六

           六の一

 梅雨を抜け海開きが近付くと、期末テストを乗り越えた学生の間では夏へ向けた遊びの予定が語られ始めるが、響には無縁なことで、どうやらこの夏は去年一昨年に比べて対局の数も増えそうだった。棋戦を勝ち進めていること自体は素直に喜ばしいのだが、こうもスケジュールが過密になると、夏の暑さと相まってメルトダウンを起こしそうなほど酷使している頭には平均的高校生の無邪気な思考を許す余裕など無く、出来るなら頭蓋をカチ割って取り出した脳味噌を氷水にぶち込んで冷やしてやりたいと、さぞかし豪快な湯気が上がることだろうと、冗談にもならないことを本気で考えている危うさにはっとする経験も度々だ。
 終業式を翌日に控えた放課後。棋戦の都合で遅れることになった期末テストをようやく片付け、冷房という文明の利器に感謝しながら机に突っ伏してダウンしていると、教室に残っているクラスメイトから呼び起こされた。
「あざいー、お客さん」
 慈乃だろうか、それにしてはやけに静かだなどと考えながら怠さの抜けない身体を起こすと、見たことのない、三人組の女子生徒だった。視線を向けるときゃあきゃあと甲高い歓声が返ってきて、見た目はかわいいのだが嫌な予感がした。
「どうも……浅井です」
「ウチら三年なんだけど。今日はこの子が、浅井八段に御祝い伝えたいって言ってて」
 グループの中心だろうか、一番垢抜けている――非処女臭の滲み出ている――女が言う。
 まだA級に入った覚えは無いのだが、彼女らにとっては段位などどうでも良いのだろう。低く見られる分には構わないのだが上に見られてしまうのはどうにも居心地が悪く、まだ六段なんですよ、いずれなりたいとは思っているんですが、と、厭味に聞こえない程度に訂正しておきたいのだが、そんな高等会話技術を響が持っているはずがない。
「あの……あの……」
「ほら、ミナ、頑張って」
 どうやらミナと言うらしいその先輩は、響よりも背丈が一回り小さく、気も太くないのだろう、震える声を出すのも精一杯なようで、顔を林檎のように赤く染めている。こういう時に銀乃介辺りなら巧いこと話を進めてあげられるのだろうがと、申し訳なさを感じるほどだった。
「ひょっとして、放送協会杯を見て下さったんでしょうか?」
 響にはこの程度が精々。それでも、最初のうちはこの程度すらできずにお互い黙り込むような状態になってしまうことが度々あったのだから、そこからすれば大した進歩だ。
 相手は犬がしっぽを振るような感覚で、真っ赤な顔を必死で縦に振り肯定の返事。
 放送協会杯は毎年行われる早指しトーナメントであり、事前に録画された対局の様子が地上波で全国放映されるという特殊な棋戦だ。とはいえ、視聴率など度外視でやっている老人の趣味層に向けた日曜日午前中の番組であり、本来ならば女子高生が見るような番組では到底無いのだが、腐ってもテレビの影響力は偉大なのか、はたまた同学のよしみから観戦してくれたのか、近頃はこの手の来客がちらほらといる。
「その、おじいちゃんが、一緒に住んでて……だから、その、私は、同じ学校だからとか、そういうのじゃなくて……今日はその、一言お祝いを」
 ミーハーと思われたくない、ということだろう。
「有難うございます……お祖父さん、将棋指されるんですか?」
「私も! ……私も、少しならできます。月刊将棋、お爺ちゃんが買ってるの読んでます」
「え……アレ読んでるんですか?」
 これには響も驚いた。月刊将棋とは棋界における週刊少年ジャンプのような存在ではあるが、一般人が読んで楽しめるものとは言い難い。ストーリー漫画でも載っていればまた違うのだろうが、観戦記と詰め将棋が主な読み物では一般読者は近寄らないだろう。
「浅井六段の記事があるときは、必ず読みます……その、今年は、神座位の挑決トーナメントから、ずっと見てて……あの7三銀合は、相手が強かったからだし、仕方ないと思います。あのときの記事は、記者が、見る目ないんですよ」
 月刊将棋では7三銀合を読み落としていたことよりすっぱり投了しなかったことをチクチク書かれていたなと、対小寺戦の記事を思い出しながら、口だけで礼を言う。
 しかしこれはこれで参ってしまった。全く知識の無い人間が騒いでいるよりも、下手に知識を持った人間を相手にする方が却って疲れてしまう。ハナからマイナーな世界であることは理解しているし、他人から評価されたくて指している訳でも無い。公言はできないが、普及活動など放り投げて自分の将棋だけを考えていたいというのが響の本音だ。
「私は、対局しているときの浅井六段……格好良いと、思います。
 ……それに、最近の連勝だって、すごいです。王竜と棋将のタイトル、二つとも順調に勝ち上がってその上順位戦も負け無しの絶好調、このままなら三年連続昇級、それどころか高校生タイトル棋士も夢じゃないって、お爺ちゃんも言ってました」
 聞いているだけで本当に頭が重くなってきた。
「しんどくなるのはこれからですから……ところで、詰め将棋はどうです? 自作なので出来は保障できませんが、幾つか用意してありますから、応援して頂いてるお礼と言ってはなんでしょうが、お土産に持って行って下さい。お爺さん用に上級者向けのも、どうぞ」
 七月は月半ばにして対局数は既に六を数えるという連戦具合、それも全てが全力勝負の場とあれば疲労もピークの真っ直中、挙げ句学生の本分である期末テストが重なれば、響は正に初夏の暑さの中で脳味噌をとろけさせるデスロードを行っているのである。せめて学校に居る時くらいはと甘えが出てしまうのも致し方なく、やんわり婉曲に伝えたはずの、そろそろお引き取り願えますか、という言葉も、相手には強く伝わり過ぎたらしい、ミナというその少女の瞳が潤み始めていることに気付いたときにはもう遅かった。
 フォローの言葉を続けるよりも早く、それこそ沈む船から逃げ出す鼠のような素早さで廊下を走り去ってしまい、残された二人もそれに続くと、ドアの前で立ち呆ける響だけが残される。
「さすがに引くわ」
 背後から、いつものようにからかい混じりの雰囲気でないことが余計に腹立たしい安岡の声。
「後で詫び行くよ……脳味噌煮立ってんだ、確かに有り難いけど、もう勘弁してくれ」
「お前が行っても余計困らせるだろ、その調子じゃまたロクな会話できないで面倒になりそうだし。詫び状でも書けば代理で届けてやんぞ」
「妙に親切だな、気持ちわりい」
「だって可愛かったし……夏だからなあ」
 下心そのもののような返答に溜息を一つ挟みながらもそれ以外に案はなく、じゃあ頼むわと即決。

