七の二

 王竜位挑戦者決定戦は三番勝負で行われ、初戦は盆の中日から、一週間隔で行われる。響にとっては初めての番勝負となるが特別な緊張を感じることもなく、忙しくなりそうな盆を前に夏休みの課題をさっさと済ませて墓参りしてしまおうと、実家へ帰郷する鈍行に揺られていているところだ。
 都内から電車に揺られて二時間弱、森と山以外には何も無いような田舎町。中学時代にはさしたる友人関係もなく、将棋に集中できる環境を求めて現在のアパートに引っ越してからは完全に縁が切れている。帰ったところで特別な楽しみがある訳ではないが、偶には両親に顔を見せてやらないと可哀想であるし、それにあの蔵で詰め将棋でも解いてみれば気分転換になるだろうと、そんなのんびりとした気分での短い旅路――となるはずだった。
「響ちゃんの家ってどんなところ?」
 一人身であったならそうなっていたのだ。
「お前んちみたいに綺麗じゃないからな……文句言うなよ」
「言う訳ないじゃん、響ちゃんの家だもん」
 響の帰郷に鑑連以下立花家全員が揃って家を空ける状況が重なると、慈乃は当然の如くついてくると言い出した。それを見ていた千代は一人にしておくよりも安心だと同意し、立花の母に至っては響の返答も聞かずに荷造りを開始、ただ一人鑑連だけが拒否していたがそれも母に押さえ込まれると純粋な多数決が尊重されることとなり、今の状況は三対二で可決された結果である。
「その年になっても一人で留守番任せて貰えないとか……これまでどうしてたんだよ」
「今まではお母さんがいたもん」
「いや、おじさんの付き添いとかこれまでもあっただろ?」
「お父さんの付き添いするようになったのは響ちゃんが高校上がってからだよ。響ちゃんがこっちで一人暮らし始めたから安心して出かけられるって」
 一人暮らしを始めてから二年目に聞かされた、衝撃の事実だった。立花家にとって、響は完全に慈乃当番として扱われているらしい。
 電車はようやく中間地点を通過しようという所だが、早くもぐったりである。


 懐かしい改札を抜け、迎えに来てくれた母との挨拶も短く済ませて車に乗り込む。
 慈乃は、人見知りしているのだろう、借りてきた猫のように大人しくなっており、騒がれるよりはマシだがこれもこれで気持ち悪い。
 道中は、ちゃんと食べているかとか、この前の放送協会杯を録画しただとか、将棋のことは知らないけどお金を稼いでいるからって天狗になっちゃいけないよとか、将棋に詳しい人がアンタの将棋を嫌っているみたいで心配だとか、そんなありがちなやりとりだった。
「俺の将棋嫌ってるって、誰がさ」
「よく知らないけど、将棋の専門誌とか。記者さんに失礼な態度取ってるんじゃないの?」
「偶々見たのがそういう人の記事だったんだろ。記者さんにも好き嫌いはあるよ」
 全く興味の無い世界の専門誌までチェックして、気に掛けてくれている親のありがたみに、親不孝を自覚して申し訳なくなる。
「響ちゃんは……棋風はともかく、普段は礼儀正しいって、言われてます」
 それまで黙っていた慈乃がぼそりと言う。親の前でちゃん付けされるのは精神的に辛いが、今更言っても慈乃が余計に混乱するだけなのは目に見えており諦めるより仕方ない。慈乃は幼いところのある人間だが気にしないでやって欲しいと、前もって伝えてあるから大丈夫だろう。
「立花さんがそう言ってくれると安心できるわ……この子がナントカ会に通ってる頃からずっとお世話になってるんでしょう? 申し訳ないわねえ、今まで御挨拶にも伺えなくて。本当に、将棋のことなんて何も解らない家族だから、この子がどうしているか心配で」
「しの……慈乃でいい」
「そう、じゃあ慈乃ちゃん、有難う。今日はゆっくりしていって、ご馳走作るからね」
 母の対応力の高さに密かに感謝する響だった。

 車で山道を三〇分ほど、腰を落ち着けてしまってからでは出るのが面倒になるからと、先に墓参りへ向かう。墓所は、足下から蛇がにょろりと顔を出すのも日常といった、木々に囲まれた辺鄙な場所に位置しており、ここの獣道を行くのは温室育ちな慈乃には辛いだろうから、車で待つ母と話でもしていれば良いと、響は伝えたのだが、それを受け入れるようなタチでもない。ギャアギャア、やれ虫が肌に触れただの足下を蛇が通っただのと逐一騒がしくされながら、祖父の墓へと辿り着くのに普段の倍は時間が掛かってしまった。
 平凡な墓である。何の変哲もない、葉隠れに佇む苔生した墓である。
「浅井十兵衛がここにいる、か」
 もしも六角がこの墓を見たら、自らの執着している人間が行き着いた場所の虚しさに気を萎えさせてしまうかも知れない。小寺から聞かされた名人殺しも、この墓を見てしまえば虚しい戯言としか感じられない。
「十兵衛さんって言うの?」
「俺が初めて将棋指した人だよ」
「響ちゃんのおじいちゃんなら、やっぱり強かった?」
「それが、覚えてないんだよな。一局しか指してないし、その棋譜も忘れちまった」
 これほど綺麗に忘れてしまうことなどあるのだろうかと、自分でも不思議に思うほどに覚えていない。居飛車だったか振り飛車だったか、初手は角道を開けたのだったか、囲いは何だったのか、何一つとして覚えていない。
「ただ、振り駒はしたんだ。やれって言われたから」
「先手貰わなかったんだ」
「ああ……今までに指したどの将棋よりも真剣だった気がする」
 人は美を記憶に留めることが出来ないのだろうか、それとも人が記憶を失った時に存在が美へと変わるのだろうか。考えながら線香に火を点けた。