六の五

 ほろ酔い気分で夜風に吹かれながら心地良く渡りを歩いていた響は、蒼白い月明の中で池のほとりに佇む千代の姿に目をとめると、框のサンダルをつっかけて庭に降りた。
「何してんだよ、こんな夜中に。市松だって寝てんだろ」
 立花家の池には市松という名の錦鯉が飼われている。ひどく間抜けな面構えで、お世辞にも優雅とは言い難い鯉だが、どことなく愛嬌があって憎めない。
「なんだ、響か」
「なんだ、って何だよ」
「響で良かったな、って」
 このとき、夜の暗がりの中でも表情が読み取れる距離まで近付いて初めて、響は千代が泣いていたらしいことに気が付いた。食卓では堪えていたのだろう。千代という女はその手の演技が悲しいほどに巧い。
「新潟で、大盤の聞き手役したんだけどね。新四段どころか女流みたいな扱いの厭味言われちゃって。ほんとにさらし者って感じ、もう笑うしかなかったわよ」
 家着の浴衣をふくらはぎほどに捲り、足下は裸足という格好。池を囲むように置かれた大きな岩に腰を下ろし、徒然に任せるようにして爪先で水を揺らしている。
「『女の正棋士なんて凄いことだ』から始まって、『碁打ちの立花はとんでもない遺伝子を伝えた、これで男に生まれていたらタイトルも夢じゃなかったのに勿体ない』……だって」
 随分下らないことを言う棋士がいたものだと呆れはするが、付き合うつもりもない。
「愚痴なら銀に言えよ、俺は聞く気ないぞ」
「アイツは平気で優しくするから、ダメ。敵討ちしてやるくらい言っちゃうんだもん」
「意味わかんねえ」
「格下として見切ってない限り、そんな慰めできないでしょ」
 目の前の棋士が抱え込んでいる、全ての哀しみが集約された一言を、しかし響は、息を一つ吐くだけで聞き流した。
「私ね、碁をやめる口実が欲しくて将棋を始めたの」
 千代もまた響の態度が見えていないかのように話を続ける。同意して欲しい訳ではなく、ただ語りたいだけなのだ。
「碁は、十歳になるくらいまでかな……将来プロになれるかもって、その頃から言われるくらいには打てたんだけどね。父さんの名前が怖くて、一緒の世界に入りたくなかった」
「ありがちだな」
 敢えて攻撃的に伝えた言葉にも、そうね、とあからさまに自嘲する。
「でも、才能が無い訳じゃないのにやめるっていうんじゃおかしいでしょう。だから色々探してたんだけど……小学校のクラブで囲碁将棋部ってなかった? 私の所にはあってね、そこで初めて将棋を指したの。そうしたら、凄く面白くて、気付いたら奨励会に入ってた」
「で、女流制度が嫌だったから正棋士目指したってわけだ」
 小さく頷きながら、結局意味は無かったけれど、とこれもまた自嘲。
「三段さえ抜ければ、父さんも、女ってことも、全部関係無い世界だと思ってたのにな」
 虚ろな目で水面の月を眺めながら、何もかも諦めきったような、投げやりな口調だった。
 くだらねえ、と響は感じたままに呟く。千代に聞こえたかどうかなどということは考慮すらしない。下らないと感じたから下らないと声に出た、それだけだった。
「……今日、慈乃と三段リーグの話してて、屋代さんのこと思い出してさ。覚えてるか?」
「そりゃ覚えてるわよ。一発抜けの天才どもと違って、私は七期もあそこにいたんだから」
 三段リーグを七期という千代の経歴は、決して妙なものではない。むしろ一期で抜けた銀乃介や響の方が異色な経歴なのであり、千代という棋士の不幸はそこにもあった。周囲にとてつもない才能が集まりすぎているのだ。
「私が奨励会に入った頃からずっといて、本当に面倒見の良い人だった……リーグに長くいたらどこかスレてて当たり前なのに、あの人だけはずっと礼儀正しくて、優しかった」
 屋代秀正は、響が三段リーグに参加していた三年前当時に二十七歳であり、通算で九年十九期という長期に渡ってリーグに在籍している人物として、全ての奨励会員にとっての長兄的存在だった。響は奨励会をほとんど最短距離で駆け抜けており、記憶に残せるほどの人間関係は築かなかったが、それでも屋代のことだけは覚えている。
「あの人を奨励会から追い出したの、俺なんだ」
 屋代は、勝負を左右する終盤での閃き・瞬発力に関しては、三段リーグの中でも劣った存在だったが、不足を補うように序盤の研究に力を入れた、努力肌の棋風だった。劣勢に立たされても決して諦めずに粘り続ける屋代の将棋は、玉を詰ませるのに最も疲れる対局相手として、プロ棋士の間ですら名前が挙げられるほどであり、彼が奨励会を退会すると決まった時には千駄ヶ谷の空気が重くなったと語られたほどだ。
「勝ち抜けが決まった状態で、延長戦資格崖っぷちだったあの人と当たって、潰した」
 二十六歳までにプロになれなかった人間は基本的に奨励会を退会しなければならないが、年齢制限を超えても、リーグ戦で勝ち越した場合には一期ずつの延長が認められる。響がリーグに参加した当時、屋代は既に年齢制限を超えており、一期また一期と勝ち越すことでどうにか首の皮を繋いでいる状態だったが、十七戦目、既に勝ち抜けを決めていた響と八勝八敗で後のない屋代の対局が組まれ、結果は響の勝利、屋代の奨励会退会はその瞬間に決定した。
 以降、屋代がどこで何をしているのかは全く伝わってこない。
「あの人だけじゃない、三段にあがれずにやめていった人間も星の数ほどいて、俺はそういう連中踏み潰して今の所に立ってるんだよなって……慈乃の態度があんまりムカついたからかな、気付いたらそんなこと考えてた」
 彼らの分も頑張る義務があるなどという青臭く陳腐な台詞を吐くつもりなど響には毛頭無い。しかし、勝ち残った人間が、それまで散々食い潰してきた人間が、今度は食われる側に回ったからといって途端に態度を変えるようなことだけは許せなかった。それは欺瞞である、全ての勝負への冒涜である、我慢のならない腐臭を放つ醜悪な精神である。他者を殺す者は常に自らの死を意識しなければならない、今日自らが彼に為した事は全て明日の我が身に為される事であるのだと自覚されなければならない。そうでなければどうして他者から奪えよう。それは勝負師が最低限保たねばならない矜持である。
「俺もお前も、そうやって散々他人を踏み潰してここまで来てんだよ。三段リーグだろうが、順位戦だろうが、結局は勝つしか無いんだ。借りがあるのなら盤上で返せ、泣くしかできないなら引退しろ。今更、どのツラ下げて泣き言なんて垂れられる」
 それは自身に言い聞かせる言葉でもあったろう。