一の一

「――負けました」
 上手に座った女が、にこやかな投了だった。香落ちの一戦。あからさまな態度ではないが、本気でやれば小学生相手に負けるはずがないという余裕を持っている雰囲気は十分に伝わってくる。二十四歳、タイトルにも挑戦したことがある有望株の女流二段。指導という名目でふらりと部屋に顔を見せたがその実は若い男にツバを付けに来たのだろう。対局中から女の視線が余所に向いていることに少年は気付いていた。
「あれ、岩手さん負けちゃったんですか?」
 脇から伸びてきた男の声に女の目の色が変わる。男との会話の種に負けた程度のつもりなのかも知れない。
「ええ、恥ずかしいけど。この子とっても強くて」
「その年で岩手さんを負かせるんじゃえらいもんだな」
 軽い調子で答える男は十八歳奨励会三段、高校卒業を間近に控えながらの後期三段リーグで優勝がほぼ確実となっている。整った顔と今風の軽い性格、しかし一度盤の前に座ればそれらに反してどこか昔気質な印象を覚える一本強気押の棋風を見せることが良い話題となり、意地を貫き通した上で勝ちをもぎ取る、今時珍しく応援しがいのある心底惚れる将棋だと、四段昇進前から好事家のファンがついているような男だ。
「島津君カタキとってよ、ね?」
「え、俺すか?」
 ぬるい空気の漂い始めた場に、ふと、少年が言葉を漏らす。
「もう一局お願いします……今度は振駒から、平手で」
 ざわり、にわかに室内がどよめく。女流とは言え相手はプロのタイトル戦経験者、奨励会にも入りたてという小学五年生に許される発言ではない。岩手女流は苦笑した。
「うーんと、それはね――」
「――子供相手に平手で指して負けるのが怖いですか?」
 明確な挑発。場が凍り付く。小学生相手に本気で怒ることもあるまいが、どちらにせよ場を納めることは至難だ。
 と、そこへ助け船を出したのは、何を思ったのか島津三段だった。
「まあまあ、折角ですから岩手さんも一局指してあげて下さいよ。調子に乗った若手に『ワカラセル』のも先輩の仕事ですよ」
 へらへらと笑いながら、さながら雲のようにつかみどころ無く、自然な流れで岩手女流を盤前に促す。
「そいじゃあ俺の立ち会いってことで……両者とも、よろしくおねがいします」
 島津の聞きようによってはふざけた言葉、しかし少年は無表情に盤に沈む。

 七十手を過ぎた辺りから周囲にギャラリーが集まり始めた。新進の、威勢の良い少年を一目見ようというばかりではない。入会半年経たずの少年が、女流とは言えプロを平手で正面から負かそうかという局面だった。岩手女流の調子が特別に悪いというわけではない。この棋譜とても自らの階級であるならばそれなりの勝ち負けをできるレベルにあるだろう。むしろ真っ向から叩き崩した、少年の小学生らしからぬ抜きん出た棋力をこそ誉めるべきだった。
 以て九八手、詰めろの金が打ち付けられたところで岩手女流の声が震えた。投了の機を逃したようですらある圧倒的な盤面と『負けました』のその声に動揺がしかと現れていた。それらはつまり指導という枠を超えた全力の敗北であることを示している。
 ただの一局で解らせたのは、女流ではなく少年だった。周りを囲む人垣からは賞賛とも驚嘆ともつかないどよめきが沸いている。
 少年は、しかしなおも表情を変えず、もう一度言った。
「最後にもう一局、こっちの二枚落ちでお願いします」
 研鑽を目的とした対局でないことは、ただ相手を辱める為の言葉であることは、誰の前にも明らかだった。さすがにギャラリーから、恐らく会館の職員だろう、仲裁の声が入る。
 しかし少年は岩手女流の目を覗き込むようにじっと見据えその姿勢を崩そうとしない。
 少年はつまり、謝罪を待っているのだった。無論、一局目において駒落ちをしたことに対する謝罪などではない。指導対局とはいえにこやかに笑いながら投了し、あまつさえ敗戦を種に異性へ媚びるような、勝負に礼を欠いたことへの謝罪だ。
 膠着しかけた場に割り込んできたのは島津三段だった。
「そんなことより、どうせなら俺と指さないか」
 その言葉は聞きようによっては岩手女流への侮辱が含まれているとも取れるが、或いはかばうつもりなのか、盤前に座ったままの岩手女流を押しのけて少年と向かい合う。
「どうした、納得いかないか。やっぱり小さくても女と指す方が嬉しいもんなのか」
 少年を煽るような口調で。つまらない勝負なんかよりも俺と指せ、そう誘っている。
 島津の密かな熱気に呼応するかのように、少年は礼をした。

