一〇

     十

      十の一

 ゲームチャンプも真っ青な十六連打の呼び鈴で叩き起こされると、ボロアパートの慣れた部屋はまるで大地震でもあった直後のように荒れていた。棋書や漫画を詰め込んだ本棚は真横に倒れその中身が、壁に投げつけたコップの破片が、他にも諸々、狭い室内に踏み場無く散乱している。
 脳が覚醒してくるにしたがって、昨夜、王竜戦第二局を終え深夜東京に帰ってきてからの、癇癪を堪えきれなかった自身の醜態が思い出されると、いよいよもって最悪の寝覚めとなった。
「響ちゃん、起きてる?」
 立花家用の合鍵で乗り込んできた慈乃をベッドに寝転がったまま仏頂面で迎える。
 室内の荒れ模様に言葉をなくし、唖然として立ち尽くす慈乃の背後から千代が現れ、
「これはまた、久しぶりに荒れたこと」
こちらは至って冷静な対応。
「久しぶりっていつの話だよ」
「ほら、奨励会の頃、小六の夏休みの時。大頓死やらかして、ウチで大暴れした事あったでしょう。父さんが珍しく響のこと叱ったじゃない」
「いい加減忘れろよ……そんな昔の話」
「何言ってんの、ついこの前の話でしょう。中身だって何も成長してない癖に」
 言い捨てながら、錯乱したガラスの破片を拾い上げ、テキパキとゴミ袋へまとめていく。
「で、今日はどうするの。このまま部屋で拗ねてる?」
「行くよ……っつーか拗ねてねえよ」
 これ以上ダラダラしていては余計に笑われるだけとベッドから起き上がる。
 本日土曜日は鑑連の世界棋王戦トーナメントの八強戦、響は立花姉妹と共に、市ヶ谷で行われる解説会へ向かう予定となっていた。


 国内囲碁の総本山は市ヶ谷にある棋院東京本館。将棋会館よりも一回りは大きい建物は、千駄ヶ谷のねぐらとは少々趣を異にする気品、所謂高級感のようなものが漂っている。
「何か……碁と将棋ってお隣さんって感じだけど、やっぱ違うよな」
「そうかしら、気にしすぎなんじゃないの?」
 千駄ヶ谷の連盟囲碁部では発足以来最強格とまで謳われ、息抜きの碁会所通いも最低で週イチは絶やさないというだけあって、千代はこの界隈にも慣れており、先導するように前を行くその足取りは、ひょっとすれば千駄ヶ谷よりもと疑われるほどに、蝶が舞うかのような軽やかさである。
「お姉ちゃん、今でも四分の一くらいは碁打ちだもんね」
 そう言った慈乃はどこか緊張した面持ちで、響と同じくよその家へお邪魔するといった様子。
 一階のエントランス、碁に関する展示物を横目で眺めながら、大盤解説が行われる予定の二階へと上がる。普段は一般対局場として開放しているのだというスペースでは多数のアマチュア愛棋家が碁を楽しんでおり、二階までは一般開放という辺りは同じか、などと巡らせながら、響は慈乃と二人で売店コーナーに並べられたグッズを眺めていた。千代は知人への挨拶に場を離れている。
「――これおじさんの本じゃん……碁も楽しそうだし、一冊くらい買ってみっかな」
「わざわざ買わなくても本人と打てば良いのに」
「流石にド素人が遊び感覚で指導頼むのは気が引ける相手だって。ある程度打てるようになってからならともかく」
「そんなこと気にしなくても絶対喜ぶよ、本格的に碁を打たせたいってよく言ってるし」
「本格的となると、将棋だけで手一杯だしな。将棋に役立つなら幾らでも勉強するけど」
「大体この本ならうちにあるし、買うなら他のにしなよ……ほら、江戸時代フェアやってるんだって。算砂の碁とかもあるよ」
「へえ。将棋の方は並べたことあるな」
「一世との?」
「二世とのも。江戸は遊び感覚で一通り並べたから」
「算砂とお父さん、どっちが強いと思う?」
「あー……序盤分でおじさんが勝つんじゃないかな」
