二の三

 結局食事は寿司となり、千代もそれほど疲れてはいないということで、銀乃介の馴染みがあるという神田まで足を伸ばした。店は三〇半ばの大将と京都訛りが薄く残った美人の女将が二人で切り盛りしている静かなところで、幸いにも客数は少なく、銀乃介の顔もありカウンターに通された。
「で、どうだったんでい。この前銀坊言ってたじゃねえか、身内の試合があるってよう」
 大将は気さくな人間で、寿司を握りながらもほいほいと話題を振ってくる。尤も、響は隣に座った慈乃がガラスケースの寿司ネタについて一々話を振ってくるので、そちらは銀乃介と千代ばかりが話していた。
「本人に聞いてやってよ、身内ってコイツだから」
「ありゃ、こいつあ失礼。あっしはてっきり銀坊が彼女連れてきたかと思ってたんですが、そうかい、女の人なのに棋士さんでいらしたかい」
「おかげさまで、今日はどうにか勝たせて頂きました」
「へえ、そうかいそうかい。おう、こいつあいいや、今日は祝いの席って訳だ。何てったって美人だ、こりゃあこっちも赤字覚悟だ」
「太っ腹はいいけど、後で女将さんに叱られない程度にしとけよな」
 酒組はこういう具合。
「ねえ響ちゃん、あの、タコの隣は何て魚?」
「しらね」
「じゃあその隣は?」
「しらね」
「じゃあその隣」
「イカじゃなイカ」
「なんだ、ちゃんと聞いてるんだ」
「イカにも」
「おやじくさい」
 ジュース組はそんな具合。
 そうこうしているうちに出された寿司をつまんでいると、大将の興味は響たちに移ったようだった。
「こっちの方は一体どういった関わりだい」
「響、自己紹介。この俺様の弟子であるということに重点を置いてな、感謝の言葉を粛々と述べろ」
 酔うにはまだ早い、喋りやすいようにという銀乃介なりの気遣いらしい。
「浅井響です。そこの酔っぱらいの弟子になった覚えは無いですけど、将棋指しです」
「はあ……こいつはたまげた。見たとこまだ若いじゃねえか」
「中学通いながらプロになったって、結構なレアモンだよ。今高一だけど、かわいくないんだこいつが、若い頃から稼いでっと生意気になっちゃうんだね」
「それはギンにも言えること、でしょ」
「はあ、こりゃあすげえや。あっしが中学の時なんて喧嘩すっかマス掻くかくらいしか能が無かったが、いや、実際大したもんだ」
 大将の軽快な口から漏れた言葉に、
「響ちゃん、マスカクって何?」
慈乃は反応したが、
「当時のポケモンみたいなもんだよ、多分」
響が答えられるはずもない。
「おっとこいつあ失礼、ちっとばかり口が滑っちまったよ……で、そっちのお嬢ちゃんは、まさかやっぱり棋士さんかい?」
「私はまだプロじゃないです」
「まだ、ってことは、いずれは?」
「なれたら良いですねえ」
 暢気な口ぶりだが、慈乃もつい先日の対局で三段昇段を果たしリーグの参加資格を得た。早ければ来年にはプロの可能性もある。ようやく中学を卒業しようかという年齢で、それも女であるのだから、界隈では驚異的どころの騒ぎではない。
「なるだろ、お前は」
 即座に断言した響も、そして銀乃介も千代も、誰一人として慈乃の実力を疑っていない。対局に望む気迫が欠けていたことから響よりも遅れたものの、或いは熱意さえあれば女子中学生プロ棋士などというとんでもない存在が誕生していた可能性だってあると、彼らはそうとまで信じていた。
 そして同時に、本人の無自覚さに腹立たしさのようなものを感じていなかったろうか。現に、慈乃の昇段が話題になると、慣れた人間でなければ解らない程わずかだが、四人に流れる空気が変わる。
 このままでは言葉が詰まりそうだったが、大将が話の方向性を変えた。
「しかしこんだけ身内に棋士が多いんじゃあ、身内同士で戦うなんてことにゃあならんのかい?」
「将棋でできた関係なんだから、そりゃ全員将棋指すさ。全員同じ所を目指してるんだから、いずれ戦うこともあるだろうよ」
 尤も今は俺の一人勝ち状態だけどな、と銀乃介の高笑い。
「何でえ、銀坊もすっかり立ち直ってやがらあ。先週来たときはどこの葬式出た帰りかと思っちまったが」
 先週の順位戦の後も呑みに来たのだろう、銀乃介にしては珍しくばつの悪そうな表情を見せる。
「最終局きっちり勝って残留決めれば来期も見えてくるでしょ。頑張りなさいよ」
 千代はそう励ましてからトロの握りを華麗な所作で口許へ運び、ぱくりぱくりと二つで食べた。脂に濡れた唇と指先が妙にエロティックで、千代がこういう仕草をする時、響はいい加減慣れなければと思いながらもどうしても目を奪われてしまう。
「言われなくてもだ……そっちこそ、これ以上負けられないって解ってんのか?」
「今日より楽な相手だもん、軽くひねってやるわよ」
「だとよ。言われてんぞ、響」
 銀乃介が笑う。
「現実逃避は良くないって、銀から教えてやってくれよ」
 返した響も、先ほどまで見惚れていたことも忘れたかのように、すっかり不敵だった。
「そうだよ大将、さっき言ってた身内の戦い、次が丁度そうなんだ。順位戦の最終局でこいつら二人あたるの。現在全勝で昇級確定の響と、かたや負け越しで降級争いしてる千代」
 軽々しく言う銀乃介に、却って大将の方が動揺していた。
 響は、組み合わせ上今日の対局が無かったものの、千代と同じくC級一組に属する棋士であり、そしてまた、これまでの九戦を全勝で固めて二期連続となる来期の昇級を確実のものとしている。
「坊主、そんなに強かったんかい」
「自分で言うのもなんですけど、今宋英なんて言われちゃったりもしてるんですよ」
 などと大将に言ってみせるのも虚勢ではない。
「でもよ……失礼な話、複雑な気になったりしねえのかい? その、自分はこれ以上勝つ必要なくて、身内に勝ち星が欲しい人間がいるって、そういう状況だと」
 大将の口にしたいかにも素朴な疑問を、しかし響は即座に理解することができず、やがてその意図をつかめたときは、ああなるほど、と大きく頷いたほどだった。
「言われてみればそうかも知れませんね、絶対負けられませんし」
 今度は大将が理解に窮し、それを見て、響は言葉をつなげる。
「だって、負けたら手抜き疑われるじゃないですか。周りがどうこうってのはともかく、本人に疑われたらその瞬間におしまいですから」
 と、そう言ってようやく、大将は要を得たとスパンと音を立てて手を叩いた。
「棋士って連中は、まったく、死ぬ程プライド高いんだな」
 そうね、と千代は笑い、そういうこった、と銀乃介も笑い、そうなんですかね、と響はいまいち理解できずにいたが、その顔は明るい。
 ただ一人、慈乃の表情だけが晴れなかった。