一の三

 三日後、響は一人でその家を訪ねた。広い敷地を囲う古い塀、平屋の日本家屋。島津が紹介したいという人物が住んでいる家らしいのだが、島津本人は高校の卒業コンパで来られないという連絡が突然入り、響が一人で来る羽目になったのだった。話は通してあるとのことだがあまりに適当過ぎる。妙な先輩に目を付けられたものだというため息が出た。
 門前のチャイムを鳴らしてしばらく、戸を開けて現れたのは島津と同い年ほどの細い女。
「ギンから話は聞いているわ、おあがりなさい」
 既に臨戦態勢らしいということが響にも伝わる、必要以上の言葉を口にせず招き入れるその女はそれほどに張り詰めた空気を醸し出していた。普段から和服党らしく睦月の空の灰白色に鮮やかな梅を合わせた小紋の着こなしが素晴らしくなじんでおり、うす黒く染まった木板の渡り廊下を擦る足袋の白い音は凛とした自然な美しさを引き立てている。とはいえ、まだ幼少の身である響にそのような女の魅力は解るはずもなく、或いは仮に理解できたとしてもその意識は変わらないだろう、既に棋力に関わらないものに興味はない。
 通された和室には当然のように盤が設けられてあった。
「良いのね?」
 奥の席に着きながら、一応の確認というような態度で女は言う。
「よろしくおねがいします」
 響も多くは語らず、頭を下げて席に着いた。静謐な畳の上で並べる四十の駒は古庭の隅に溶けた添水に似て透明に響く。
「立花千代です……では、よろしくおねがいします」
 先手は響。

 島津と互角、或いはそれ以上かとも思えるような棋力。またしても相手にならなかった。
 島津のそれを相手に向かって直進し力尽くに殴り倒す豪腕とするならば、千代はさながら四方八方から手を尽くし泥沼の底に引きずり込む幻惑の搦め手。格上の人間と指した経験の少ない響にしてみれば、自分の土台を根から揺さぶられる初体験の将棋だった。千代が女流という枠組みをとうに超越していることは疑うべくも無い。
「お茶にしましょうか」
 ふと千代は言い立ち上がると、着いてくるようにと響の前を行った。未だ人柄は掴みかねるが、一つ確かなことは、千代は棋士だった。そして響にはそれだけで十分だった。
 先の対局室よりも幾分広い客間、蛍光灯は備えておらず開け放った襖向こうの硝子戸から入り込む仄暗い陽の光のみ。しかし庭の池はよく見えた。そこに棲む金魚の動きと波の揺れまでも。
 煎茶と茶請けの菓子を出しながら千代は言う。
「欧羅巴の美は、強い光を当てるんですって。たとえば、蛍光灯。……日本の場合は行燈の薄暗さだから、逆に強い光を遠ざけるの。源氏物語、知らないかしら、きっとそのうちに学校で教わると思うけれど……ほとんどの話に共通して、相手の、好きな人の顔は暗くてはっきりとは見えないの」
 しかし菓子に関しては洋菓子だった。響はあんこが苦手なので助かったと思った。小豆の味が苦手なのだ。
「ごめんなさい」
 開口一番響は謝った。
「どうして?」
「島津さんから聞いてるんでしょう、ぼくが女流の人に失礼をしたって。それで怒られるのに、今日は呼ばれたんでしょう?」
「そんなことあるわけないでしょう。おかしなこと言うのね」
 手元に口を当てながら上品に笑う。泥臭く粘り強い棋風とは真逆の品の良さ。棋風と人格はあまり関係がないのかも知れない。
「ギンに何吹き込まれたのかは知らないけれど、そんなこと気にしなくて良いわ」
「でも」
「私は正式棋士になるつもりだし、謝られても困るの。自分のことを女流だと思ったことなんて、今までに一度だってないもの」
「女流にはならないんですか?」
「その前に三段リーグ勝ち抜けないとだけど、ね。ギンより遅れるなんて死んでも御免」
「二位争いをしているって、島津さんから聞きました」
「ええ。ギンが頭一つ抜けて一位、私とあと二人が横並びの二位争い……もう三回目だしそろそろ通らないと。高校卒業して将棋浪人っていうのも辛いし」
「島津さんは何回目なんですか?」
「あいつは一回目、でいきなりトップ独走だもん、こっちがやんなるわ……って私が言ってたなんてこと、本人には言わないでね」
 盤前に座っていたときとは打って変わって年相応のかわいらしさが見え隠れする千代に、響は生まれて初めての感覚を味わっていた。むねがばくばくする。
「それにしても」
 と、千代は話題を切り出した。
「君、ほんっとに情報疎いのね。三段リーグの話なんて多かれ少なかれ耳に入るでしょ?」
「将棋の知り合い、いないから」
「ああ、ギンもそんなこと言ってたっけ……ってことは、ホントに一切独学でここまでやってきたの? 親御さんとか、少しは詳しいんでしょう?」
「親は、将棋のこと博打だと思ってるもん。奨励会のことはちゃんとしたところだって説明したから、怒られはしないけど、あんまり奨めてくれない」
 千代は呆れたような息を吐き、
「才能か」
そう漏らすばかりだった。
「じいちゃんが」
「え?」
「じいちゃんが、真剣師だった」
「ああ……それで将棋が博打。じゃあおじいさんに教わったの?」
 響は首を振る。
「棋譜の読み方は教えてくれたけど……あとは、一局指しただけ」
「一局だけって、どうして?」
「その一局で死んだから」
 響はそれを何か特別のこととして語っていないと千代には理解できたが、しかしだからこそ言葉を失った。
 けだしこの世に狂気などというものが存在するならば、それは冷静の内にしか存在し得ない。自らの内に潜む異質は、他者に映し出すことでしかその存在を確認できない。千代は、島津は、全ての棋士たちは、この後響が続ける言葉を知っている。
「だからぼくは、ああいう将棋をまた指したいんだ」
 千代の抱いた恐怖は、響にではなく、その言葉を否定できない自らの内に対するものだ。