二

            二の一

 慈乃と出会った日から月日は飛んで五年後、響は高校一年生となっていた。

 六限、暖房の効いた教室の片隅。携帯電話を操作して本日行われているC級一組順位戦の状況を追っていた響は、不意に鳴ったチャイムの音で意識を呼び戻された。慌てて立ち上がり終業の礼に加わろうとすると、教壇の上の教師は困ったような表情で響を見ている。
 数学の石井先生。品の良いダンディな白髪の教員で生徒からの人気も高い。
 しまった、と響はこの時になってようやく自らの失態に気付いた。カモフラージュ用に広げていた教科書はReadingのものだ。
 何より申し訳なさが先に立つ。石井は将棋に対して特別な知識や関心を持っていた訳では無かったが、にも関わらず、棋戦に振り回されがちな響の学生生活を何かと気にかけてくれ、棋士というものを理解するためだと、最近になってわざわざ詰め将棋まで始めてくれた副担任の先生だった。
 心の中で土下座するようにしてお決まりの礼を終えると、数少ない学友達が周りに集まってくる。揃ってにやけ笑いを浮かべて。
「内職するにしてももう少し器用にやれよ、あれはさすがに失礼だって」
 日に焼けた健康的な肌の色をした森田。
「どうせ将棋だろ、順位戦だかなんだか。銀兄さんの試合も先週あったんじゃなかったか」
 その脇から顔を出した安岡は雀荘の息子。
「そいや兄さんそんなこと言ってたっけ。勝っとかないと給料減るかもとかなんとか」
 と、これは三人の中で最ものんびりしている井川。
 彼らは麻雀部を自称しているメンバーであり、放課後は安岡の店でひたすら勝負するのが習慣になっている。響はさして麻雀に興味がある訳でもないのだが、拉致同然の形で連れ去られることが度々あり、そうこうしているうちに、棋士になってなかったら雀ゴロやってたわ、などと自称する程度に打てる銀乃介も、この面子との付き合いが深まっていた。
「給料減るっていうか、降級な。アイツの場合そこまで切羽詰まっても無いだろうけど」
 井川の発言をさり気なく修正する。全ては適当なことばかり語りたがる銀乃介に責任があるのだが、どうもこの三人は将棋の実態を誤解している節があった。プロ棋士を雀ゴロの親戚みたいなものだと考えているような、そういう誤解が、小さいながらも響の悩みの種になっていた。
「で、どうだったんよ」
「競ってたけど、相手が強かったよ。A級常連みたいな人だから」
 言いながら、響は鞄から棋譜を取り出してみせたが、麻雀部の人間は誰一人として将棋を知らない。銀と金の違いすら解っていない。銀と金などと言おうものなら即座に福本を語り出す連中である。
 将棋以外に興味を持たない響が何故そんな彼らと交流を深めることになったのか、それは高校の入学式の日のことだ。――
 雀荘に生まれた安岡は麻雀に対して信仰的なまでの思想を抱いており、式典が終わった直後、クラス内で噂の中学生プロ棋士と持て囃されていた響に『将棋なんてものは知識の量が増えればそれだけで勝てるんだから、そんなもので偉ぶっても真の強者とは言えない』と吹っ掛けてきたのだった。響も響で『麻雀なんて偶然性に頼り切ったゴミ同然のゲームじゃないか。楽しめて精々幼稚園までだろ……まあ、似合ってるけど』などと言い返したものだから、収集が着くはずもない。あわや血みどろの地獄絵図、とはならず、お互いに言い出したら聞かぬ者同士、それならば両者共に相手の土俵で戦ってみればいいじゃないか、とやはりこれも麻雀好きの森田に話を進められ、野次馬根性でついてきた井川も加えて四人で雀荘へ。早速の一番には麻雀勝負、となるはずだったが、ルールもロクに知らないような相手とは戦えないと、これもまた雀士のつとめであると、妙なところで熱血ぶりを発揮しだした安岡にみっちりルールを教え込まれる羽目になり、そうこうしているうちに勝負はなあなあ、陽もとっぷりとくれてしまった。ところで響は、この日千代や銀乃介たちから『高校の入学祝いをするから夜の予定は空けておくように』と言われていたことをすっかり忘れていた。ということがあり、帰りの遅い響を探して、騒動の顛末を聞きつけて訪れた銀乃介がここに加わった訳だ。――
「へー、A級ってそんなにすごいのか?」
「名人になれるかもしれない挑戦権を取れるかもしれないクラス」
「ふーん。兄さんでも駄目なことってあるんだな」
「そりゃ毎回勝てたら苦労も無いさ。アイツの場合、これまでが出来すぎだったんだよ」
 高校卒業と同時にプロ入りした銀乃介は早くもB級一組まで昇級しており、トーナメントでは格上を何度も食うなど、既に将来のタイトルを確実視されるまでになっていた。が、今期はさすがに足踏みを余儀なくされ、目下残留を目標にしなければならない状況だった。
