七の三

 食事の仕度が調う前に祖母への挨拶も済ませておこうと、慈乃を連れて部屋を尋ねると、年に衰えた雰囲気も見えず、気ままに裁縫をしていた。おやまあお帰りとにこやかな笑顔は相変わらず、お嬢様育ちなのだと聞いているが、考えてみれば、響は祖父同様に祖母の過去も殆ど知らない。後で祖父のことを教えてくれと頼むと、それだけで察したのか、私の知っている範囲であればと、その表情がほんの少し曇ったように見えたのは、見間違いというわけではなかっただろう。
「そちらが、響がお世話になっているお家のお嬢さんかしら」
 向けられた慈乃はびくりと身体を震わせた。
「ああ、違うの。無理して話さなくていいのよ……私もねえ、慈乃ちゃんって言ったかしら、あなたみたいな子だったから、気持ちは解るわ。知らない人と話すの、難しいのよね」
 高校生に対する接し方とも見えないが、言われた慈乃はありがとうと消え入りそうな声で呟き、どうやら多少は緊張が解けたらしい。
「慈乃ちゃんは、将棋できるのかしら」
「うん……できる」
「それは良かったわ。私は出来なかったから、悲しいことも多くて」
 祖母はそう言うと、色々と混じり合った笑顔だった。

 役場の仕事から帰ってきた父は、いたのか、とそれだけだったが、本当は父さんが一番アンタのこと気にしているんだよと母から小声で教えられる。放送協会杯も父が放送予定を調べたらしいとか、当日は詳しくも無い癖に画面を睨んでいたとか、将棋も勉強しているようだから後で相手をしてやってくれとか――そんな話をされると、裸玉でやればそれなりになるだろうか、しかしそれでは流石に可哀想かと、ここもまた悩みどころだ。
 食卓に並べられた懐かしい料理を味わう一方で、テレビ画面ではブルーレイ録画された先日の放送協会杯が再生されており、画面に映る自分の姿という、いかにも非日常な体験に多少の気味悪さを感じてしまう。何も食っている時に流さなくても良いだろうと思いながらも、この家においては父に逆らえない響である。
「ここで馬を引いたのは、6七の銀にヒモを付ける意味もあって――」
 当初は緊張しきりでまともに話せなかった慈乃も、盤面を解説することで自然と話せるようになっていた。
「なるほど……折角攻めていたのにどうして引くのか解らなかったが、そういう意図か」
 慈乃の解説は的確で、初心者ばかりの家族でも、盤面の意味が読み取れるようになったらしい。母などは、将棋って案外面白いのねえ、と今更なことに感心している。
「解説が古い人だから、面白くない手みたいな言い方してるけど、すごくいい手だよ」
 響は放送された映像を初めて見たが、自分の将棋が好き放題に扱われているのは気分の良いものでなかった。解説は校長とあだ名されている同じくB級二組の肝付七段。純粋に棋力のみで比較すれば響には負ける要素の無い相手だろうが、一般紙などでも将棋コラムを持つ露出度の高い棋士であり、そして同時に、格調という言葉をやたらと愛している彼は響の将棋を毛虫の如く嫌っていた。
「それにこれ、肝付先生が言ってる筋じゃ詰まないよ。歩が一枚足らないもん……もっとまともな解説呼べば良いのに」
「そういう言い方はやめろ。プロなんだし、ましてや全国放送なら魅せる手指せって意見はあって当然」
 響は決して表立って言い返さない。影で愚痴を言ってスッキリしてしまったら、対局で当たったときに鬱憤を晴らせなくなるからだ。腹の中に溜め込んでおいた方が実際に面と向かった時に気合いが入る。陰湿な考え方だと理解はしているが、勝負に集中できるならその方が良い。
 表情を変えないまま、口に含んだヒレカツを喰い千切る。


 食後、二枚落ちで父と盤――初心者の癖にわざわざ高い物を買ったらしい、良い駒音が鳴る――を挟みながら、祖父の話を切り出す。
「俺もジイさんの事は知らん……と、慈乃ちゃんこれはどうしたら良い」
 二枚落ちではハンデが足りなすぎるだろうと、慈乃の助言も許可してあった。
「知らないってことは無いだろ、息子なんだから。たとえば仕事とかは?」
「本当に知らんのだ、外で働いてるようにも見えなかったが。ほとんど毎日蔵に籠もっていたな……と、これで良いかい?」
「どうやって食ってたんだよ」
「さあな……バアさんの実家絡みかな、本当に解らんよ」
 要領を得ない返答にどうやら本当に何も知らないらしいと悟り、これはさっさと終わらせて祖母に話を聞いた方がよさそうだと、響は少々本気を出すことにした。

