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      九の一

 放送協会杯二回戦第一八局の収録日、響は、本局と同時進行で収録される局面解説の為に、国営放送協会の撮影スタジオへとやって来ていた。
 自身の対局では既に何度か訪れているが他人の将棋を解説するのは初めてのこと、とは言え王竜戦第一局の衝撃的な敗戦から一週間と経っていない日程では緊張する間すら無く、聞き手役の岩手恵子女流三段は放送協会杯では六年近くも聞き手を務めている超ベテランであるし、こちらが頼りにならないことが解れば巧くまとめてくれるだろうと、始まる前からすっかり頼りきるつもりでいる。
 本番開始直前、初対面のつもりで頭を下げた響に、岩手は『そりゃ覚えてないわよね』と苦笑した。

「皆様おはようございます、聞き手を務めさせて頂きます岩手恵子です。
 二回戦第一八局となります本日は注目の組み合わせ、島津銀乃助七段対加藤虎之助八段。
 先手の島津銀乃介七段は順位戦B級一組、王竜戦は二組の所属。生粋の居飛車党で棒銀一筋、型にはまれば絶大な破壊力を発揮する将棋は鬼島津流と呼ばれ棋界の内外から広く人気を博しています。若手注目株の人気棋士です。
 後手の加藤虎之助八段は順位戦A級、王竜戦は一組の所属。一度食いつけば決して相手を逃さない、闘犬のような怒濤の攻め将棋が持ち味。今年度の棋天位戦では惜しくも敗れタイトルを失いましたが、この放送協会杯での捲土重来を期しています。
 解説はただ今巷の噂を独占中の高校生棋士、浅井響七段です。よろしくお願いします」
 プロレスでも実況するかの如く始まった場に、放送協会杯はここまで煽りの効いた解説をしていただろうかと内心動揺しつつも、
「どうも、よろしくお願いします」
既にカメラが回っている現状、醜態を晒す訳にはいかない。
「本日は両対局者共攻め将棋一本の棋風ということで、過激なぶつかりあいになると予想されますが、その点浅井七段はどう見ますか」
「島津七段は、まあ棒銀でしょうから、まずは加藤八段がどう受けるかでしょうかね」
 ここでカメラが切り替わり、対局室の盤を上方から覗き込む図になる。
 マイクに音が入らないよう注意して、
「毎回こんなにテンション高いんですか?」
問うと、
「今回は特別ですよ。浅井先生目当てで見る将棋初心者を釣り上げようって、会長直々のお達しで、若者に『将棋はカッコイイ』っていうイメージを持ってもらう為に」
「はあ……イメージですか」
「結構なブームになってるんですよ、高校生のタイトル挑戦って御陰で。それなのに肝心の挑戦者は露出が全く無いから、ナゾがナゾを呼んでどんどん関心が高まって」
「そうなんすか?」
「テレビくらい見て下さい。将棋の神様に愛されてる天才って、最近じゃ一日一回は映りますから」
逆に呆れられる始末だった。
「その為に激しくなりそうな組み合わせ選んだんですから、本当にお願いしますよ」
 そうこうしているうちに手は進み、
 ――先7六歩、後8四歩、先2六歩、後8五歩、先2五歩、後3二金、先7七角、後3四歩、先8八銀、後7七角成、先同銀――
ペッタンペッタンと大盤のマグネットを動かしながら、
「と来まして、綺麗な角換わりですね」
「ですね。飛車先保留して腰掛け銀とかの方が一般的なんですが、まあ島津七段ですから」
「やはり棒銀で。得意戦術というか、それだけ自信があるということですかね」
「初めからこれを指すと決めておけば、その分迷う事もなくなりますからね。逆を言えば選択肢があると迷って指せなくなる性格っていうか、不器用なんでしょう」
「なるほど。それぞれの棋士の得意戦法を見ると、何となくその人の性格まで見えてくるような、そんな感じですかね……ちなみに、浅井七段は得意戦法などありますか?」
「自分は勝つのが一番なので、考えたことが無いんですよね。その時指してる戦法が一番楽しいみたいな感じでしょうか……岩手先生は何かありますか?」
「私は石田流ですね、攻めるの大好きなんで……ところで、浅井七段と言えば振り飛車党期待の新人と言われていましたが、近頃は居飛車党に転籍したとも噂されていますね」
「そうですね……勝っても負けてもって言葉は嫌いなんですけど、居飛車で指した時の方が経験値を多く貰える気がするというか、そういう感じで。状況次第では全然振りますが」
 ――後2二銀、先7八金、後3三銀、先3八銀、後6二銀、先2七銀、後7四歩、先2六銀、後1四歩、先1六歩、後7三銀、先1五歩――
「浅井七段は島津七段と非常に仲が良くて、良くご一緒に勉強なさっているということですが、どうです、兄弟子ともまた違いますけど、そういう方の解説をするというのは」
 ――後同歩――
「将棋に関しては尊敬している部分もありますので、勉強になるなあと」
