四

            四の一

 順位戦に区切りがついても棋戦は続く。
 王竜ランキング戦五組三回戦、相手は神保氏張七段。C級一組順位戦で昨年八月に対局して以来二度目の組み合わせは振り駒表多く神保七段の先手より。居飛車急戦を好む神保七段の積極的な棋風は一度の敗戦で変わることなく今回も一直線の棒銀、対する響も当初の予定通り四間穴熊を組み上げて堅く対応、勢いに飲まれることなく全て捌ききり相手の息切れを見てからじわじわと絞め上げ確実に仕留めた。
 続く新人王トーナメント、特別優勝したい訳でも無いが昇段規定によってこれが最後の機会となる、どうせなら勝って卒業といきたい棋戦での相手はプロとしては初顔合わせの波多野秀長四段。響より遅れて四段昇進したプロ一年目、奨励会時代には幾度となく顔を合わせ三段リーグでも一戦交えているが、麒麟児と呼ばれ他と一線を画していた響の評価とは歴然の差、七年十四期の延長戦まで粘り強く戦い続け二五歳にして四段の道を開いた彼の胸中には並々ならぬ下克上の意志が見え徹底した研究の跡が見えるも、さりとてこの短期間容易に埋まる差ではなく危なげない勝利。
 以上を以て年度内の対局は終了、年間五十二戦四十勝十二敗は勝率にして七割八分四厘という破格の数字を叩き出して響は新年度を迎えることとなった。


 ベッドの上に寝転がり先日銀乃介が作ったのだという煙詰最長記録を更新する新作――題して『一口剣』というらしい――を検討していると、携帯が震えた。通話着信、相手は安岡らしい。まるで解けない苛立たしさから抜け出すように響はそれを受けた。
『暇してるだろ?』
 開口一番それである。
「暇でも無いな」
『何してんだよ』
「詰め将棋。銀の新作一昨日貰ったんだけど、全然解けねえ。解けないにしてもこんだけ眺めてりゃ普通大筋は見えてくるもんなのに」
『一昨日……って、お前それ、騙されてねえか?』
「はあ?」
『日付、一昨日なんだろ?』
「ああ、そうだけど」
『四月バカ』
 あっ、と思わず間抜けな声が出ていた。
『解くモン解けたところで今からウチ来い。お前待ちだから、早くな』
 言うだけ言うと一方的に通話を切られた。
 どいつもこいつも勝手すぎる。ぶつくさ言いながらもベッドから起き上がりジャージから着替える。着替えながらも銀乃介へメールを打ち真相を確認することも忘れない。財布に携帯と家の鍵、それだけポケットに押し込み、気ままな一人暮らしのボロアパートから自転車をこぎ出した。


 店内は休日ということもあってか上々の客足、既に麻雀部の面々は揃っており、指定卓である部屋隅の手積み台を占拠している。レジ前でスポーツ新聞にコーヒーと煙草という三種の神器を装備した安岡の父に軽く挨拶をして席に着こうとしたその時、携帯が震えた。銀乃介からの返信である。
『結構苦労したんだよあれ。それっぽく出来てただろ?』
 死ね、と一言だけ返信しておいた。
「メールか?」
「ああ、銀から。さっきの詰め将棋の話」
「どうだった?」
「騙されてたよ、あんの野郎」
 舌打ちをしながら洗牌に参加、ジャラジャラと鳴る音にも慣れたもので今では心地良さすら感じるようになっている。
 賽の結果親は森田から、響、井川、安岡。二万五千の三万返し、アリアリの頭跳ね赤は無し、一つ変わった点を挙げるとすれば元禄積みからブッコ抜き果てはツバメ返しに至るまでバレなければサマは合法、しくじった場合は役満払いを以て責任を取る、ただし通しの類は一切禁止、あくまで自力一つの勝負をすること。
「んじゃまあ、早速打ちますか」
 と、言った森田の一打目は二筒。