 大人げなく勝利した後、父の指導は慈乃に押しつけ祖母の部屋へ向かう。祖母は察していたようで、家族でも聞かれたくないからと、例の、蔵の鍵を用意していた。
 田舎の夜は月と星だけで十分に明るい。蚊取り線香を手に夜の庭を渡り、錠前を開けると、久方ぶりの匂いは変わらなかったが、響が使わなくなってからも手を入れているとのことで、蔵はむしろ出て行く前よりも整理されているようだった。
「響は将棋をするから、いずれ話さなきゃと思っていたのだけどね、機会が無くて」
「こっちも事情があるのは解ったつもりで聞いてるよ。父さん母さんには言わないさ」
 応じた響に、ありがとう、と一息置いてから、祖母は始めた。
「まずは私のことから話した方が良いのかしら……今まで黙っていたけれども、私は関西の方の、古い極道の家の生まれでね、十兵衛さんはそこで将棋を指していたの」
 衝撃的な出だしだった。小寺から聞いた話との整合性はあるとは言え、目の前の穏やかな祖母がヤクザの系譜にあったという告白は驚きを禁じ得ない。
「言い訳に聞こえるでしょうけど、今のヤクザとは違うのよ。戦前の話だから地元の親分みたいな家よ……まあでも、極道よね」
 これは確かに人に話せないことだ。父などは、田舎の役場とはいえ仮にも公務員として勤めているのだから、アンタはヤクザの孫でした、などとは口が裂けても語れまい。
「十兵衛さん、右の腕が無かったでしょう。あれも、私の家のせいでなくしてしまったの」
「戦争じゃなかったの?」
「戦争なんて行ってないもの、腕をなくしていたから行かずにすんだのよ……一五年の頃だったかしらねえ……ああ、昭和一五年だから西暦で言うと一九四〇年。その時は大きな家との付き合いがあって、十兵衛さんも余興に呼ばれたの」
「余興って……将棋?」
「そう。その席で、相手の親分の顔を潰してしまったのですって」
 理解は出来ないが、想像は出来るような気がした。そして同時に、何故か安堵のようなものを感じていた。祖父が相手の地位に応じて加減をするような、在野のゴロと同レベルの勝負師ではなかったことが嬉しかったのかも知れない。
「私の家からも、追い出されるだけならまだしも、命を狙われるようになってしまってね……でも、私には都合が良かったのよ」
「何でさ」
「十兵衛さん、私のことなんてまるで興味が無かったから、ああでもならなかったら機会が無かったもの」
「命の危機に、そんな悠長な」
「本当に楽しかったのよ。十兵衛さんが将棋で稼いで、そのお金でまた全国を巡って強い人を探す、多少危険な新婚旅行よ。戦争が終わる頃にはこの家を買って、結婚していた」
 正しく、書いて字の如くの極道暮らしだ。
「っていうか、その頃二人ともまだ十代でしょ?」
 単純に計算すれば当時の祖母は現代の中学生、祖父にしても三つか四つ上という程度のはずだ。
「四〇年に数えで十三だったかしら、十兵衛さんはちょうど今の響くらいよ……良く似ているもの、性格までそっくりだわ」
 いつもと変わらない調子で言う祖母を見て、ああこの人は間違いなく極道の血を引いていると響は思い直した。この穏やかな性質は、決して育ちが良いという訳ではなく、多少の荒れには動じない精神があるからこそ、或いは気付いてすらいないからこそ、いかなる時も穏やかでいられるのだ。
「それで、響は将棋の話が聞きたいのよね?」
「ああ……そう、そうだった」
 衝撃的な話が多すぎて、思わず本題を忘れかけていた。
「名人狩りみたいなことしてたって、連盟が金積んで口止めしてたって、そんな話を聞いたんだけどさ……本当なの?」
 祖母は小さく頷いて、きっとその通りだ、と答えた。
「この家を買ってからは、毎年梅雨が終わる頃になると将棋の方が来てね、それから一週間近くこの蔵に籠もるの。私は絶対に近付くなって言われていたから、覗いたことが無いけれど、あの時の十兵衛さんは目が昔に戻っていた。怖かったけれど、嬉しそうだった」
「ばあちゃんはさ……そんな金で暮らしてることに、疑問は無かったの?」
 響の素朴な一言に祖母は驚いたような表情を見せたが、
「言われてみたら、確かに堅気のお金ではないけれど……元から極道の娘だからね、深く考えたことも無かったわよ」
当たり前と言えば当たり前の反応だ。
「ただ、十兵衛さんは嫌だったのかも知れない。蔵から出てきて、あちらの付き添いの方がお金の話を始める段になると、全部私に押しつけていたから」
 仮に祖父の立場にあったとしたらやはり同じ事をしただろう。
「どうして表に出なかったのかな、それほど強かったのに」
 会話の流れから口に出したが、答えは既に知っている。
「さあ……あそこは違うって、それだけしか答えてくれなかったわ」
 金ではなく名誉でもない、祖父十兵衛が求めたもの。
「響には、理解できてしまうのでしょうね」
 呟いた祖母の瞳は水鏡のように、月明かりが悲しげに滑っていった。