「将棋に関しては、というのが、また、絶妙な言い回しですね」
「親を除くと一番長い付き合いなので……鬱陶しい兄弟みたいな感じです」
 ――先同銀――
「島津七段とはどういった経緯で、その、ご一緒に勉強なさるようになったんですか?」
「それが、良く覚えてないんですよね……奨励会に入りたての頃だから六年くらい前だと思うんですけど、向こうは当時三段で、なんでか声をかけられて」
「何か目につくようなことでもしたんですかね?」
「うーん、何だったかな……当時の自分は小学生で、本当に生意気でしたから、そうかも知れませんね。とにかく、最初はボコボコにされた記憶があります」
 ――後同香、先同香――
「とまあ、話をしている間に進みましたが、これぞ棒銀みたいな形になりましたね」
「そうですね、ここまで綺麗になるのも珍しいですけど」
「加藤先生も熱くなりやすいですから、やれるものならやってみろという感じでしょうか。本当に、ケンカみたいな将棋ですね。この後はどういった狙いがあるんでしょうか」
「そうですね、香車と銀の交換で何となく先手が損をしているようですが、ここで先手としては1二に歩を垂らしてと金を作りますよという形になっています」
 ――後1六歩、先1八歩――
「後手としてはそれを防ぐ為に受けさせると……でもたとえば、後手1三歩と受けた場合先手はどうなるんでしょう?」
「その場合、先手は1二の歩から1筋に香車を重ねてガツガツ行く感じで。後手が苦しくなってしまうので、受ける場合はやらない方が良いと思います」
「なるほど。他にもこの戦型で初心者の方に伝えておきたいことはありませんか?」
「えーっと……そうですね、角換わりジャンケンとか、そんな話で良いですか?」
「折角ですから、もう少し詳しくお願いします」
「じゃあ手短に、本局とは関係無い話題ですし……では将棋入門編ということで、後手が腰掛け銀模様で6三銀としているとどうなるか」
「本局は7三銀となっていますが、ここで6三銀としている場合ですね。ここから5四に銀を出す形を、歩に腰掛けているような形から腰掛け銀と呼びまして、角換わりの基本的な戦法の一つですね」
「そうですね。その場合、先手1二歩から後手2二銀に先手1一歩成り」
「後手同銀と来まして……折角成っても取られてしまいますが?」
「なんですが、ここで先手は8四香車とする手があるんですね。同飛車に6六角と出来るんですよ」
「これはちょっと大変な形ですね。飛車を逃がすと1一角成から右側がボロボロ、2二銀と受ければ飛車がタダ。7三に銀があればこうはならないんですが」
「こんな感じに、将棋の戦法にはそれぞれ相性というものがあるので、お互いの駒がぶつかっていなくても、戦っている人たちは常に牽制し合っているんですね……時代劇の殺陣で間合いをはかっているような場面をイメージして頂ければ良いと思うんですが」
「なるほど、良い喩えです」
「今説明したような流れは極端な変化ですから、プロの実戦ではまず有り得ない形ですし、飛車先保留や手損の角換わりでもまた違ってくるんですけど、初めて将棋に触れる方には、将棋の性質を理解する上で解り易い例だと思います……というまとめ方で、どうですか?」
「素晴らしいと思いますよ。解説も案外肌に合っているんじゃないですか?」
「いえ……もう、当たり前のことしか話せなくて、すみません」
 ――後4四銀、先2四歩――
「さて、本局ですが。これは」
「1三歩と受けなかったので、当然何もしなければ1二香成が来ます。後手としては桂馬を取られたくないので、桂馬が逃げられるように銀を上げたと」
「先手の方は?」
「4四銀となれば2筋が空きますから、ここから攻めて飛車を成ろうという感じです」
 ――後1九角、先2七飛――
「角が窮屈な感じですけど、これは良いんですかね?」
「手得ですから、悪くは無いと思います」
 ――後2四歩、先同飛、後2三銀――
「銀で受けましたね」
「そうですね……歩で受けてしまうと1四に逃げられて、結局は1三銀ということになりますから。以降3四飛、3三金、3六飛……やはり後手としては面白く無いでしょう」
 ――先2六飛、後3五銀、先5六飛――
「受けないと成られちゃいますね」
「怖いですね……ただどうでしょう、成らせた方が良いのかな」
「と仰いますと?」
「受けた後で3九に金寄られると角が苦しくなりますから、いっそのこと敢えて成らせて角を自由にする方が後手としては良い気もしますが」
 ――後4二玉――
「成らせませんね」
「外れちゃいましたね」
 ――先3九金――
「寄りましたね」
「あ、こっちは当たった」
 ――後2八歩――
「しかし、両者共に凄い勢いで駒を叩き付けてますね」
「駒が割れそうですね」
「聞くところによると、割れ易い駒とかあるらしいですね」