「算砂が今の定跡覚えたら?」
「うーん、そりゃ算砂だろうけど……正直算砂は、功績は立派でも、強いとは思えないんだよな。江戸だと三代宗看とか宗英とか、それに宗歩辺りは今の考え方を覚えたら面白いかも――」
 江戸時代フェアに引き摺られて話を進めていると、
「貴方、浅井響ですね」
背後から突然腕を掴まれた。
 振り返れば、慈乃に対する視線で丁度良いような、響よりも一回り小さい背丈。華奢な体躯で整った顔立ちをしており、透き通るような肌に咲いた桃色の唇、呼ばれた声も男のそれと聞こえなかったものだから、響はてっきり女の子かと勘違いをしていたが、中学生程度だろうか、年のせいで着られてしまっているスーツ姿、美しい少年だった。
 綺麗な薔薇には何とやらということか、響を射貫く視線は敵意に満ちている。
「そうだけど、君は?」
 穏やかな口調で応えながら、さり気なく腕を振り払う。
「うちの一世に言い掛かりをつける気ですか」
「一世……ああ、聞いていたのか。まあ将棋の話だから」
 相手が子どもということもあり、気を悪くしたのならすまなかった程度に一言謝るべきかとも考えたが、元より難癖をつけられているとしか考えられない話の流れ、しかも非礼を取ってきたのはあちらが先である。
 敢えて受け流すような答え方をしてやると、
「ここは市ヶ谷です……貧乏臭い将棋の話なんて、千駄ヶ谷のボロ屋敷でやって下さい」
ピクリ、とこめかみが引きつるのを感じた。
「大体、そちらの一世はその弱い将棋でも互角だったって言うじゃないですか。所詮その程度、学のない人間の遊び事なんだ……まあ、将棋は上座の器ではないってことですよね」
 ハッハッハ、と声を張り上げて勝ち誇る。この高笑いには流石に堪える義理も尽きた。
「七対一ついてりゃ当時は駒落ちで良い手合いだろうし、平で指してることが既にお情けなんだけどね。しかしまあ、アレを互角扱いとは……碁ってのは随分甘い世界だことで」
「響ちゃん、やめて」
「甘いだと。甘いと言ったんですか、貴方は!」
「ジンバブエドルみたいな段位に慣れてるせいで感覚までイカレてんじゃないの?」
「響ちゃんってば」
「言わせておけば、取り消して下さい」
「手前が売ってきた喧嘩だろう。後からガタガタ垂れるなよ、このカマ野郎」
「カ……カマじゃない! 僕は男だ!」
「知ってるさ。昔大岡に掘らせたケツを今は政治屋と成金豚に耕して貰ってんだろ?」
「何てことを、やはり将棋指しの品性は畜生にも劣る」
 往来でぎゃあぎゃあと言葉の殴り合いをしていれば人目につかないはずもなく、
「アンタ達何やってんの!」
間もなく、騒ぎを聞きつけて急いだのだろう、息を切らして戻ってきた千代から特大の雷が落ちた。
 条件反射で全身がビクリと固まった響に対して、
「うわっ、千代ちゃん」
先ほどまでの威勢はどこへやら、謎の美少年もまたすっかり怯えた表情である。
「待て千代、場所を変えるぞ」
 鰐皮の踵で床を鳴らしながら、悠然と現れた壮年の紳士は、言葉選びこそ妙ではないが、その声はいかにも演歌が似合いそうな厳めしい重低音。オールバックでガッチリと固めた髪型に黒のスーツという出で立ちもまた尋常ならざる雰囲気を醸し出しており、この上仮にサングラスでもかけていようものならまず職務質問に引っかからない方が不思議というもの。
 しかし、どこかで見覚えのある顔である。果たして誰だったろうか。
 響が記憶を探っていると、青ざめた表情の少年が、高橋先生、と今にも死にそうな声で呟いた。
      十の二

 棋院上階、関係者以外の立ち入りを禁止されている畳部屋に三人きり、響、少年、高橋先生と呼ばれた男――外部の音がまるで届かない密室で、高橋の重い一言が発せられる度、正座して聞く二人の背筋に冷や汗が重なっていく。
