「検討中失礼します。私、観戦記者の明野と申します」
 気が付いた時には、カレーで生まれた一瞬の空白を縫って明野が入り込んでいた。
「先ほどの先手が焦らされるというお話、もう少し詳しくお教え頂けないでしょうか」
 言いながら明野は銀乃介にちらと視線を向けてきており、さりげなく場を取り持つように言ってきている。銀乃介としても、これ以上響が妙な誤解を持たれないようにするには簡単な面通しだけでもしておくべきだろうと思った。明野に挨拶しておけば情報は勝手に伝播する。
「響、こちら明野さん。お前も名前くらいは知ってるだろ、俺らが生まれる前から観戦記書いてる人。嫌われると怖いんだから、ちゃんと挨拶しとけよ」
「本当に勘弁してくれよ島津君、誤解されるだろ……でも、浅井王竜、浅井君とお話したことはまだ無かったから一度ご挨拶したかったんだ」
 柔らかな物腰で明野は言った。響の出方を伺っているのかも知れない。
「ああ、いえ……ご丁寧に、ありがとうございます」
 突然の来訪者であることに違いない。響の返答は多少固いだろうか、これなら憎まれ口を叩くことも無いだろうと安堵する面もあるがこのままでは会話も弾むまい。
「お前の事が良く解らねえんだとさ。明野さんに何か話しとかねえと、この先ずっと珍獣扱いだぞ」
 気が付けば適当に茶々を入れて会話を進めていた。

「――という訳で、多分間違え易いのは先手かなっていう程度なんですけど。後手は先手に対応する感じの将棋でしょうから」
 響が通り一辺倒の話をする合間にも明野は神妙な面持ちで頷きながら、ふむとか、おおとか、時に大袈裟にも思える相槌を打っていたが、それは記者として培った技術なのだろう。無反応な相手との会話程苦労することは無い、それならば多少大袈裟でも伝わり易いリアクションをしてやった方が相手の口も滑らかになるという寸法だ。
「なるほど、前日までは後手の方が攻めを焦る展開に見えていましたが、そういう見方もあるのですね」
 手元のメモ帳に忙しくペンを走らせながら、明野はちらと響のバッグに視線をやると、
「将棋とは関係が無いのですが、先ほどのタッパーは?」
将棋に関する取材は一段落という事だろう。気の置けない話題を察知する術にもまた長けているようだった。
「ああ、千代というか、立花千代女王から言われたので……あの、私はよく立花さんの家にお世話になっていまして、言い出しっぺはどうも囲碁の立花鑑連さんらしいんですけど、ここのカレーを貰って来いと」
 しどろもどろの説明に銀乃介は堪え切れなくなり、
「お世話になってるっつーか、殆ど住んでるだろお前も」
爆笑しながら口を挟んでいた。
「ってか、カレーの件言い出したのおっちゃんなの?」
「自分のタイトル戦の時に食い損ねたんだと、昨日から延々言い始めたらしい。面倒臭いから貰ってきてくれって頼まれた」
「段々ボケジジイみたいな行動になってんな」
「そうなったらお前も介護すんだぞ、マジで義理の親じゃん」
「勘弁しろよめんどくせえ、碁打てなくなったら老人ホーム送りだ」
「おばさんの事考えろよ、可哀そうじゃん」
「おばちゃんがいる間はそもそもボケねえよ、多分な」
 話し出すと明野そっちのけで普段の馬鹿話にシフトしてしまい、これでは何ともしまらない。ふと我に返った銀乃介が明野に視線を向けると、呆気に取られたような表情だ。
「いやあ……本当に普通の子だな、驚いた」
 先ほどまでの相槌とはやや趣が違う呟きだった。きっとそれは込められた実感が何よりの演出となっていたのだろう。
「どんな天才かと思っていたけど、将棋がすこぶる強い普通の高校生ってのは本当だったんだね」
 そうして微笑んだ明野を見て、ようやく銀乃介もほっとした思いだった。訳の解らないインベーダーなどではなく、普通の将棋が異常に強い高校生として認知して貰えれば妙な噂を立てられることも無いだろう。