「ああ、聞きますね。左右対称だと割れ易いとか」
「浅井七段は、駒を割ったことはありますか?」
「自分は無いですね……でも、島津七段は何枚か叩き割ってますよ。本人曰く調子が良い時は駒が割れちゃうんだそうで」
「ああ……でも、何となく想像できるというか」
「女流でも割る方とかいらっしゃいます?」
「流石にそれは無いですよ、女のコですから」
「ああ……ええ」
「何か、ご不満がありそうですけど」
「いえいえ、そんなことは」
 ――先4八玉――
「これは?」
「後手が2八の歩で桂を取った時に先手同金、その時に玉がここに寄っていなければ後手の角は3七に逃げられたんですが」
「玉を3七に効かせてるんですね」
「ですね。こうなると後手は桂を取れませんし、角が死んじゃってます」
 ――後2四銀引、先1六飛、後3三桂――
「後手の桂が跳ねて来ましたね」
「これはもう一回跳ねて3七に効かせる感じでしょうか」
「なるほど。仮に2九歩成りと桂を取っても桂の効きを足せば角が逃げられると」
「そうですね。いい手だと思います」
 ――先1七桂――
「逃げましたね」
「タダであげる理由も無いですしね」
 ――後6四銀――
「攻めに来た感じでしょうか」
「そうですね、飛車をイジメにきてますか」
「飛車ですか?」
「後手1五銀と来た時に先手同飛車、後手1四香車という感じです」
「ああ、本当だ。飛車の逃げ場がないですね」
「ただ、この手はどうでしょう」
「何か気になりますか?」
「いや、自分だともう少し焦ってしまう局面かなという気がして」
 ――先2七香――
「これはどうでしょう?」
「さっき言った展開になった時に先手2四歩でしょうか」
「飛車は捨てちゃうんですか?」
「銀と金二枚取れますし、相手の守りガタガタになりますから」
「えー……でも、何となくですが、飛車はどうしても切れないというか。将棋をはじめたばかりの頃だと、王手飛車をされた時に飛車を逃がしたくなったり、しませんか?」
「いや、無いでしょう」
「ありますよ」
「そうなんですか?」
「浅井七段は少し少年の心が足りないですね」
 ――後1五銀、先同飛、後1四香――
「とまあ、お馬鹿な事を話している間に言った通り進みまして、さて次の一手ですが」
「当たると何となく嬉しいもんですね」
「こういう解説は初めてですか?」
「そうなんですよ、今日が初めてで」
「その割に凄く喋れてますね。浅井七段は、もっとこう、クールというか、ぶっちゃけて言うと無愛想な感じの方だと思っていましたが」
「ネクラとは良く言われますね、友達からも」
「フォローが面倒臭くなることをサラッと言わないで下さいよ……まあ、でもそうですね、当たったら何か、お姉さんが個人的に景品出してあげましょう、初出演のご祝儀も兼ねて」
「本当ですか、それは嬉しいですね。じゃあ念力送っておきます」
「2四歩念力ですか?」
「はい、2四歩念力を」
 ――先2四歩――
「あ、当たりましたね」
「お、やった」
「じゃあ、景品の方は期待しておいて下さい」
「あ、本当にくれるんですか。なんかめっちゃ嬉しいっす、有難うございます」
 ――後1五香、先2三歩成、後1七香成、先同歩、後1八飛――
「また、凄い所に飛車を打ちましたね」
「そうですね……歩を成らせたらまずいですけど。まあとりあえず3二と金から……」
「浅井七段が少々本気になられたようなので、暫く無言になってしまうかも知れません」
「いや、解説も忘れてはいませんけど……少し待って貰えますか」
 ――先3二と――
「さあ、そろそろ見えたでしょうか」
「うーん……そうですね」
 ――後同玉――
「あの……浅井七段、そろそろ何か喋って頂かないと、放送事故になってしまいますので」
「2三香成、同玉、4一角、3二桂合、6三角成……というのは、どうでしょう」
「ぼそぼそっと言いましたけど……ちょっと並べてみましょうか……あっ……あー、なるほど! 凄いですねこれ。飛車に当たるんだ、馬が」
「島津七段が指す感じの手ではないですけどね」
「なるほど、本局はどうなりますか」
 ――先5二銀――
「あら、これは一体……タダ捨てに見えてしまうのですが」
「これは……あー……見落としてた。ダメですね……どうも、気が抜けてるのかな」
「いや、あの、解説を」
「そうですね、これで先手が勝ち……ましたが、あの、まだ、どうぞ最後まで見て頂いて」
「え、ちょ、ほんとですか? もう少し丁寧に……ああ、読み切っても結果言っちゃダメとかそういうのはこの際気にしなくても大丈夫ですから、どうぞ解説を」
「はあ、失礼しました……あー、でですね、これ、飛車でも金でも、取ったらその瞬間に先手1四角で、どこへ逃げても金で詰みですね。取らずに逃げても、6一銀成に5一銀打から詰みますので」
「あ……ええ、嘘……すごっ……本当だ。タダヤンさんみたいですけど、壁になるのか」