「なるほど、碁打ち将棋指しの諍いというのも確かに古典だ――」
 その風貌と棋風から、誰が呼んだか市ヶ谷の首領(ドン)・高橋紹運。鑑連と並んで日本碁界を牽引するトッププロの一人であり、
「――ザル碁打ちとヘボ将棋指しに限って、こぞってやりたがると聞く」
その言い回しは鑑連のような斬れ味鋭い名刀ではなく、脳漿ごと弾き飛ばすような破壊力に満ちた.44の弾丸である。
「ところで、君たちはあそこで何をしていたのかね?」
 後頭部に銃口を押しつけ、その撃鉄をゆっくりと起こすかのような一言。返答を誤ればノータイムでズドン、まさか額の風通しが良くなることもあるまいが、メンタルの方には間違いなく特大のトンネルが開通することだろう。
「わ……話題の浅井七段にお目にかかれたので、つい……興奮してしまいました」
 少年が畳に額を擦り付けながら答える。
「浅井君は」
「自分は、全く新しい触れ合いだったもので……応じるにもつい力が入りすぎてしまい」
 同じく畳に頭を擦り付けながら、しどろもどろの受け答えになっていた。
「なるほど、若い衆なりに友情を深めていたということか」
 到底信じていないのだろう、後頭部に浮かぶ銃口の影は未だ拭えない。
「あちらが始まるまでまだ小一時間はあるな……山中君」
「ハイッ!」
 どうやら少年は山中という姓らしい。
「こちらはまだ浅井七段の碁を知らない。解説するにしても、どの程度か把握しておいた方が良いと思うのだが」
「ハイッ! 謹んで御相手させて頂きます」
 傍で聞いている響が滑稽に感じてしまうほどではあるが、しかし、当人からすれば必死以外の何ものでもないのだろう、もしもここが千駄ヶ谷で逆の立場に立たされていたらと、先程まで言い争っていたことなどすっかり忘れ、どこか哀れみを覚えるほどだ。
「良い機会だ、君も将棋を教えて貰うと良い。将棋を指せる人間が増えるのは私としても喜ばしいからな……浅井七段、よろしく頼めるかな?」
 意図しない提案ではあったが、山中少年に引き摺られるかの如く、響もまた深々と頭を下げて承る。
 高橋はようやく緊張を解く咳払いを一つ置くと、
「それから、よければ後日、私も一局お願いしたい。千駄ヶ谷で実力アマ四段だ」
意外な事実。
「指導は苦手なんですが……それなりに覚悟がおありでしたら」
 加減の器用な人間では無いぞ、と言外に含ませると、
「勿論だ、願ってもない」
強がりには見えない、それなりの自信を持った人間の返答である。
「両刀なんですか……千駄ヶ谷の四段ってことは、結構指されてますよね」
 思わず漏れたというのが正しいだろう――アマ四段であれば小さな地方大会で優勝争いに参加出来る層であり、それなりに勉強しなければ到底達することの出来ないレベル――響の率直な感想である。
「両刀ということなら、君の身近にもっと凄い人間がいるよ」
 意味深な発言も、しかし回答を確かめる間などなく、解説会の準備があるからと高橋は部屋を出ていった。

 場所を変え碁の指導を受けている最中、高橋の発言は一体誰のことを言っていたのか、まさか鑑連であるはずはなく、心当たりを探っていると、
「千代ちゃんのことですよ」
山中少年がはっきりと言い切った。
「流石に本気のトッププロじゃ相手にならないでしょうが、入段試験レベルなら現状でも相手がいないでしょう」
 将棋で言えば奨励会の三段を相手に無双出来るアマチュアということになるが、そんな存在は想像すらできない。
「実際、千代ちゃんの場合はプロでも相手出来る人間が限られますから」
「何でさ」