「ところで、浅井君はどんな経緯で六角先生の弟子になったんだい?」
 思い立ったように話題を振った明野も、すっかり浅井響を一般的な取材対象として見ているようだった。その言葉には微塵も固さを感じない。
「前々から気になってはいたんだよ。多分あの方は一生弟子を取らないんだろうって言われていたのに、突然だったからね」
 響は少し考えるような間を置いてから、
「祖父が知り合いだったみたいですけど、詳しい事は」
「おじいさん、将棋を指すのかい?」
「まあ、そうですね。あんまり大っぴらには言えないですけど真剣だったらしいです」
「名前は?」
「浅井十兵衛」
「へえ、聞いたことないなあ。でも六角先生が引き受けるんだから相当な方だろう」
「もう死んじゃいましたけどね」
 響の方も慣れたようでざっくばらんな受け答えが出来ている。これなら気を回してやる必要も無いだろうと、銀乃介は緑茶の入った湯飲みを片手に二人のやり取りを眺めることにした。

 夕食休憩明けからの大盤解説会は響と銀乃介のダブル解説という事となった。本来なら銀乃介の出番は予定されていなかったが、大盤解説会のデビュー戦という新人への配慮ということらしい、控室にふらりと現れた松永の即断即決に銀乃介がごねる時間は与えられなかった。
「――んで、現局面はここから後手が4四歩を突いて先手が考慮中と」
 局面は控室で語られていた通り、後手が竜を作り先手は7三にと金を作って左辺を制圧した。響曰く先手が間違えやすい展開とのことだ。
「残り時間は先手が三十分、後手が一時間少しですから、先手にとっては決断の頃合かも知れませんね」
 後手の玉が露出しており攻め駒も迫っている為先手が良く見えるが、8八歩を絡めた端の折衷がここに来て効果を見せており先手玉も相当な危険を孕んでいる。例えば、現局面から7七歩と放り込んで同金寄に9六歩と垂らすのが一例で、6八銀と捻じ込んで同金に7九角と打てば一気に寄ってしまう。と、そんな解説をしていた所だった。
「それでもまあ、正しく指せば先手が良いんでしょうね」
「師匠が負けるのは残念か?」
 大盤を眺めながら漏らした響をからかうように言うと、本人が笑ってしまうような内容だったらしい。
「言われるまで師匠って事忘れてた、そんな感じだよ」
 苦笑しながらの響の発言に会場は今日一番の笑いが起きた、恐らく冗談で言っていると思っているのかも知れない。当の本人は大真面目な感想であろうが。
「一回も指した事無いし、それどころかまともに話した事無いから、どういう人かも解んないんだよな……と、先手指したな」
 ――先7九歩。7九角を消して後手の楽しみであった7七歩を大幅に緩和するのが直接の狙いだろうか。
「おー、辛い。元祖激辛流としてはどうよ、この手は」
「良い手なんじゃないの。実際7七歩の筋さえ緩和すれば先手玉の安全度は格段に上がるし、俺もこれ指すと思う。後手は顔面で来るしか無いけど、飛車引いた後の応手が難しくなる意味もあるから」
 語る響はこれでも解り易く解説しているつもりだから仕方ない。コイツの聞き手はさぞ苦労しただろうと、先日のネット中継で見事に役回りを果たしていた慈乃の意外な活躍に気付かされる思いだったが、さておき固まっている観客を放っておくことはできない。
「つまりだ、ここから後手が入玉含みで4三玉とした時に先手は3五飛と引くが、そこで銀取りと3四金の両狙いがある。後手がこれを両方受けるには4五銀打しかないが、予め7九歩と打っておく事でこれに力強く5六金と出て行ける、っていう意味ね」
 大盤の駒をペタンペタンと動かしてやると客席からおお、と感嘆の声が漏れる。
「そうそう、それそれ」