「味方の駒は取れないですからね」
「ですねえ……しかし、これは本当に鮮やか。思わず仕事を忘れて驚いてしまいました」
「でも……島津七段には似合わないですね、なんか」
「え、どういう意味ですか?」
「鮮やか過ぎるので、何となく」
 ――後4二玉、先6一銀不成――
「不成ですね」
「とすると……3二に金ですかね。これもタダっぽいですけど、取ったら先と同じ流れで1四角から詰みますので」
 ――後2九歩成――
「さあ、最後の問題の歩成りですが」
「歩合でしょうけど」
 ――先2八歩――
「歩ですね」
「この歩は、やられたら相当悔しいでしょうね」
 ――後3九と、先3二金――
 まで六七手、加藤虎之助八段投了。
「ここで加藤八段投了となりました……六七手、早かったですね。投了図以下はどうなるんでしょう?」
「同玉とするなら先手1四角から、2筋は香車が効いていて逃げられませんので、4一金で終わります……まあ有り得ませんけど、5一玉と逃げる場合で一番長いものは、5二金から同飛同銀成同玉へ4二飛と打って6一玉7二銀5一玉6二角、という形になります」
「なるほど、有難うございました。では、時間の方が余っていますので対局室の方へ移動しましょうか」

 解説室の隣、対局室のセットが組まれたスタジオへ向かうと、空打ちの駒音がやたらと高く響き渡っていた。
 感想戦の最中、銀乃介はいつも通りに、会心と言って良い内容の勝利でも顔つきを崩すことはなく、加藤八段は、内容に納得がいかないのだろう、自信のふがいなさを噛み締めるような苦々しい表情、双方口に咥えた煙草は放送時には編集されているだろうが、知らぬ人が見れば任侠映画の撮影と勘違いするだろう雰囲気が漂っている。
 対局者の邪魔にならないよう、響たちは静かに脇に上がった。
「――素直に成らせた方が良かったな、こりゃ。角殺されてからは一本調子だ」
 加藤の重々しい言葉は四〇手目、5六飛に対して4二玉と受けたところらしい。
「そっすね……2八馬から5三飛成に歩で受けますか」
「5二飛は?」
「いや、5六香車で」
「ああそうか、香車あんだな……あー、畜生、見えねえ時はとことんダメだな。5二歩に5六竜と引いて、2九馬、2七香か」
「で、一度お互い玉に手付ける感じですか。そっから歩垂らして桂跳ねられて1三成香が理想っすけど、2八馬とケツ突かれると2三成香が焦らされて嫌か」
「あー、畜生、さっぱりだ……とんだヘボ将棋指しちまったよ」
 加藤が大きく息を吐いた隙に、すかさず岩手は割り込んだ。
「お二方ともお疲れ様でした」
 さすがに手慣れており、本職のアナウンサーも顔負けの進行スキルである。
「放送協会杯史上稀に見る大激戦という感じでしたが、島津七段はどうでした?」
「そうですね……序盤から加藤先生乗ってきてくれたので、出来過ぎかなって感じです」
 そこでようやく響に気が付いたのか、目を丸くして、
「お前何やってんの?」
「いや、解説だけど」
危うく身内の雑談になりかけたところだったが、岩手が加藤へと話を向けた。
「加藤八段としては、振り返って敗因はどの辺りでしょうか」
 直後に尋ねるには厳しい質問だが、これもファンサービスということだろうか。
「畜生だよ、俺がバカした。本当に情けねえ、ひでえ将棋で島津にも申し訳が立たねえよ……正直島津を甘く見てた。負けてから考えると、もっと別の指しようがあった」
 悔やんでも悔やみきれないという風に空打ちを繰り返す姿は、昔ながらの頑固親父そのものである。
「余裕があると勘違いしてたせいでこれだ、もっと焦るべきだった……泣きてえや畜生」
 加藤はそうぼやくと、ふと響を見て、
「浅井と指してみたかったんだがなあ。畜生、負けちまったよ」
 岩手が頬笑みながら、
「浅井七段、ここでも大人気ですね」
「ウチの娘がよ、駒の動かし方も知らんのに、ファンだとかヌカしててな……親父の将棋は見向きもしねえ癖に。面白くねえからぶっ潰してやりたかったんだが」
感想戦のはずが殆ど居酒屋トークになっている。
「んじゃ、加藤先生の代わりに俺がぶっ潰すとしますか。どうぞ娘さんによろしく」
 銀乃介が雰囲気を崩して軽快に言うと、
「ウチの娘、まだ小学生だぞ」
答える加藤の目は笑っていない。
 本日の勝者が三回戦で当たるのは、先日二回戦勝ち抜きを決めた響である。
      九の二

 収録終了後、響は岩手から一枚のカードを貰った。例のご祝儀らしい。
「ほら、連盟公認で将棋のアーケードゲームが出たでしょう。私も出演したからメーカーさんに頂いたんですけど、ゲームセンターとか行きませんし、使って下さい」
 このカードで登録すればゲームを無料でプレイ出来る、所謂スタッフ用のフリーパス的なものらしい。響はゲームセンターなど殆ど行った経験もないが、この将棋ゲームは以前から耳に入っており、それなりに興味もあっただけに有難い。