 親父さんからの差し入れであるコーヒーをすすりながら、行くべきか留まるべきか、響は思考を巡らせる。
 手は良い。良いだけに迷う。満子は一盃口雀頭の九筒にドラ二も確定一二三の純チャン三色で倍満の背中がはっきりと見えるイーシャンテンという場面、持ってきたのは念願のカン二索、待ちは両面一四筒子の願う満月は三枚残り、強気で押し切りリーヅモ一発までつけば三倍満、裏が恵んでくれたなら数えですらも手が届くと夢は果てなく広がるばかり。
 しかし対面の井川と下家の安岡はダマで張っているらしく、特に安岡は八索の暗槓からめくった新ドラ表示牌は七索の四翻上乗せという強烈な流れを持っており、河から見るに索子の染め手か、或いは極端に偏った場からして高めを読むなら緑一色まで意識させられてしまう状況。
 そして響はまだ場に出ていない發を抱えてしまっている。
 突っ張るか、引っ込めるか。
「おい、ちょっと長すぎるぜ」
「解ってるさ……じゃあ、こうだな」
 長考の末に打ち出したのは――發。
 響は二万二千と沈んでおりトップの井川とは一万四千の差、ラスの森田とは一万近い差があるものの、折角負けても悔しい程度で済むゲームをやっているのだから、麻雀ならば無理をしてでもトップを取らなければ打つ意味が無い。とすればここでの勝負は必然。
「通らばリーチ、だ」
 指に挟んだリー棒を眉間に寄せ審判を待つ。
 と、声は予想外の方から届いた。
「ロン……あンた、背中が煤けてるよ――ってな、悪いが高いぜ」
 まさか、と声の主の森田を見れば、倒した牌は高めも高め――大三元。
「俺の勝負運もなかなかどうして、将棋覚えたら良いセン行けちまうかもな」
 したり顔の森田に言い返すこともできずうなだれる。

「そいやあ慈乃ちゃん今年からウチの高校来るんだよな」
 洗牌をしながら、思い出したように森田が言った。
「だな」
「やっぱ棋士って地頭が良いのかね。受験勉強なんてする暇なかっただろうに、あっさりウチ受かってるんだから」
 こちらは感心した風な井川。
「俺らが通ってる時点で大したことねーだろ」
 安岡が笑い飛ばす。成績が良い子と呼ばれるのを嫌がる年頃だった。
「将棋の時間削って勉強してたし、かなり必死にやった結果だよ」
「将棋より勉強か、響見てっと考えられないな」
「笑えねえよ。高校なんて無理してまで通う所じゃないだろうに、何がしたくてわざわざ将棋の時間削ってんだか」
 苦虫を噛みつぶしたような表情の響に他三人は返す言葉もなく呆れた。

 ぶっ続けの六回戦に入ろうかというところで響の携帯がまたも着信を伝えた。銀乃介からの通話、ようやく浮かんできたところなのにと響は眉根を寄せる。
「何だよ」
『花見すんぞ。十分以内に来なかったら酒代お前持ちだから、じゃあな――』
「――ちょ、待てよ」
 受話器に向けて何を言おうと既に通話は切れている。何故自分の周りにばかりこんなに自分勝手な連中が集まるのだろうかと、最早吐くため息も尽きてしまった。
「どっちにせよ頃合いだしな。今日はお開きにすっか」
 聞こえていた訳でも無いだろうに、安岡は察しがいい。
「ってなると、ラスは響だね。森田はひっくり返されなくて助かったじゃん」
「まったくだ。さてと、今回はどうなることやら」
 麻雀部では安岡の父の意向――独り立ちもしてないガキが実弾博打なんざ百年早いというもの――により金銭のやりとりが禁止されている代わりに、ラスを引いた人間はトップの命令を何でも一つだけ聞かねばならないという罰ゲームを導入していた。
「ヤスがトップだろ、どうすんだ?」
「あー、それなら……響これから慈乃ちゃんに会うんだよな?」
「アイツもいるだろうけど、何だよ」
「丁度いい。今回の命令、慈乃ちゃんに『一足先に制服着て見せてくれ』って頼め」
「はあ?」
 響にはまるで訳の解らない注文だったが、井川と森田には通じたらしい、ヤスは優しいねえ、などと更に謎を深める感想が二人からは聞こえた。
「写真撮って来いとか、そういう話か?」
「お前が見てあげればそれで良い。写真とかは取らなくて良いし、罰ゲームの事も本人に伝えるのは禁止……良いな、お前の口から一足先に制服着て見せてくれって頼むんだぞ」
「何だそれ……別に構わないけど、そんなんで良いのか?」
 麻雀部の罰ゲームは普段ならもっと過激なもので、森田は陰毛を焼かれかけたことすらあるし、井川はアダルトショップに一人で放り込まれてガチムチ系のビデオを購入するという苦行を経験済み、響は土地勘もまるで無い場所でのナンパを強要されて散々辱められた記憶がある。
「それで良いからさっさと行け。銀兄さん待たせたらまた面倒臭いぞ」
 腑に落ちない表情のまま、半ば追い出されるように響は雀荘を後にした。