 客を置いてけぼりにしていたことに気が付いたのだろう、調子を合わせるように言った表情には多少の照れ隠しも見えている。
「もう少し客の事考えて話してやらんとダメだな、お前は」
「……解ってるよ、すみません」
 そうして客席から起こる温かい拍手に、頭を下げるだけで好感度が上がるのだから得な役回りだと、ひねた感想が浮かぶのも致し方あるまい。

『――しかして、六角は4三玉と前へ出る。大盤解説会でも触れられていたが、控室でも3五飛と引いて先手に得な変化だと見られている。しかしここで4三玉としておかなければいきなり3三飛成と飛車を切る手が有効だった。同金に2五桂、3四金に3五桂と追撃で金を玉から引き剥がせばと金との挟撃で先手の勝ち筋という結論が出ている。
 4三玉と3五飛の交換が止むを得ないものであるならば、先手の7九歩は当然ここまで読み切っての絶妙手であろう。
 その後は検討通りに手が進み先3五飛・後4五銀に絶妙の先手5六金。ここに来て先手の優勢で控室の見解は一致したが、一方で勝ち切るのは大変な将棋であるという声も多く聞かれていた。
 そうした空気の中で指されたのが後手にとっては待望となる7七歩であった。7九角の筋は消されているが同桂と跳ねさせれば先手玉に迫る速度は格段に上がる。以降先同桂に後3四歩・先4五飛・後同桂・先5五金と進んで後2八飛と打ち下ろした。
 これは7八飛成が厳しく、同歩にはこの将棋で幾度も出てきた後手7九角であるし同玉も6八金と打って8八玉に7九竜・9七玉・9九竜と追って9八の桂合に(桂以外の合駒は詰む)構わず同竜と切って後手が勝つとされる。よって先手は玉の早逃げ等で一度受けるのではないかと言われていたが、竹中は3六桂と打って控室がどよめいた。
 確かに4四金から4三銀と押さえて行く形で先手の金気が足りており詰めろになってはいるが非常に危険な選択である。
 ――後手の追い込みが激しく先手が焦らされている。
 検討用の継盤が進むにつれて、控室でもそうした声が聞こえ始めた。ここに来て本局は形勢不明に逆戻りしたのである。(続)』

 後手7八飛成から間を置かずに先手9七玉が指されると大盤会場は静かな盛り上がりを見せた。本局の内容もそうだが激戦となるにつれて銀乃介と響が読みに本腰を入れ始めたことが大きかった。時折客を無視したかのようなやり取りが出る事もまた観客からすれば現役トップの二名が真剣に読みを入れる姿を間近に見られるのだから貴重な光景という事だろうか。
「――つまり後手は桂成で竜通すとかして4四金と入られないようにするんだが、そこで何かしたら7八の竜を8八に入って逃げて9九と追って、ここで合駒を使わせられるから後手玉への詰めろが消えるという理屈だな。8八竜に同玉とするのは7九竜と捨ててほぼ詰みだから、詰めろ逃れのほぼ詰めろみたいな手だ」
 ツラツラと読み上げながら大盤の駒を動かすと観客の反応はまばらだ。速度が速すぎて着いてこられないのかも知れないが止むを得まい。残り時間も無くなり既に竹中は秒読みに入っている、とすればあまり悠長に過ぎた手を解説している訳にはいかない。
「桂成以外にも4四に利きを増やせば良い訳だから3五角なんかもあるかも知れませんが、相手玉に迫る事を考えれば盤上の駒を活用する桂成が自然ですかね。何かの拍子に引いた竜の横効きが先手の頭を押さえる形になるかも知れませんし」
 大分慣れたらしい響は客席に一切目を向けずに、しかし言葉は解り易くかみ砕いているようだった。視線はモニターに向けて延々と盤面を読みふけっている。
「お、指した。5七桂成と」
「やっぱ名人強いですね」
「俺は勝ったけど、ってか?」
「あー、そういや勝ったな。俺強いじゃん、みたいな」
 とは言えネタを挟むこともきちんと忘れない。こういう軽口が自然と出る辺り、互いに慣れた相手であることは有難かった。