 ぱちりぱちり、十五路盤に石を打ちながら。なるほど、十九路では大きすぎて見えない部分ばかりという印象だったが、こうして少しでも小さな碁盤で指導を受けてみると中々感じるものもある。
「プロ相手に連戦連勝なんてしてしまったら、市ヶ谷に来づらくなるということでしょう」
「教える側の経験もあるんだから、指導の勝ち負けなんて一々本気にしないって」
 深く潜るのではなく遙か天空から全体を掌握する視野、といった感覚だろうか。将棋と比較すると正確な読みよりも感性が重視される、とは碁を評する際に良く用いられる言葉だが、その意味が朧気ながら解りかけてくるようだ。
「千代ちゃん相手に指導のつもりで打てるなんて、それこそトッププロくらいですよ」
「そりゃ言い過ぎだろ」
「信じられないかも知れませんが、本当なんです。そもそもそちらと違ってレッスンプロなんて言葉があるような世界ですから、プロの間でも実力差が大きくて」
 将棋で言う指導棋士のような人々もプロとして扱われる世界ということだろうか。それならば、アマチュアがプロに食らわせる確率が幾らか高まったとしても不思議ではないが、それでも山中少年の語り具合は明らかに度を超しているように思える。
「外来で受けてみないかって散々誘ったらしいですけど、フラレ通しだったみたいです」
「本当に?」
「碁一本に絞ってやっていれば、ひょっとしたら女性棋士初めてのリーグ入り、タイトルだって手が届いたかも知れません」
 解り易く熱を帯びてきた山中少年の発言に、響が疑念の目を向けると、
「男女の差はそちらより小さいですから、お隣の国ではそういう方も出ていますし。大体、今の状態で立花先生相手に先逆コミ三目なんですから、それくらいは言われて当然です」
ムキになって言い返された。
「幾ら何でもさ……それは」
「本当です、立花先生御本人がその手合いだと仰っています」
 山中少年から語られる鑑連の像を聞いているうちに、響は事の次第を察し始める。
 と、山中少年はそれまでの調子から一転、元気の無い声になり、
「立花鑑連の娘なんだから……こっちに来てくれて当然だったのに」
呟くと、
「浅井七段のことにしたって……何で将棋ばっかり」
ふて腐れたようにそう続けた。
 やはり――つまり、この山中少年は鑑連のことを深く尊敬しているらしい。そうであるならば、出会い頭に喧嘩をふっかけるというまるで似合わない行動を――こうして指導を受けているからこそ解る――取った理由にも納得がいく。
「山中……ええと、なんと呼んだら?」
「山中……ヒビキ」
「え?」
 突然呼び捨てにされたのかと戸惑うが、違った。
「山中響。プロ二年目、三段」
 偶然の一致というには出来過ぎたような同名だった。
「浅井七段も中学生プロって言われてますけど、僕だって中学一年からプロでやってます」
 タネが解ればかわいらしいもので、響はこの小さな先生に、
「山中三段……改めて、先程は全くの失言でした。どうか取り消させて頂きたい」
改めて胡座を組み直し、両の拳を畳について、心から頭を下げて詫びると、
「いえ……元はといえばこちらが悪いので。本当にすみませんでした」
もう一人の小さな響も、頬を赤らめながら下げ返した。


 時間になり、山中少年の案内で向かった検討屋の扉に手をかけようとすると、正に同時に向こうから開けられ、
「あら、ダブル響じゃない。丁度呼びに行こうと思ってたんだけど……仲直りは済んだ?」
入れ違いになりかけたらしい、現れた千代が意味深な笑みを浮かべて言う。
 からかいが効いたようで、山中少年は千代の脇を通り抜けてそそくさと部屋へ入った。
「御陰様で。立花家御令嬢の碁についてもたっぷり聞かせて貰ったよ」
 可愛げのない方の響が冷やかしのつもりで返すと、