 ノートの切れ端に前略オフクロ様云々と書き出したのは良いものの、詫び状などかつて書いた経験もなく何を書けばいいのかも解らない。これならば対局している方がよほど脳には優しいと愚痴をこぼしたくなるのを堪え、脇から口を出してくる安岡を適度にあしらいながら、どうにか文章をでっち上げ、自作詰め将棋をごく簡単な物からヘビー級の物まで織り交ぜて五作ほどセット、ついでに近場で行われる将棋イベントの告知ビラを合わせておけば、とりあえずの体裁は整っただろう。要は誠意さえ伝われば良いのである。
 安岡に完成させた物を手渡し、ようやく一息つけると机に伏せかけたそのとき、教室のドアが勢いよく開け放たれ、響ちゃんいる? と慣れた声が聞こえた。
「あんだよ。つーか二年の教室に当たり前のように入って来るなよ、お前は」
 ぼやいた響に、
「あざいは男の癖にちっさいんだよ」
すかさず別方向から反撃が飛んでくる。ギャーギャーとやかましく垂れ始めた女子連中はひとまず放置しておくことにする。
「棋天戦、控え室が六角先生の勝勢で検討止めたって、銀ちゃんから」
 棋天位戦最終局、現棋天位加藤虎之助八段対六角源太九段の一局は本日新潟で行われている。銀乃介は検討組で、千代も大盤要員としてそれぞれ現地へ行っており、勝った方がタイトルを獲得する解り易い勝負だけに現地は結構な盛り上がりだと、昨晩メールがきていた。
「へえ、そう」
「それだけなの?」
「興味ねーもん。短い無冠時代だったなあってくらいか……でも、やけに早いな」
「加藤先生が横歩から8五飛で急戦挑んで、中盤なんて殆ど無かったみたい」
 三十代の加藤八段としては、研究勝負になりがちな形に持ち込めば若さで勝る自身に分があると考えたのかも知れないが、六角源太という棋士はそのような策が通じる相手ではなかったということだろう。
「実際、化けもんだな」
 大抵の棋士が年をとるにつれて勝てなくなっていく原因の一つには、老いによって研究に必要な体力が失われてしまう点があるが、六角は現役最高齢でありながらも最新の戦型に遅れることなく対応し、逆に見事な形で取り込んでみせることすらある。肉体の老いが生物として避けられないものである以上、老いて力を落とすような並の棋士と六角の間に存在する差は、精神力、より細かく言うなら将棋に対する執念の有無だろう。一回り以上若いタイトルホルダーを相手に、挑まれた急戦勝負で逆に完勝してみせるなどという芸当は、六角以外に出来るわけがない。
「何、どういう話よ」
 安岡に説明を求められるも一から語っていては陽が暮れる。
「七十過ぎたジイさんが王者相手にガチンコの殴り合いして勝った、っていう話」
「よくわかんねえけど、将棋って結構無茶苦茶なんだな」
 投げやりな説明だったが安岡は納得したらしい。と、そんなやりとりをしているうちに慈乃の視線が安岡の手に向いていた。
「ねえそれ、今度厚生会館でやるイベントのチラシだよね? 響ちゃんも指導で行くやつでしょ、安岡さん来るの?」
「いんや、俺はただの伝言役。響からとある子に渡してくれって頼まれたの。な、響」
「響ちゃんの友達来るの? 誰?」
「ヤス。もう説明しなくて良いから、さっさと渡してきてくれ」
「良いじゃん、隠すなよ響。ってなわけで慈乃ちゃん、実はね――」
 精神からくる鈍い頭痛にこめかみを押さえる。脳味噌が少し変色している気さえする。