「飯食いに行こう、もちろんおごるよ……つっても安い定食だけど」
 島津の誘いがあったのは指導が終わり帰り支度を始めていたときだった。
「君と話がしたくてね、浅井響くん。遅れまして、島津銀乃介だ。よろしく」
 少年――響は、素直に提案を受け入れた。


           一の二

 島津の行きつけである小さな食堂だった。響がオムライスを食べたいと言うと、メニューにはなかったが女将は気軽に応じてくれた。島津は生姜焼き定食を頼むと、店に置かれているテレビのチャンネルを手慣れた風にいじり、お笑いの番組に合わせた。
 テレビからのガヤの笑い声と厨房から届くフライパンの油の音を聞きながら、島津が何とない風に尋ねる。
「響は、女流の人たちが嫌いか?」
「強いのなら別に……でも、女に勝負は出来ないよ。あいつら場を汚すことしかできない。相撲と同じようにすれば良いんだ、盤も、駒も、女に触らせない方が良い」
「棋士たるもの強さこそが全て、みたいな考え方か」
「何かおかしいですか?」
「いや、考え方自体は正論だと思うけどな。ただ、最近はそうも言ってられないじゃないか……ソフトの進歩とかを見てると、名人がコンピューターに負ける時代がいずれ来るなんて明らかで、もしそうなっても強さこそが全てだって言い続けるなら、いずれプロ棋士は全員今の女流みたいな、つまり、どうあがいても一番にはなれない立場になっちまうんだぞ。お前はその時がきても、棋士は強さこそが全てだって言い続ける自信があるのか?」
「そのときは、棋士がコンピューターソフトに挑戦すればいい。棋士だろうとソフトだろうと、強い方に価値があるんだ。勝負って、そういうことのはずでしょう。人がその意志さえなくしてしまうなら、そのときは将棋の意味も消えちゃうよ」
 言った響に島津は呆れたような苦笑を漏らし、
「最後に残るは名人一人ばかりなり、ってか……色々と子供だが、でも、大筋の結論としては間違ってないよ。そう思えないと駄目だよな。相手を理由にして負けて良いなんて思っちまったら、勝負なんてできやしない」
しかし頷いていた。
「そういやお前、奨励会の推薦人六角先生だよな?」
「そうですけど、何か?」
「弟子取らないことで有名な人なのに、なんかツテあったのかなって」
「じいちゃんと関わりがあったみたいで」
「へえ……お前のじいさん、今は何してんの?」
「去年死にました。二月四日で一周忌です」
「立春か」
「ぼくの誕生日なんです」
 そのとき厨房から、気を利かせて上手く作ったのだろう、オムライスと生姜焼き定食が同時に出てきた。

 響と島津の勝負は、指導とは言えまるで相手にならないものだった。それは島津が真剣に教えたということでもあり、そこで打ち負かされる経験は、まさしく響にとっても指導を受ける喜びを感じられるものだった。だからこそ響は島津の誘いを受けた。本来人付き合いを好む部類でもない、特に勝負絡みでは不器用なまでにこうした関わりを避けていた。
「六角先生に指導付けてもらったりしてんの?」
 島津の問いに響は首を振った、その唇にはほんのりとケチャップがついている。
「面倒は見てやるけど自分で強くなれって、最初にそう言われてるし」
「独学であれかよ、末恐ろしいな……よし、んじゃこれからは俺の勉強につきあえ。六角先生も放任主義みたいだし、どうこう言うタイプじゃないだろ」
「いいよ、将棋の友達はいらない」
「そう言うなよ、俺も他の人の研究会とか息苦しくて出たくないんだ。お前ぐらい誘っておかないと、ほんとに一人になっちまう」
 ふと言葉を止めて、島津は響の口元についたケチャップを親指で荒くぬぐった。恥ずかしいのか、響は頬を赤らめて、ありがとう。
 親指のケチャップをぺろりとなめながら島津は続ける。
「それじゃあそういうことで、これからよろしくな……あ、紹介しておきたいヤツがいるから今度会いに行こう。今三段リーグの俺の下で二位争いしてるヤツだけど」
「勝手に決めないでよ」
「そいつに会えば、きっとお前の考えも良い方に変わるよ。そいつは女流じゃないけど」
 島津は強引だった。響は残りのオムライスをほおばりながら、今度は唇にケチャップを付けないようにしなければと思った。