        四の二

 雀荘から立花家までは自転車で三十分といったところか、さすがに間に合うはずもないと無理に急ぐことはせず、茜空の眩しい時刻をのんびりこいで到着する頃には程良く暮れた薄闇に花映える紫色の空だった。
「悪かったわね、急になっちゃって」
 門を開けて出迎えた千代が呆れた風に教えてくれた。
「別に良いけど、珍しいじゃん」
「私も朝から色々忙しかったから、ギンに連絡任せちゃったのよ。そしたら直前になって忘れてたとか言い出して」
「そんなことだろうと思ったよ……んで、俺に電話する前に散々怒ったんだろ?」
「あら、良く解ったわね」
「ふて腐れたガキみたいな電話だったからさ」
「それはごめんなさい、響にしわ寄せいっちゃったのね」
 口元を押さえて上品に笑いながら、自然とそういう仕草が出てくる辺りが育ちの良さなのだろうか。
「花見ながら父さんと指してるから、面倒ついでにフォローしてあげてくれない?」
「本因坊からの刺客か、そりゃ見物だ」
「父さんの将棋に囲碁の看板背負わせたんじゃ、算砂もあの世で泣いてるわね」
「ともかく行ってみるよ、フォローの方は約束できないけど」
 立花家は元より文化人の血筋らしく、現家長の鑑連(あきつら)は碁打ちとして全盛期にはその頂点を極め、現在も大きなタイトルにも絡みながら第一線で息の長い活躍をしている。碁打ちとは何かと因縁深い将棋指しとしては負けられない戦いのはずだが、相手が鑑連では話も別だろうと、顔を出してみれば案の定、どちらも猪口を片手に姿勢を崩して談笑しながら指しており、鑑連の脇からは慈乃が公然と助言している。
「響ちゃん遅いよ」
 やはりというか、真っ先に声を上げたのは慈乃だった。
「おじさんこんちわ。あと、遅れたのは銀のせいだから」
「いらっしゃい。響がいないと慈乃がうるさくてたまらなかったよ」
 碁打ちとしては勝負の鬼とまで言われる人物も家の中では柔和な父親であり、響も古くから良く面倒を見て貰った。将棋の世界に深入りするようになってからというもの肉親とは何となく距離を感じるようになっていたが、そんな響にとって立花家の空気は心底から落ち着けるものだった。
「おばさんはどこいるの? 挨拶してこないと」
「わざわざ構わんでも良いさ、そのうちここに顔を出す。それよりこの局面をどう見るか一つ御指導願いたい、慈乃の言うことは感覚的すぎてどうも解らん」
「私は間違ったこと言ってないもん、お父さんが将棋下手なだけじゃん」
 やり合い始めた親子はひとまず放置し銀乃介を一睨みしてみると、よう、と何の負い目も感じていないような表情で返された。
「何か言うことあるんじゃないのか?」
「まあまあ、細かいこと気にしてないでまずは呑めや、駆けつけ三杯ってな」
「未成年だっつーの」
「そりゃいいや、この機会に慣れておけ。なあ、おやっさんもそう思うだろ?」
 話を振られた鑑連は、
「吐くのも経験だからなあ、無理は良くないが、慣れておくのも大事なことだ」
と、ニヤリを浮かべ良すぎる程の段取りで用意してあったらしいお猪口を一つ取り出すと響へ差し出した。
「まあまあ一献、昇級祝いさ」
 徳利を手に持ち受けろと言う。
「呑ませる気だったでしょ」
「女所帯だからね、男の子と呑むのが夢だったんだ」
 そう言われてしまっては断る訳にもいかず、腹を決め、頂きますと盃を受けた。