「有難うございます、早速やってきます」
「あんまりゲームにはまって、成績落とさないで下さいよ。王竜戦、本当に応援してるんですから」
「はあ、有難うございます」
「まだまだですが、今の私があるのは浅井七段の御陰ですからね……そっちは覚えてないでしょうけど」
 随分と解らないことを言うと、かつてのことをすっかり忘れている響はそんなことしか感じなかった。

「で、言われたまんま貰ってきたと」
 スタジオからの帰り道に早速一局試してみようと、その手のことにも詳しそうな銀乃助に声を掛ければ案の定、設置している店舗まで押さえており、連れ立ってゲームセンターへ向かうところだ。
「ああ。岩手先生と話したの初めてだけど、優しい人だな」
「将棋さえ絡まなきゃどこまでも単純だな、お前は……ってか、何も覚えてねーの?」
「何が?」
「お前、奨励会の頃に岩手さんと会話してるよ」
「はあ? 何でお前がそんなこと知ってんだよ」
 土曜の夕刻を迎えようかという頃、人通りの多い繁華街を行く。ニュースで取り上げられているなどと岩手は言っていたが、かといって、有名人のように呼び止められることはない。プロとして生きる棋士とは言え、盤を離れれば街を行き交う風景に溶け込むことも容易い。
「俺もその場にいたからな」
「そんな他人のどうでもいいことまで、よく覚えてんな」
「それどころか、一局指してるぞ」
「マジか……全然覚えてねーや」
「まあ、お前の御陰だって言えるならあの人も本物だったんだろ」
 そうしているうちに目的のゲームセンターに辿り着き、場所に慣れない響は室内を覆う独特の暗い雰囲気と耳をつんざく轟音にどぎまぎしながらも、銀乃介の後を追って目的の筐体を見つけた。
 有頂天将棋、それがゲームの名前である。
「ほれ、やってみろよ。案外おもろいぞ」
「何、どうやってやりゃ良いの」
「カード読み込むところあんだろ、そこにカード当てて……そう、で……あー、岩手さんホントに一回もつかってねーんだな」
 銀乃介の指示通りにカードを読ませると画面が切り替わり、ユーザー登録らしい、プレイヤーネームを入力する画面が出てきた。
「で、登録終えたらCPU対局かオンライン対局か同店舗対局か選ぶだけ」
「名前はAzaiでいっか……ってかやけに詳しいけど、やったことあんの?」
 銀乃介は答えることなく煙草を咥え、懐にしまっていた財布から響のものと同じカードを取り出すと、隣接している筐体に読み込ませた。
「俺はこのゲーム出てんだよ。岩手さんと同じカードメーカーさんからもらってんの……あと千代も出てんぞ」
 筐体の脇に置かれていたリーフレットを指しながら。見れば確かに竹中や小寺といった一流どころに並んで銀乃介や千代の姿も映っている。
「タイトルホルダーとA級、それに上位女流と人気の若手っていう基準だったか。お前の名前も若手枠で挙がってたらしいけど、どうせ断られるってんで依頼しなかったんだと」
「へえ、そうなんだ」
 選考基準を聞いてから、改めて出演棋士を眺めてみると、いるべき一人が欠けている。
「ウチの師匠は?」
「外すわけにいかないから依頼は出したけど、結局相手にされなかったとよ。偏屈師弟が」
「まあ、そういう意味ではこっちとしても楽なんだけどな」
 こういう事に関しては師匠が六角で良かった――自分が無愛想でも師匠がアレでは文句も出ない――などと考えながら、タッチパネルを操作して初回登録を終わらせる。
「で、どれ選べば良いの?」
「オンラインの方は敗者ペナルティあるから遠慮しろ、CPUは家庭用ソフトの延長レベルだから相手にならん」
「何だよ、結局お前とやんのかよ」
「プロなんてそんなもんだ。エフェクトは面白いから、駒組むだけでも気分転換にはなる」
 言われるままに同店舗対局を指定、隣席の銀乃介との、一風変わった将棋となる。
「持ち時間五分、考慮時間は三〇秒三回、切れたら一手十秒」
「随分早指しだな」
「回転良くしなきゃ銭が落ちてこないだろ、大人の事情だよ」
 場が変わっても相手が同じであれば習慣は抜けないものなのか、両者共にお願いしますとゲーム画面へ礼をした。
      九の三

 息抜きのつもりではじめたゲームも結局はいつもの研究対局と変わらなくなり、結果は六戦して五敗。五局とも自陣に引き籠もるかのように守りを固めた挙げ句の敗北だった。
 銀乃介が早指しを得意にしていると言っても、普段であれば六対四をつけている相手にこの成績では、自身の不調を思い知らされるばかりである。
「今のお前は勝負に辛いってよりもただのビビリだ、受けるにも腰が引けてんだよ」
 王竜戦第一局、竹中の7七桂を食らって以降、響ははっきりと調子を崩していた。
「あんな手指されたんじゃ忘れろとも言えねえけど、さっさと切り換えろ」