            一の三

 三日後、響は一人でその家を訪ねた。広い敷地を囲う古い塀、平屋の日本家屋。島津が紹介したいという人物が住んでいる家らしいのだが、島津本人は高校の卒業コンパで来られないという連絡が突然入り、響が一人で来る羽目になったのだった。話は通してあるとのことだがあまりに適当過ぎる。妙な先輩に目を付けられたものだというため息が出た。
 門前のチャイムを鳴らしてしばらく、戸を開けて現れたのは島津と同い年ほどの細い女。
「ギンから話は聞いているわ、おあがりなさい」
 既に臨戦態勢らしいということが響にも伝わる、必要以上の言葉を口にせず招き入れるその女はそれほどに張り詰めた空気を醸し出していた。普段から和服党らしく睦月の空の灰白色に鮮やかな梅を合わせた小紋の着こなしが素晴らしくなじんでおり、うす黒く染まった木板の渡り廊下を擦る足袋の白い音は凛とした自然な美しさを引き立てている。とはいえ、まだ幼少の身である響にそのような女の魅力は解るはずもなく、或いは仮に理解できたとしてもその意識は変わらないだろう、既に棋力に関わらないものに興味はない。
 通された和室には当然のように盤が設けられてあった。
「良いのね?」
 奥の席に着きながら、一応の確認というような態度で女は言う。
「よろしくおねがいします」
 響も多くは語らず、頭を下げて席に着いた。静謐な畳の上で並べる四十の駒は古庭の隅に溶けた添水に似て透明に響く。
「立花千代です……では、よろしくおねがいします」
 先手は響。

 島津と互角、或いはそれ以上かとも思えるような棋力。またしても相手にならなかった。
 島津のそれを相手に向かって直進し力尽くに殴り倒す豪腕とするならば、千代はさながら四方八方から手を尽くし泥沼の底に引きずり込む幻惑の搦め手。格上の人間と指した経験の少ない響にしてみれば、自分の土台を根から揺さぶられる初体験の将棋だった。千代が女流という枠組みをとうに超越していることは疑うべくも無い。
「お茶にしましょうか」
 ふと千代は言い立ち上がると、着いてくるようにと響の前を行った。未だ人柄は掴みかねるが、一つ確かなことは、千代は棋士だった。そして響にはそれだけで十分だった。
 先の対局室よりも幾分広い客間、蛍光灯は備えておらず開け放った襖向こうの硝子戸から入り込む仄暗い陽の光のみ。しかし庭の池はよく見えた。そこに棲む金魚の動きと波の揺れまでも。
 煎茶と茶請けの菓子を出しながら千代は言う。
「欧羅巴の美は、強い光を当てるんですって。たとえば、蛍光灯。……日本の場合は行燈の薄暗さだから、逆に強い光を遠ざけるの。源氏物語、知らないかしら、きっとそのうちに学校で教わると思うけれど……ほとんどの話に共通して、相手の、好きな人の顔は暗くてはっきりとは見えないの」
 しかし菓子に関しては洋菓子だった。響はあんこが苦手なので助かったと思った。小豆の味が苦手なのだ。
「ごめんなさい」
 開口一番響は謝った。
「どうして?」
「島津さんから聞いてるんでしょう、ぼくが女流の人に失礼をしたって。それで怒られるのに、今日は呼ばれたんでしょう?」
「そんなことあるわけないでしょう。おかしなこと言うのね」
 手元に口を当てながら上品に笑う。泥臭く粘り強い棋風とは真逆の品の良さ。棋風と人格はあまり関係がないのかも知れない。
「ギンに何吹き込まれたのかは知らないけれど、そんなこと気にしなくて良いわ」
「でも」
「私は正式棋士になるつもりだし、謝られても困るの。自分のことを女流だと思ったことなんて、今までに一度だってないもの」
「女流にはならないんですか?」
「その前に三段リーグ勝ち抜けないとだけど、ね。ギンより遅れるなんて死んでも御免」
「二位争いをしているって、島津さんから聞きました」
「ええ。ギンが頭一つ抜けて一位、私とあと二人が横並びの二位争い……もう三回目だしそろそろ通らないと。高校卒業して将棋浪人っていうのも辛いし」
「島津さんは何回目なんですか?」
「あいつは一回目、でいきなりトップ独走だもん、こっちがやんなるわ……って私が言ってたなんてこと、本人には言わないでね」
 盤前に座っていたときとは打って変わって年相応のかわいらしさが見え隠れする千代に、響は生まれて初めての感覚を味わっていた。むねがばくばくする。
「それにしても」
 と、千代は話題を切り出した。
「君、ほんっとに情報疎いのね。三段リーグの話なんて多かれ少なかれ耳に入るでしょ?」
「将棋の知り合い、いないから」
「ああ、ギンもそんなこと言ってたっけ……ってことは、ホントに一切独学でここまでやってきたの? 親御さんとか、少しは詳しいんでしょう?」
「親は、将棋のこと博打だと思ってるもん。奨励会のことはちゃんとしたところだって説明したから、怒られはしないけど、あんまり奨めてくれない」
 千代は呆れたような息を吐き、
「才能か」
そう漏らすばかりだった。
「じいちゃんが」
「え?」
「じいちゃんが、真剣師だった」
「ああ……それで将棋が博打。じゃあおじいさんに教わったの?」
 響は首を振る。
「棋譜の読み方は教えてくれたけど……あとは、一局指しただけ」
「一局だけって、どうして?」
「その一局で死んだから」
 響はそれを何か特別のこととして語っていないと千代には理解できたが、しかしだからこそ言葉を失った。
 けだしこの世に狂気などというものが存在するならば、それは冷静の内にしか存在し得ない。自らの内に潜む異質は、他者に映し出すことでしかその存在を確認できない。千代は、島津は、全ての棋士たちは、この後響が続ける言葉を知っている。
「だからぼくは、ああいう将棋をまた指したいんだ」
 千代の抱いた恐怖は、響にではなく、その言葉を否定できない自らの内に対するものだ。
         一の四