「どうせあの子のことだから、父さんの言うこと鵜呑みにしてるんでしょ」
「ああ、碁一本でやってりゃとんでもない才能だったってよ」
「父さんの与太話なんて無視するくらいで丁度良いのに。少し真面目過ぎるのよ、あの子」
「おじさん相手に定先逆コミ三目の手合いってのは?」
「まあ……碁盤と将棋盤の区別がつかないくらい酔わせれば、どうにか勝負になるかもね」
心底からの困惑が感じられる表情で。こういう点も、千代が碁をやめたかった理由の一端かも知れない。
「とにかく、紹介するから来なさい」
 お邪魔しますと小声で一つ言いながら中に入れば、先程まで居た部屋の倍は広い畳部屋に、二十代から四十代程だろうか、幅広い年齢の人間が九名、慈乃を加えて総勢十名が、二つに分かれてああでもないこうでもないとそれぞれ碁盤を囲んでいる。
 こういう光景はどこも同じようなものだ。
 などと暢気に構えていたのも束の間、
「おお、浅井君が来たぞ」
どこからか声があがると十八の見知らぬ目玉が一斉に向いた。
 礼をすると、
「ウチのヒビキがお世話になったそうで」
いきなりの先制パンチを食らう。
「いや、彼も本当は良い子なんですけどね、それ以上に立花先生の信者なもので。浅井君の事が羨ましくて仕方ないんですよ」
「そうそう。先生が四六時中響が響がって君のこと話すもんだから、自分もヒビキなのにって、延々愚痴っててさ」
「おまけにほら、王竜戦のアレ、先生が初めて本因坊獲った時のなんだろう? そのこと知ってからはもう完全に拗ねちゃってね」
「今日なんて、朝からずっと『旦那の浮気相手を家で迎え撃つ妻』みたいな感じだったし」
「朝一から二階で張り込んでんだもん……正直引くレベルだっつーの」
 方々から飛んでくる笑い声のどれもが山中少年をからかうもので、黙り込んで盤を睨むしかできない本人は泣きたい程だろう。
「父さんのお弟子さんとか、研究会の人たちだから、紹介するまでもなかったかしら」
 そう耳打ちされると、知らないところで何を語られているのかと不安になる。
「山中君は今日一日君の専属だと思って良いからね。何でも良い、得る物があるならどんどん盗んで行って下さい」
 最年長らしい人物に言われ、
「いえ、やはり検討の邪魔になりますから。今日は大盤の方でお世話になろうかと」
本来ならば今ここに居ることも場違いであると辞退しようとするも、
「遠慮する必要は無いですよ、先生からも言われていますから……立花門下の一員としてしっかり学んでいくように」
千駄ヶ谷には一人もいない兄弟子が、隣の家で知らぬ間に増殖していた。

      十の三


 丁寧な解説にあやかりながら、次の一手が伝わる合間にどこからか引っ張り出した将棋盤で六枚落ちの三面指し、兄弟子達の相手をしていると、
「おい、打ったぞ。14の十一」
その一言に場の全員がざわめいた。左辺下段の局地戦から中央へ繋げていこうかという所、突如右辺中段へと転戦し相手の石の中に放り込むような一手。碁に詳しく無い響でも首を傾げるほどである。
「この石……危なくないんですか?」
 じっと盤を睨む山中少年の迫力に思わず敬語になりながら尋ねる。
 しばらくの沈黙の後で、解りません、という返答だった。
「先生の打った手ですから、何か意味があると」
 間を置かずに、相手は鑑連の石を包囲し右辺の戦いを有利に進める一手。
「相手にしてみりゃここしかないもんなあ」
「しかし、先生の次が読めない」
「いずれにせよ始まるな……ヒビキ、今のうちにお茶買ってきてくれ」
 二人同時に返事をすれば、笑いが起こるのも自然である。

 兄弟子達の好みを把握している山中少年が自販機のボタンを押し、響は脇で出てきた品を抱えて待つ。