「もう切り換えてるよ。少し、感覚がつかめないだけだ」
 精神的な落ち込みが続いているという訳ではない。しかし、いざ盤に向いて指し始めると手が縮こまってしまう。
 ――もしかすれば、自分の気付かない間に、既に首を落とされたか知れない――そんな恐怖に四六時中煽られているようなものだ。
 竹中の7七桂によって植え付けられた恐怖が、響の読みの感覚を狂わせている。自らの読みに自信を持てなくなれば、将棋など指せるはずもない。
「十年に一回お目にかかれりゃ上出来っていう鬼手じゃねえか、運が悪かっただけだろ」
「十年に一回の負けでも、笑って流すくらいなら将棋なんてやめた方が良い」
「それで負け重ねてちゃ世話ねえよ、お前はプロだろうが」
「一局の価値を薄めなきゃプロとしてやってけないなんて、それこそ三流じゃねえか」
「手前の読みを信じられなくなったら将棋指しなんて廃業するしかねえっつってんだよ」
 言い合いながら、七時手前の夕食時、二人の行く先は立花家。呼び鈴を押すこともなく勝手知ったる第二の我が家へ上がり込んだ。
 まずは母を探して厨へ向かうと、
「あら、お帰りなさい」
夕食の支度に走り回りながら、あちらの対応もすっかり慣れている。どうやら今夜は天麩羅らしい、油の跳ねる音がパチパチと心地良い。
「ただいマンモス勝って帰宅にゴザソウロウ」
 立花の母からは決して聞いてこない為、対局があった人間は自分から結果を伝えるのが不文律である。
「良かった。じゃあ御祝いね」
「ここの家、週一ペースで何かしら祝ってるよな」
「そうなのよ。みんな稼いできてくれるから、私も嬉しくて若返っちゃうわ」
「そりゃあおっちゃんから感謝状貰わにゃならんか」
 軽口を叩きながら、キッチンペーパーの上に揚げられた茄子の天麩羅をつまもうとする銀乃介だが、その手を菜箸でぺちんと叩き落とされ、ちゃんと洗ってからになさい。二十歳を超えた男にする説教ではないのだがこれもまた日常。
「響くんも、解説お疲れ様」
「結構楽しかったよ」
 こちらは既に手を洗っている響、鱚の天麩羅をつまみながら、ホクホクの白身に思わずウメエと漏らす。
「聞き手の女流の人が巧くてさ、話しやすかったんだ。凄く助かった」
「そう、良かったわね……あ、ご飯なんだけど、炊飯器の設定間違えちゃって八時くらいになっちゃうかも知れないの。ごめんね」
 そう言いつつも肴は間に合わせている辺りが流石である。
「呑めりゃ良いよ、おっちゃんは?」
「研究してるけど、呼べば来るでしょ。六時過ぎればお酒の時間だもの」
「だとよ。呼んでこい、俺は酒出しとくから」
 冷蔵庫を開けてビールを三本、
「良いけど、勝手に一人で始めんてんなよ」
「ウダウダ言ってねえではよ行け、温くなるだろうが」
こりゃ勝手に始めてるパターンだと解っていても、問答を続ければビールは益々温くなる。響に逆らう手は無かった。

 十メートルはある長い渡り廊下で繋がれた書院造の離れは、その昔さる大物政治家との記念対局でも利用されたことがあるほど立派なもので、天井には盤を覗き込むカメラまでセットされている。奢侈とも受け取られかねないこの部屋を、今となっては響も日常的に使っているが、立花家を初めて訪れた小学生の時分はそのスケールに驚いたものだ。
 そっと戸を引いて中を覗くと、鑑連は碁盤を前に寝転がり、ボリボリとだらしなく腹を掻きながらジャンプを読んでいた。
「おじさん、研究してたんじゃないの?」
「おお響か、ということは酒だな……いや、息抜きだ、十分前から読み始めただけだ」
 その割には辺りにバックナンバーが十冊ほど散らかっている。
 よっこいしょういち、と漏らしながらのたのたと立ち上がり、しかし読みかけの漫画を手放そうとはしない。食卓まで持っていくつもりだろう。
「食べながら読んでたらまたおばさんに叱られるよ」
「ちょっと待て。あと少しだから」
 そんなことを話しながら、食卓のある座敷へ向かえば、当然銀乃介は先に始めている。
「おう、悪い。ビールの野郎があんまり汗掻いて苦しそうだったからよ」
「多少汗を掻かせた方が艶が出るものだろうに」
「流石、おやっさんは言うことが違うね。そんな台詞は響にゃちと出てこねえぜ」
 鑑連は自らの缶ビールに手をかけてグラスに移しながら、まだジャンプから目を離そうとしない。
「確かに、オッサン共の感性は理解しかねるよ」
 言いながらの響が倣えば、一足遅れの乾杯は誰が音頭を取ることも無く、自然とグラスは中央に寄った。
 腹の肴は天麩羅であるが、口の肴は『何故碁は将棋に人材を奪われるのか』である。
「例の漫画がやってた頃は小さい子も打ってくれたんだがなあ」
 ぼやく鑑連の悲哀は重いが、
「序盤の自由度が高すぎるんじゃねーの、とっかかりが難しいんだよ……後はまあ、コミがちょくちょく変わってるってのがな。初心者が聞くとやる気が失せちまう点ではある」