「十二日の神座位トーナメントからだよね?」
 縁側から足を垂らし夜闇に舞う花を眺めていると、隣に現れた慈乃はオレンジジュースのコップを持っていた。響は、ちびりちびりやる分にはひどく酔う事もなさそうだと結局酒を呑み続けている。祖父も父も酒飲みだから遺伝かも知れない。
「だな」
「大阪だよね、いつ行くの?」
「十一日の学校終わってから入れば良いだろ……土産欲しけりゃメール入れとけ」
 七大タイトルの一つ神座位は一次二次の予選を勝ち抜いた八名にシード棋士八名を加えたトーナメントで正式な挑戦者を決定する。響は一次予選から勝ち上がりトーナメントに駒を進めていた。
「小寺先生でしょ、強いよねえ」
 一回戦であたる相手は小寺孝高(よしたか)左近・棋将位。プロ十四年目通算タイトル獲得は六期のA級棋士、繊細な読みで慎重な手筋を見せるかと思えば行けると信じた所ではとことんまで押しまくり混戦をものにする緩急激しい居飛車党。先日の棋将位挑戦ではタイトル保持者の六角を三タテで下しての奪取など勢いに乗っており、棋界では六角天下を終わらせる新世代の一人と目されている。神座位ではシード権を与えられており挑戦者決定トーナメントから参加、響には格上も格上の相手だ。
「格上とやるのが初めてって訳じゃない、何とでもしてみせるさ」
「おお、頼もしい。銀ちゃんより先にタイトル獲っちゃいそうだね」
 はしゃぐ慈乃の声が届いたのだろう、
「あんまり響のこと調子のせてんなよバカ慈乃」
と面白く無さそうな声の銀乃介は二次予選で敗退していた。
「俺が先に獲ったら敬語使えよな」
「クソガキが、ボロクソに負けて泣いてこい」
 ただの嫉妬ではなく、それは銀乃介自身の経験、予選と本選の空気の違いを身に染みて叩き込まれたからこそ出た発言だったろう。
 銀乃介はタイトルの本戦に三度出場したことがあるが、挑戦権獲得までは至れていない。予選までは相手が格上であっても油断や時の運で勝てることもある、しかし本戦となれば全員がタイトルを意識してくるのだからそのようなことは有り得ない。完全に実力だけがモノを言う勝負になる。
 響も余裕を見せてはいるが格上相手の実力勝負など初めてのこと、考えれば考えるだけ頭が痛くなる思いであり、そして痛くなる分だけ胸の鼓動が高鳴るのもまた事実だった。
「負けねえよ」
 呟きが漏れるほどに勝ち気を崩さないのはタイトルの為ばかりでなく、むしろその目的からすればタイトルなどおまけ程度に過ぎない。
 トーナメントの別山、決勝でなければ当たらない位置には、前回四傑のシード枠として六角源太の名が載っている。六角源太は名人戦以外の対局など数に数えないだろうが、響はたとえどのような形でもこの怪物棋士と盤を挟んでみたかった。
 師弟という関係にも関わらず、響と源太は盤を挟んだ事がない。指導はおろか模擬戦も、ただの一度も無い。形として残っている棋譜から源太の強さは十二分に明らかだったが、直に感じなければ信じられないと考えることは自然ではないか。六角源太と一局を交えたいという、響の心中で滾る熱には、未だ遠い名人戦を待つだけのゆとりなど無い。
「いいなあ、私も応援行こっかな」
「何言ってんだ平日だぞ、普通に学校行け」
「えー、いいじゃん」
「良くねえよ。入学早々そんなふざけた理由で抜けようとすんな、クラスで浮くぞ」
「ちぇっ、けち」
「大体お前自分のリーグ戦始まるだろ、他人構ってないでそっちに集中しろよ。初戦まで一週間切ってんだぞ」
 リーグ初戦は六日後の土曜日のはずだった。
「相手大友さんだろ、対策は?」
 大友義鎮三段は今回でリーグ八回目となる人物で、響もリーグ時代に一度当たっている。
「棋譜のコピー取ったよ」
 自信満々にそう答えるのだから、響でなければ愛想を尽かすだろう。
「ちゃんと作戦考えてるか? 居飛車も振り飛車もまとまったレベルで指せる人だぞ」
「確かにどっちも指してたけど、どっちもつまらない棋譜ばっかりだったもん」
 天才とは恐ろしいもので、こういう事も平然と口にする。
「お前、絶対に余所でそういうこと口に出すなよ、本当に」
「でも、大友さんの場合どっちも指せるっていうかどっちも形だけって感じだよ。居飛車でも銀ちゃんみたいに怖くないし、振っても響ちゃんみたいにネチネチしてないし、急戦でも持久戦でも基本的に読みが浅いし」
「油断し過ぎだ」
「だって勝てるもん」
「ここまで言って負けたら承知しねえかんな、本当に、負けたらマジで縁切るからな」
 半ば言い争いのようになりながら、響としてはここまで適当な態度で対局に臨むことが信じられないし、慈乃は慈乃で真剣に棋譜を検討した末の結論を述べているつもりだからかみ合うはずもなかった。