「碁打ちにとって、碁の負けは死だ」
 ふと、山中少年が呟いた。
「入門して最初に教わった事です。まずはそのことを実感できるようになれ、と」
 言葉を換えればどの業界でも言われていそうな教えであるが、勝負の世界において頂点を極めた存在が口にしたという前提がつけば、言葉に込められた重みというものがまるで異なってくる。
 立花鑑連が口にしたのだから、碁打ちが碁で負けたなら、勝負師が勝負に負けたなら、それは死なのである。
「そこまで突き詰めてしまえば逆に手が縮こまる、先生も一種の喩えとして口にしているだけだと……以前はそう思っていたんです」
 目の前の少年が、もしもありのままの中学二年生であるならば、珍妙な言い回しとして聞き流していただろう。
 以前は、と少年は言った。
「今は違う?」
「本気で覚悟した上で乗り越えなければ先生の所まで辿り着けない。プロになって、院生だった頃のように勝ちが当然でなくなって、ようやく気付きました」
 一局一局に生きるか死ぬかで臨みながら、その上で恐怖を押さえ込む。負けに慣れるのではなく、より重いものを勝負に賭け続ける。
「頭で理解できたからといって、乗り越えられるものでもありませんけど」
 しかし二人は既に降りることの出来ない戦場に立っている。乗り越えられなければそこにもやはり死しかないのだ。
 行くも死、退くも死。ならば観念して死を受け入れる以外に道は無し。
「気違ひになりて死狂ひするまでなり、か」
 かつて鑑連に読まされた本の一節を思い出し、ふと呟くと、
「生きる為にこそ死に狂う、正しい狂気……過激に見えてその実は真っ当ですよね」
当然のように、或いはその表情には喜色も覗けるだろうか、山中少年が言う。
「やっぱり読まされた?」
「先生が定めた立花門下必読書ですから。やっぱり、浅井七段も立派な同門なんですね」
 知らぬ間に薫陶を受けていた事実に苦笑しながら、
「浅井で良いよ。響じゃ呼びづらいだろうけど、段位で呼ばれるのはどうも慣れないから」
「じゃあ、浅井くんで。僕も山中で良いですよ、年下ですし」
「山中くん、かな……知らない人に聞かれて碁将棋に上下があると誤解されても厄介だ」
今朝の出会いも既に笑い話となっていた。

 使い走りを終えて検討部屋に戻ると、室内は先程までの和やかさとは一転、張り詰めた空気に皮膚が震えた。
「動きましたか?」
 買ってきた飲み物を兄弟子達に手渡しながら兄弟子の輪に入っていく、山中少年の後に続く。
 覗き込んだ盤面は、買い出しに出る前と様変わりしており、右辺中段の攻防などそっちのけで、上部から中央へと石が伸び合う空中戦の様相を呈している。
「あの後の先生の手が13の十一で、以下――」
 兄弟子の説明は、流石に響に配慮する余裕も無いのだろう、専門家の検討そのもので、ただただ打ち手をなぞるのみである。
 ついて行けなくなった響を察した山中少年が、
「つまり、捨石です。受けなければ右辺を荒らされますので、相手は受けざるを得ませんでしたが、先生の本筋は右辺を荒らす事でなく今の流れ。攻防によって右辺に奇妙な安定が生まれた、この一瞬の隙をついて中央と上部を繋げ全体を支配すること」
かみ砕いた解説をくれた。
「巧く行ったなら、有利なんでしょうか?」
 山中少年は首を振り、
「如何せん構想が大きすぎます……腕一本差し出して首を獲りにいくことと同じですから。大勝か中押し負けか。蜘蛛の糸を手繰るような手筋、一手でも最善手を外せば終わりです」
悪手を打たない、ではなく、最善手を外してはならない。この二つには天と地ほどの差があるのだが、その喩えが的確であることは、兄弟子達の無言の肯定が示していた。