銀乃介は容赦なく斬った。
「将棋なら、小さい子って駒組み覚えるだけで楽しそうだしな。技っぽい名前が付いてるのも、いかにも子供心をくすぐって嬉しいというか……F-Systemとか、矢倉森下構えとか」
 同意した響の挙げた『F-System』とは居飛車の左美濃や穴熊といった堅い囲いに対する四間飛車側の策、『矢倉森下構え』とは相居飛車矢倉戦における思想の一つである。
「そう、そういうのがなんかジャンプっぽいだろ。解り易い必殺技がねえとダメなんだよ……っつっても、将棋も余裕こいてられる状況じゃねーけどさ」
「碁は自由だから面白いのに」
「でも、なんか最近は若い女の間で碁が流行ってるとか聞くよ。金持ちの社長と知り合いたいとか、お寿司食べたいからみたいな感じで覚えるんだってさ」
「いや……まあ、そういうのが悪いとも言わないが、そういうのはハナからどうでも良くてな。将来の日本碁界を背負えるような人材がさ……絶対将棋に奪われてる」
 以下鑑連がつらつらと語るところによるとこうなる。
 碁も将棋も、一線級の人物を育てようとすればどれだけ早く親しむかが分かれ目となるが、大抵の子どもは碁よりも将棋に触れる機会が多いため、優れた才能を持った少年少女が将棋に青田刈りされているのだ――と。
「それは無理があるでしょ」
 聞いていた響も苦笑を隠さない。
「何故だ」
「だって、将棋と碁じゃ結局は求められる能力が違うじゃん。将棋で伸び悩んでる人が碁を勉強してみたら急に壁を乗り越えたとか、その逆の話もよく聞くけど……一線で戦える人材は放っておいてもそっちの道に行くもんだよ」
 この響の意見には銀乃介も肯く。
「そう言われてもなあ……竹中君とか小寺君の世代なんて、碁じゃボロボロだぞ」
「まあ、それもよく聞くけど」
 碁で強い世代が出てくると将棋におけるその世代は谷間となり、逆に将棋で強い世代が出てくると碁においてはその世代が谷間となる――という説。尤も響にとっては愛棋家の間でのみ語られる都市伝説の類に過ぎない。
「お前ら見てると碁の未来が真っ暗に思えてくるんだよ。最近は国際戦でもポコポコ負けるし……いい加減マズイんだよなあ」
「自国が弱いスポーツってどの分野でも人気下がるからな。ましてやおっちゃんクラスがポコポコ負けちまったら、そら普及にはマイナスだ」
「将棋は国際戦無いから気楽でいいよなあ……ああ、もう、碁ばかり辛い目にあって」
 碁には国際戦があるという点は、響にしてみれば羨ましくもあるのだが、どうやら鑑連を見ているとそう単純な話でも無いらしい。
 チャトランガから東に回ればシャンチー西に回ればチェスとなって、根が一つの親戚は世界中至る所に存在しているが、同じ土俵で戦える相手はいない。ましてや持ち駒という特殊な発想をしている本将棋では、他ゲームのプレイヤーが多少勉強してもどうにかなるものではなく、連盟も海外普及に力を入れてはいるものの、プロ同士が競い合う国際戦を組めるレベルになるまでには少なくともあと数十年は必要だろう。
「最近じゃ将棋はゲームも出たじゃないか、しかも人気があるし……一回やるのに一時間も待たされたぞ……ああいうの、碁でも出ないかなあ」
「ああ、やったんだ?」
「銀乃介と千代が出ていると聞いたからな……千代には言うなよ、怒るから」
 響は今日行ったゲームセンターを思い返すと、あの騒音の中でゲームをする為にぽつんと待っている和服姿の中年親父を想像し、笑いを堪えた。
「碁はソフトが難しいんじゃねーかな。市販のスペックでもアマトップクラスに十分ってところまで行かないとああいうのは出来ねーって、開発の人が言ってたし」
「そうか……残念だ」
「逆を言えば、人間がソフトに負かされる可能性は将棋の方が高いってことだし、その点碁は気楽で良いじゃねえか。まだしばらくは猶予あるだろ」
「私はソフトが出てきても負けんよ」
「そう言うなら国際戦でも勝ってくれって」
 当たり前のことのように言う銀乃介に、
「どうもなあ……一度苦手意識を植え付けられると、勝負事というのはダメだ」
当の鑑連は弱気だ。
 後進の成長からかつてのように絶対不動の頂点とは呼ばれなくなったとは言え、現在も碁界の一線で戦い続ける実力を有しており通算で七割超えの勝率を誇る、まさしく化け物じみた存在であるが、しかしその鑑連ですら、国際戦に限定すれば勝率で五割近くというところまで落ち込み、棋戦での優勝など滅多に無いというのが日本碁界の現状である。
「そんなに海外勢って強いの?」
「強い。時間の違いもあるが、それ以上に中韓の碁は国内戦とまるで感覚が違う。あちらの碁は実に勝負に辛い」
「日本の碁は甘いの?」
「何というかな……将棋の世界も研究を重視するようになってからは大分変わっただろう、それと同じようなことだよ。最善手が常に有効とは限らない、みたいな話だな」
