ千代は笑った。出来るだけ大笑いしてやりたかったが残念なことに体力が尽きており喉がからからと鳴るような力無い笑いだった。しかし笑った。
「無理無理、今日みたいな将棋を毎局指してたら死んじゃうもの。精々月に一回かな」
 ぼんやりと、霞んだ視界で天井を眺めながら言う。以前なら口に出すのも抵抗があっただろうが、今はさほど感じない。
「これからは順位戦に絞る。サラリーマンになってでも、あの子のこと見てあげたいし」
 内心で見下していた人種になろうという言葉も自然と口を出た。
「だからアンタとは別れない。タイトルの一つか二つは取って来ないと生活できないから、覚悟しなさい」
 ベッドに腰かけた男の手を引き寄せると、予期していなかったのだろう、崩れるように覆い被さられた。
「あと、今日勝ったご褒美」
 耳元で言ってやると、目に見えてドギマギしているのが面白い。普段は格好付けてスカしているくせにこういう所は案外ウブだ。
「アンタは上だけ見てなさい。心配かけたけど、もう大丈夫だから」
 首に手を回して頭を胸に抱きよせる。
 深く、深く、柔らかな場所へ沈みながら、ありがとうと千代は言った。