 響に対する初心者向けの説明を終えてから、再度専門的な検討を始めた輪から離れると、部屋の隅では、呆けたような顔をした慈乃が体育座りをしており、検討の内容にはまるで興味がなさそうにしている。
「聞いてなくて良いのか? 俺よりも詳しいんだから、少しは解るだろ」
 買ってきた慈乃用のりんごジュースを手渡しながら、その隣に腰を下ろす。
「お父さんなら大丈夫だと思う。凄く強いから、間違えないよ」
「お前ってさ……割とガチな部分でファザコンだよな」
「やだよ、違うよ、あんなの。気持ち悪いこと言わないでよ」
 もう少し解り易く愛情を示してやっても良いだろうに、実の親子となると難しい部分もあるのだろうか。そう考えていると、
「お父さんの碁は好きだけど」
流石に言い過ぎたとでも反省したのか、多少しおらしくなって付け加えた。しかしこちらの方が本音だろう、肩の力が抜けた自然体である。
「素直じゃん」
「だって……本当なんだもん」
 今更恥ずかしくなったのか、頬が薄く染まっている。しかし放っておけばもうしばらくは喋るだろう。兄と妹とも言って良いような間柄、慈乃にファザコンの気があることなどとうの昔から把握している。
「お父さんくらいの人なら、立場にとらわれて無難な手に走ってもおかしくないのに、小さく縮こまらないで自分の構想を打ち続けてる。それが最善であると信じれば、躊躇わない。困難な道こそが一局の勝ちに繋がるって、信じているから」
 勝負に拘るからこそ辛い指し回しをするという思想とは異なるが、勝負に拘るからこそ困難な攻めを押し通すという思想もまた正統であろう。
 鑑連は意地で勝つと言った。ならば今日の勝負手もまた伊達や見栄で打ったのではなく、心底から勝ちに向かっていればこその手なのだ。
「おじさんでも、負けは、怖いんだよな」
「誰よりも碁が好きだから、誰よりも勝負に臆病なんだって、昔お母さんが言ってた……負けた夜は、碁盤の前から動かないこと、今でもあるよ」
 あの、碁に関しては誰よりも自信に溢れているように見える男が、その実勝負に対しては誰よりも臆病なのだという。しかし立花の母から出た言葉なら疑う術もないだろう。
 立花鑑連という男は、常に誰よりも大きな恐怖を抱えながら、それを乗り越えて勝負に臨んでいるのだ。
 恐怖を知った上で、自らへの言い訳や逃避を許さず、正面から闘い、乗り越える。その葛藤を想像し、彼の精神の偉大さに、響は自らの小ささを思い知った。
「きっと、そういう人だから勝ち続けられるんじゃないかな……プロになって、何千局も打ち続けているのに、未だに全身全霊を込めて、一局一局に生きるか死ぬかで臨み続けているんだから。生半可な覚悟で超えられる人じゃないよ」
 慈乃はそう言うと、だから、と続けた。
「だから、もしも碁の神様がどこかに存在するのなら、世界で一番打ちたい相手は、絶対にお父さんだと思う」
 最早照れる事すら忘れている。それだけ本気で語っているのだろう。
「最大級の褒め言葉だ、本人に直接言ってやれ」
「やだよ、調子乗るもん……ちなみにね、将棋の場合は、きっと響ちゃんだよ」
「どういう基準か知らんけど……今はまだ、神様相手じゃ二枚落ちでも指せる気しないな」
 弱音とも取れる言葉だが、返した響の表情は晴れ晴れとしている。
 鑑連ほどの人間ですら未だに闘いながら臨んでいるのだ。どうして自分のような若造が何の恐怖も抱かずに臨めよう。
「二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわつて進むなり……なるほど、なるほど」
 生きるか死ぬかの勝負に臨むなら、ハナから自らの命など無いものと思わねばならない。