「その順位戦ってやつ、千代さんはどうだったんだよ。あの人もプロなんだろ?」
 と、突然話題を変えた安岡は鼻の下がいやらしく伸びている。
「今日やってるよ、今んとこやや有利って感じかな」
 千代は前期降級点をつけられてしまっており、今期も負け越しが確定してしまっている。確実に残留するためには、今日を含めて残る二局のどちらも落とせないだろう。
「良いよなあ、千代さん」
「つーか、さっきから露骨過ぎんぞ」
「だってなあ、麻雀の女流なんて安物のAV出てそうなのばっかりなんだもん……その点だけは将棋に敵わねえって認めてやんよ」
 まさか本気では無いだろうというような安岡の戯言に、しかし他の二人は力強く頷いている。銀乃介を回収する為に何度か千代を雀荘へ案内したのは他ならぬ響だったが、彼らに一目認められたそのときから、千代は麻雀部のマリア様と化していた。
「アホか、将棋だってあんなの滅多にいねーよ。そもそもあの人は女流じゃない、正棋士」
 確かに美人ではあるけど、とは響も内心思ってはいるが、この三人にはついて行けない。
「まあともかく、うらやましいよなあ、銀兄さん」
「あんな人もベッドの上では……ああ、もう、たまらん」
「バカ、あの人は畳に布団だろ。むしろ和服の帯を、こう、しゅるしゅる回して……ああ!」
 森田、井川、安岡、の順で思春期を丸出しにしている。
 相手にしていられないと響が呆れていると、その態度が気に食わなかったのか、安岡がいやらしい視線を向けてきた。
「お前は良いよな、かわいい彼女いるし。しかも千代さんの妹だし」
「慈乃ちゃんも将来はああいう感じになるのか、羨ましい。青田買いってやつだわな」
「あー、ほんと。小五に手出したんだろ? 光源氏じゃん、ロリコンじゃん」
 そして始まるロリコンの大合唱。
「あいつが小五の時はこっちだって小六だ」
「付き合ってることは否定しねーのかよ」
「いい加減面倒くせえんだよ。マジでうぜえ」
 本気の舌打ちを残して黙り込んだ響を見て、流石にやり過ぎたかと三人は宥めにかかる。これも日常のやりとりだ。
 いつまでも機嫌を直さない響に三人が苦戦していたその時、廊下から来客用のスリッパがパタパタと騒がしく鳴り響いた。間違いない、奴だ。姿を確認するまでもなく響は頭を抱える。
 教室の後ろのドアが開くと同時に、
「響ちゃん! 授業終わってるよね!」
 息を切らした慈乃が現れた。
「今日は随分急いでるね、将棋で何かあるの?」
「アメあげるー、ぶどうとりんごどっちが良い?」
「丁度良かった、慈乃ちゃんにあげようと思ってたピン持ってきてたの」
「あざいー、迎え来たよ」
 クラスの女子はペットに接するかのごとく慈乃を優しく迎えている。
 中学生であるはずの慈乃が何故高校に入り込めるのか、そして何故この教室の人間は誰一人として慈乃を責めようとしないのか。答えは単純明快で、全員慣れているからだ。
「ホームルーム終わるまで待ってろよ、大した時間じゃないんだから」
 響はむくれたまま応えた。少々からかいが過ぎたと、麻雀部の面々は誰に向けるでもなく申し訳なさそうな表情になる。
「だって、今日は――」
「――うるせえよ、だったらお前一人で行け。大体クラスまで入ってくんなって言ってんだろ、周りの迷惑も少しは考えろ」
 響の対応に見かねたらしい、慈乃をかわいがっている一団から、クラスの女子のまとめ役的な市川の声だった。
「アンタいい加減にしなよ、みっともない。センセには私らから言っとくから、さっさと行きな」
 そして追従する女子の声。
「そうだよ、慈乃ちゃんかわいそうだよ」
「大体いっつも将棋で抜けてんだから、今更じゃん」
「こんな寒い日にわざわざ迎えに来たコにそーゆー態度とか、マジなくね?」
「童貞はこれだから嫌だよねー、少しくらい空気読めし」
「そうだよ、ロリコンの癖に生意気だよ」
 ここは小学校かと言いたくなるのをぐっと堪えて、響は無言で帰り支度をととのえる。
 荷物をまとめた鞄を担ぎ、なおも申し訳なさそうに手を合わせる麻雀部の三馬鹿をもう一度ぎろりと睨んでから、慈乃の脇をすり抜けるように教室を出た。
「響ちゃん、ごめんね」
 わざと急ぎ足で行く響の後を追いながらそう言った慈乃は、歩幅の違いもあって小走りの状態だった。
「ねえ、そんなに怒らないでよ。ねえってば」
 響は無言を貫いていたが、下駄箱で靴を履き替える段になってようやく、怒ってねえよ、とだけ呟いた。外から吹き込む風のせいだ。肌に痛い二月の空気は、小さな怒りなど麻痺させてしまう。
「寒いよね、今日。雪まで降りそう」
 いつの間にか首にしっかりとマフラーを巻いていた慈乃が言った。その手にはもう一本のマフラーが握られている。
「よこせ、自分で巻くから」
 解りきった展開に陥ってしまわないように機先を制する。