二の二

 響たちが千駄ヶ谷に到着する頃には冬の短い陽はほとんど沈んでいた。表に出て煙草を咥えていた銀乃介を捕まえると、盤面の方は千代の勝利がほぼ確実なものとなっており後は相手の投了を待つばかりといったところか。
「相馬八段も負ければ降級確定だからな、長引くかも知れんが、あそこから引っ繰り返されるようなことはまあ無いだろ」
 相馬八段は、かつて一度だけA級に上り詰めたことのある人物だったが、タイトルには届かず、年と共にクラスを落としている、還暦もとうに過ぎた老棋士だった。もしも今期降級が確定するようなことがあれば引退する覚悟を固めているとも聞く。
「千代に死水とってもらえんなら幸せだろ、アイツ爺さん連中のウケやたらと良いし」
 若さ故の傲慢を自覚してなお、それを隠そうとはせず、むしろ進んでさらけ出す。島津銀乃介はそういう男だ。
「そっか……そうかもな」
 胸の内にわく恐ろしさにも似た静かな何かを感じずにはいられず、響は曖昧に濁した。
 消えていくその人が可哀想なのではない。将棋から離れていく人物を見る度に、将棋というものが消え去った彼らの世界が伝わってくるようで、怖いのだ。
「終わったら飯でも行くか……何食いたいか考えとけよ。ただし酒のある店限定で」
 短くなった煙草を地に擦りつけて戻る準備をしながら、欠伸混じりに銀乃助は言う。
「銀ちゃんおごってくれるの?」
「おうよ。ただし響、テメーは駄目だ」
 稼ぎがあるやつは自分で払えと、そういうことらしい。
「まだ決まってないうちからこんなんで良いのかね」
「相変わらずクソ真面目だなお前は、そんなんじゃすぐハゲるぞ」
「響ちゃんハゲたらやだなあ」
「ハゲねーよ」
 下らないやりとりをしながら建物に入る。

 勝負は銀乃介の予想とは裏腹にすんなりと決着がついた。その潔すぎる引き際に、勝負する前から引退の覚悟を固めていたのだろうと、場にいた誰しもが察した。
 勝負が終わり、千代に握手を求めてから対局室を後にした相馬八段を、今日は朝から会館で待っていたのだという、長年連れ添った夫人が迎えると、相馬八段は静かに笑いながら、疲れた、と一言だけ漏らした。
 響は思わず目を逸らした。死体に穢れを感じる人間の本能に似た感覚だろうが、しかし響は、本物の死体をこれほどに恐れることは無いだろう。
 目の前の光景にいずれ来る我が身の時を重ねて恐怖を覚えなかった棋士など、果たしているのだろうか。盤を前にして死んでいったあの祖父の姿は、なんと恵まれたうつくしいものだったろうか。響の心中を巡るのはそればかりだった。