「将棋で言うと古参のジイサン連中が筋悪っぽい手を異常に嫌うとか、そういう感覚かね」
 鑑連は敢えて聞かなかったような態度で、
「良いところだけは頂いて、私は私の碁を打つさ」
言い放った。
      九の四

「とにかく、棋王の八強戦もすぐだ。気合を入れ直さなければな」
 世界棋王戦――韓国の有名企業が主催する、碁の国際戦では大規模なもので、十一月の初めに準々決勝が行われる――で八強まで残っている日本代表は鑑連一人、しかし一次で全滅ということも珍しくない日本碁界の現状からすれば立派に健闘していると言える。
「響も丁度王竜戦の第二局がある頃だ、お互い勝って祝杯といこうじゃないか」
「こっちが一日・二日で、そっちは三日だっけ?」
「うむ、よく調べてくれてある……が、若造は自分のことに集中していれば良い」
「そう言う割に、おじさんはこっちのことも全部把握してるじゃん」
「生意気を言うな、貴様達と私では格が違うわ」
 へーへーと適当に聞き流しながら、いつの間にか三人の手元は清酒に変わっている。
「おっちゃんが国際戦に苦手意識持ってるのは解ったけど、今までも、苦手な相手とかはいただろ。そういう相手にはどうやってきたんだ?」
 と、銀乃介は何故か響の方を見ながら言う。
「そうだな、苦手意識を植え付けられた相手というのは、確かに厄介だ」
 返す鑑連もまた響を見ている。
「まあ……聞いてやっても良いけど」
 露骨なお節介ではあるが、鑑連の助言の的確さは身を以て知っている響には断る理由も無い。言葉尻ではつれない態度をしてみせながら、知られぬように腹に力を入れ直し、酒に揺れる頭を醒ました。
「今から二十八年も前になるか、私が初めて本因坊に挑戦した時のこと――」
「――ちょ、国際戦の話じゃないのかよ」
 ずっこけそうになる銀乃介に、
「黙って聞け」
ぴしゃりと言う。
「当時十八歳だった私はリーグ入り最年少の新星として注目を集めてな、飛ぶ鳥を落とす勢いとは正にあのことだったろう、リーグでも破竹の勢いで連勝を重ねてあれよあれよという間に挑戦を決めたのだ」
 ふふん、と誇らしげに酒を煽りながら。
 以降二十八年間、十年前に一度全てのタイトルリーグを陥落した時期を除けば、取ったり取られたりを繰り返しながら今に至って延々居座り続けている――ということまでは響も知識として聞いたことがある。将棋で言うところの六角のような存在だ。
「最年少タイトル挑戦だとよ。どこぞの誰かみてえな話だな、おい」
 銀乃介に言われ、響の脳裏に譲り受けた羽織が浮かんだ。
「そしてまあ、初戦だ。相手は変わり者で有名な人でな……まあ、そもそも常識人の方が少ない世界なんだが……神のお告げがあったとかナントカで、初手に天元を打たれた」
 碁に関してはさして知識も無い響が戸惑っていると、
「タイトル戦で鬼殺しやってきた、みたいなもんだ」
と、銀乃介の喩えが耳打ちされ、なるほどそれは有り得ないことだと納得する。
「内容がひどかった。相手の好手と言うよりも、こちらがミスを連続して負けたんだ……そうなれば、その後も散々でな、それまでは連勝記録が付くほど絶好調だったのに、他の予選でもボロボロ負けるようになってしまって、タイトル戦もストレートでカド番だ」
 言葉を止め、その資質を験すかのように響の瞳を覗き込む。
 響は動じずに睨み返す。
 そうして十秒も固まっていただろうか、やがて鑑連は満足げに大きく頷き、続けた。
「腹をくくってな。四局目、私の黒番で、初手天元をやり返したんだよ。その後は知っての通りだ」
 つまりカド番からの四連勝で史上最年少本因坊誕生、ということになる。
「正直なところを言えば、天元は今でも扱いが難しいし、当時の棋譜を見返しても最善手を打てていたとは思えない。それでも当時の私には初手天元が必要だった。あそこでやり返していなければ、今の私は無かっただろう」
 神妙な面持ちで鑑連の一言一句に頷く銀乃介に対し、響は呆れたような顔で、
「それ、要は地力でゴリ押しして勝ったっていう話だよね? 余計なハンデまで背負って」
と身も蓋もないまとめ方。期待が大きかった分ガックリきたというのが本当の所だった。
「まあ、そうとも言うか……ふむ、だがしかし、勝負事なんてものはある程度まで行ってしまえば案外単純で、結局は意地が折れた時に負けるんじゃないか?」
 鑑連は静かに言うと杯を置き、
「腹をくくるなんてことは、幾ら他人に言われても、追い込まれなければそうはできないからな。結局は、自分で悩むしかない」
「解ってる……そこまで頼るつもりはないよ」
「まあ、お前の対局には間に合わないが、答え合わせのつもりで私の棋王戦を見ることだ……苦手な相手に意地で勝つという意味を教えてやる」
不敵な笑みを見せながら言った。












sage