「だって、本当だもん」
 小さく震えるような声の慈乃に、ようやく響は言い過ぎたと気が付いた。このままでは下手をしたら泣き出すかも知れない。
「一々ウジウジすんなよ、面倒くせえな……高校入ってそんなんやってたらマジでいじめられるぞ、周り知らない奴ばっかなんだから」
「響ちゃんがいるもん」
「あのな――」
 言いかけたところで麻雀部の罰ゲームを思い出し言葉が止まった。元よりこれ以上小言を続けた所で慈乃は聞く耳を持たないだろうし、ならば機嫌を損ねるだけの無駄な会話はここで打ち切って例の約束を済ませてしまおうと考えたのだ。
「そいや、制服ちゃんと用意してあるか?」
「それくらいちゃんとしてるよ。お姉ちゃんが一緒に行ってくれたもん。バカにしないで」
 結局千代に頼っているじゃないかと言いたいところを飲み込んで続ける。
「じゃ、一足先にちょっと着て見せてくれよ」
 写真は撮らなくて良いと言われたが、証拠が無くては報告するにも不自由だろうと携帯のカメラ機能を確認する。
「え……何で?」
「いや、見たいから」
 罰ゲームと本人に伝えることは禁止というルールまでしっかり守る、何のかんので響は律儀な性格をしていた。
「見たいの? 響ちゃん私の制服姿見たいの?」
 そして慈乃も、先ほどまで拗ねていたのはどうしたのか、すっかり忘れたように異常な喜びようだ。
「ああ、見たい」
「うん、いいよ、とくべつね。特別だからね。ちょっと待ってて、すぐ着替えてくる!」
 風を巻くように立ち上がりドタドタと廊下を鳴らして走り去った慈乃の後ろ姿を見送りながら、女は新しい服が手に入るととかく他人に見せたがるというのは本当らしいと、響は世間一般で語られている常識の意外な正確性に関心していた。
 テストのつもりで桜の木を撮影してみると、案外綺麗に撮れている。メールと通話以外の機能など殆ど使ったことのない響にはこれが結構な衝撃で、またこれならば十分証拠として提出できると目処も立った。
 十分と経たないうちに慈乃は着替えを済ませて戻ってきた。
「いや……着替えるの早いな」
 呆れから思わずそう漏らしてしまうほどだった。
「どう? ねえ、どう?」
「ああ、良いんじゃないの。普通に馴染んでる」
 学校にいる女子と同じような感覚で見る慈乃というのはどこか新鮮だ。
「じゃ、一枚撮らせろ」
「撮るの? 撮りたいの?」
「良いから撮らせろよ」
「とくべつだからね、特別だよ」
 と、慈乃は何故か裸足のまま庭先に降りていく。
「何で下降りんだよ、裸足じゃ足汚れるぞ」
「良いよ、どうせお風呂入るから。それより折角桜綺麗だし、ね、撮って」
「はいはい、解ったよ」
 元気がなくても困りはするがやかましすぎるのも困りものだ、などと心中呟きながらもはいチーズの掛け声は忘れず、パチリと鳴った電子のシャッター音、画面に映し出された慈乃と桜は庭の電気灯籠の灯りに程良く照らされ、どちらも満開といった具合。
「どんな感じ、綺麗に撮れた?」
 脇からのぞき込んでくる慈乃に携帯を渡してから、ふと口許に寄せた猪口が空と気付き、他の人間が揃っている庇間へ戻る。と、敷居を跨いだ瞬間から一斉に視線が集まり、千代が母と二人で微笑ましいものを眺めるような視線を向けてくるのに対し鑑連はどこか複雑そうな表情、銀乃介に至っては腹を抱えているという、てんでまとまりのない状況だった。
「何だよ、気持ち悪いな」
 酒の入った徳利を探し当て手酌をしながらぼやくと、鑑連が、
「響のことは信じているが、まだ高校生なのだから節度を守った付き合い方をするように」
と、いかにも堅い風に言うので、
「いや……そんなに神妙な顔して心配しなくても、潰れるほど呑まないって」
返すと、銀乃介が堪え切れんといった具合に声を上げて馬鹿笑いを始めた。
「響くんだから安心してるんだけどなあ、私は」
 と今度は母が言う。
「いい加減おやっさんも諦めろって、何年同じ事ぼやいてんだよ。もう宴会芸の域だぜ」
 銀乃介は笑いすぎて声が震えている。
「いや、マジで何言ってんの?」
「大丈夫、みんな本当のこと知った上で肴にしてるだけだから、相手にしないのが吉よ」
「だから肴って何だよ」
「まあ、何て言うか、将来そうなったら良いのにね……みたいなお話かな」
「はあ?」
「良いから、早く慈乃のところ行ってあげてよ。響が離れるとあの子うるさいんだから、戻ってこられたら静かに呑めなくなっちゃうでしょ」
「ひでえ言い草だな、仮にも妹だろ……っても、まあどうでもいいか」
 謎は解けないままだったがどうせ大した事では無いのだろうと納得し縁側へ戻った。





