六の二
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 教室を出るときに軽く落ち込んだそぶりを残しておいたから、響は今頃クラス中の女子から説教を食らっていることだろう。少しくらい良い薬だ、と慈乃は思う。
「慈乃ちゃん、怒ってる?」
「べつに。響ちゃんこういうことしょっちゅうだし、もう慣れてる」
 大体人が良すぎるのだ。将棋のことしか考えていないようなことを言う癖に、連盟から頼まれた仕事は自分の休みも考えないで引き受けてしまうし、大して強くない癖に先輩というだけで幅を利かせている棋士の悪口も聞くだけで嫌な顔をする。今回の事も、本当に将棋が好きなら今の響の忙しさを解っているはずなのに、無遠慮に押しかけてきた相手が悪いんであって、わざわざ響が詫びる必要など無いはずなのに、こんな勘違いさせるような真似までしてしまう。将棋への甘えには容赦が無いけれど、棋士の癖に、響は少し人格が出来すぎているのだ――というような惚気混じりの愚痴を延々と安岡相手に語りながら、慈乃は三年の教室へ向かう廊下を歩いているところだった。
「でもそういうところも好き、と」
「うん」
「全く……怖いね。もしも響が慈乃ちゃんじゃない女の子と付き合ったらどうするの?」
「そんなのありえないよ」
「だと良いけど。アイツ慈乃ちゃんのこと女として見てないっぽいからさ、心配でね」
 安岡の言うことは事実だと、慈乃にも解っている。響は慈乃を妹のようなナニカとしてしか見ていないだろうし、それが男女の関係になるというのも、当分は有り得ないだろう。
 それでも、響が自分以外の女と付き合うことは有り得ないと、慈乃は自信を持って断言できる。
「ないよ、絶対にない」
「随分自信あるじゃん」
「だって、響ちゃんだから、将棋が弱い人を好きになるなんてありえないから」
「もしも、ものすごく強い、それこそ男にも勝って名人になるような人が出てきたら?」
「相手が誰でも、響ちゃんが絡んだ対局じゃ加減してあげられないもん。だから響ちゃんが私より大切な人を作るなんてことは絶対にありえないの」
 唯一自らの生み出す一手のみが盤上における神の器たり得ると、無意識のうちに発せられたあまりに傲慢なその言葉からは、欠片ほどの疑いも虚勢も見えず、そのように物事を語る、少女が振り回す自然という名の危うさに安岡は言葉を失ったが、慈乃はそのことにすらも気付かない、杜に生きる白蛇の如き天衣無縫の神聖。

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