 響がカステラを口に運ぼうと口を開いたとき、ふと女の子の幼い声が届いた。
 それを聞いた千代は微笑みながら、
「紹介しておきたい子がいるの、私の妹なんだけどね」
と、その少女を出迎えに立った。
 佇まいを直していた響の前に連れて来られたのは、千代の背に隠れようとしているが赤いランドセルがはみ出している、明らかに響よりも年下の少女。共に小学生同士であるとは言え、直に六年生になろうかという響にとって、その姿は庇護すべき幼さとして映る。
「ほら、昨日から言っといたでしょ、ちゃんと挨拶しなさい。あんたもう来年から五年生なんだから少しはなんとかしないと、また年下の子に馬鹿にされるわよ」
 なかなか前に出ようとしない少女を千代が力尽くに引っ張り出すと、スカートの裾をぎゅっと握りしめたまま下を向いた、顔の赤い少女だった。それを見た響はすっかり余裕が出て、これはこちらから挨拶するべきだろうと、年長者の余裕を見せつけんばかりだ。
「はじめまして、浅井響です。来年から小学校六年生です、よろしくおねがいします」
 大変良くできました、のハンコが押されそうな自己紹介で先手を打つ。これには千代という大人の女へのアピールのつもりも多分にあった。まず第一に将棋が強く、その上美人で大人とくれば、小学生の響にとってこれほどあこがれる存在はない。
「ほら、将棋の友達作るんでしょ。ちゃんと挨拶しないと駄目じゃないの」
「だって」
 かすかに漏れたそれを聞いて、うさぎのような声だと、響はなんとなく思った。うさぎの鳴き声がどんなだか、ほんとうは知らないけれど。
「だってじゃない。ちゃんとしないと今日のおやつあげないよ」
 千代の殺し文句ようやく屈したか、少女は、口ごもりながらどうにか口を開いた。
「……いの」
 蚊の羽音よりも小さい呟きだった。
「いの?」
「ちがう……の」
「は? もう少しはっきり言ってよ」
 響の問い返し方が幾分乱暴だったことは事実だろう、しかしあくまでも常識の範囲内のことで、何も脅しをかけたわけではない――のだが、この少女、少々緊張の度合が大き過ぎたらしく、たったこれだけの事に対して肩をしゃくり上げ始め、声を震わせ、そして、涙をまき散らして千代にすがりつきながら泣き始めた。
「ちょっと、あんた何で泣いてんのよ。ったくもう……ごめんね響くん、この子一事が万事こんな感じで、将棋に関しては本当にずば抜けてるんだけど、とにかく友達いないのよ」
 慌てたように少女の背中をさすってやりながら、千代。
「何となく、わかるような気がします」
 これでは友達になる前に人が逃げ出してしまうだろうと響が呆気に取られていたその時、少女が一際大きな声で、響に投げつけるように言った。
「じのぉ! だぢばなじのぉ! なまえぇ!」
 立花慈乃――たちばなしの――それが少女の名。
 この日少年は本物の天才と出会った。後で振り返れば確実に笑ってしまう出会いだった。
















sage