         四の三

 入学式など本来なら響の学年は無関係なはずであるからとその日は一日家で対小寺戦へ向けた作戦の洗い直しと棋譜の再検討でもするつもりだったが、朝一番で家へ押し寄せて来た慈乃に予定は脆くも崩れ去った。
 家族はどうしたと尋ねれば勝負師一家の業というものか、鑑連が対局で遠征し母はその世話に付き添わなければならず、千代に関してはタイトルの予選が被さっているから出られないだろうと既に把握していたが、家族総出で家を空けるのならせめて前もって連絡をしておけと思う。
「響ちゃんなら今日は空いてるから大丈夫だってみんな言ってたよ?」
 なるほど響が断らない事を織り込んでのことらしい。親しく付き合いすぎるのも考えものだろうかとまで思ってしまう。
「でもまあ、良いか」
 無人の教室ならば家でやるのと同じ事、案外気分転換になってはかどるかも知れないと、通学用鞄にコピーした棋譜を押し込んで制服に着替える。
「流石に式典までは付き合えないけど、付き添いくらいならしてやるよ。教室で待ってるから終わったらメールしろ」
「ごめんね、ありがとう」
「別に……行き詰まってたし、気分転換だよ」
 正面から礼を言われると照れ臭く、一歩先で踏みしめる通い慣れた川沿いの道は桜の色に染め上げられ、水上をたゆたう花の流れの優雅さにこのような棋譜を一度は描いてみたいものと、うちに思うと7六歩が声に出た。
「8四歩」
 間を置かず背から届いた声に更に重ねて2六歩――


 一年を過ごした教室も進級を終えれば白紙に戻り何事も無かったかのように新しい学生を迎え入れようとしている。窓際の席を一つ借り、校庭で咲き誇る開校来の百年桜を眺めてみれば、一人で家に籠もっていたときのいきづまりの感覚も花と同じく散らされたかと、対局へ向けて明るい兆しも見えてくるようで、感謝すべきはこちらかも知れないと、昼飯でも奢ってやろうかと考えていると、丁度式も終わったらしく連絡が来た。
 待ち合わせをした昇降口へ向かうと新入生の大群の中で一人キョドキョドと不安そうにしている姿が目に入り、これから大丈夫だろうかという不安も湧いたが、クラスが定まれば気の合う人間も見つかるだろうと余計な心配はしないことにする。
 それでもあの状況で長く放っておくのも酷と、手刀を切り切り人混みを掻き分け慈乃の手を取ると、化粧臭い保護者の集団を避けるようにして校門を出た。
「飯行くか、入学祝いに奢ってやるよ。何食いたい?」
「響ちゃんの食べたいので良いよ」
「俺もなあ、別に何でも良いんだけど」
 頭の中に詰まった店の情報を引っかき回していると、駅前で新しくオープンしたロシア料理の店が浮かんだ。確かランチもやっているはずだ。
「じゃ、ロシア料理食うか」
「ボルシチとかだっけ」
「俺もそれしか知らねえや」
 ロシア料理って何だろうなどと語り合いながら歩き出す。




         四の四

 響は大阪へ向かう新幹線の中で棋譜を眺めている。
 土曜日の三段リーグ戦、慈乃は宣言通りに圧勝した。周囲には静かな立ち上がりと見えていた序盤も最後まで見てみれば詰みに向けた一直線の道を作り上げており、それを相手が悟る頃には全てが終わっていた。或いは慈乃には、対局が始まる前から、駒に触れる前から、全てが映像として鮮明に見えていたのではないかと疑われるほどの棋譜だった。
 美しいと思う。大友三段への非礼と承知していても、相手が自分であればもっと素晴らしいものができたのにと、その考えを止めることができない。
 全てを見通したような透明な棋譜は、これ一枚に万物の真理が記されているのではないかと考えたくなるような、間違いなく天才のものだ。
 見惚れているうちに新大阪に到着、眺めていた棋譜を鞄にしまう僅か一時の間にも切なさを感じながら、響は席を立った。



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