 即ち、恐怖に負け縮こまった手で恥を晒すようでは、それは二つの死となるだけであるから、予め一つの死を自らに与えておくことで身を活かすという考え。盤前に座する前に一度一度と改めて死んでおけば、玉のやりとりをしている勝負の最中に邪念が湧いてくることもないということ。
 棋士たるものが一度盤に向くならば、ただ気違いとなって死狂いするだけだ――鑑連はそのことを伝えたかったのだろう。
「何、急に……どうしちゃったの?」
「どうやら俺も立派に立花門下だったらしい、ってことだ」
 これからは先生と呼ぶべきだろうかなどと浮かぶと、碁盤を前に寝転んで、だらしなく腹を掻きながらジャンプを読みふける、どうしようもない中年親父の姿が浮かび苦笑した。










      十の四

 肩を揺すられて目覚めると、
「響ちゃん、もう十時になっちゃうよ。早く起きないと朝ご飯片付けちゃうってよ」
慈乃の顔が鼻先三寸のドアップで映った。布団の脇に入り込んでいる。
「ちけえよ」
「よだれ、垂れてたよ」
「寝てんだから仕方ないだろ」
 酒の残りに重たい頭で口元を拭い、朝食抜きの危機を考えれば悠長にもしていられない、早々に布団をたたみ洗面所へ。
 ――昨日の世界棋王戦にて鑑連が見事な勝利を収めると、夕方から祝勝会にかこつけた一門の飲み会が行われた。
 兄弟子行きつけの店に入ると、大人の週末動物園(土曜開催)帰りの銀乃介とばったり出くわして合流。以前からの呑み友達だという兄弟子曰く、元々は銀乃介と飲み歩いていた時に見つけたということであるから、むしろ必然であったろう。
 以降、鑑連の勝ちっぷりもあってか、最年少十三歳の山中少年までもが進んで酒に口をつける程の盛り上がりは、流石に店に迷惑になるだろうという騒がしさになってしまうも、総員飲み足らないという意見は一致、いっそのこと立花家でオールしようと銀乃介が言い出すと、珍しく酔いの回っていた千代もそれを受け入れた。
 慣れた我が家に酔いが深まれば碁盤将棋盤が入り乱れ、誰が言い出したのか千代を相手に十目一枚の脱衣碁までもが始まる始末。酔いと情けが加わっての事だろうが、本職相手の早碁で結局一枚も脱ぐことのなかった千代の姿は、例の山中少年の発言も満更嘘ばかりではないのか知れないと思わせるのに十分と、かくの如き激しい酒池肉林どんちゃん騒ぎは日付が変わっても一向に収まらず、果たして何時まで続いていたのだろうか、最終盤に関しては響も全く記憶が無い。――
「みんなは?」
 洗面所へ向かいながら尋ねると、
「碁の人たちは朝方に帰ったみたい。あと、お父さん達がさっき帰って来てね、銀ちゃん叩き起こして呑み始めてる」
「朝一帰宅で即酒かよ……おじさんも少しくらいゆっくりしてくりゃ良いのに」
「今日は日曜だもん。放送協会杯、響ちゃんの二回戦じゃん」
「見たけりゃ録画で十分だろ、結果知ってんだから」
「午後からはお父さんの二回戦なんだって。酔っぱらったら語り始めるだろうから、覚悟しといた方が良いかも」
 囲碁組が揃って逃げ出したのはこの展開を見越していたのだろうか。あれだけ呑んでは流石に彼らも酒が残っているだろうし、いかな本職とは言え酔っぱらいの碁講釈を延々と聞かされる余裕は無かっただろう。況んや素人の響に於いてをや、である。
「飯だけ食ったらアパート戻ろうかな」
「うーん……今日の調子だと、逃げても呼び出しかかっちゃうと思う」
「何でさ」
「今日は一人祝勝会で一日呑むんだって、でも本当に一人じゃ寂しいから、響ちゃんたち呼び出すって、帰って来て第一声がそれだったもん」
「ったく……ひでえ決め打ちだ」
 昨日の格好良さはどこへ行ったと言いたくもなる、鑑連を先生とは呼べない理由がここにある。
「大体、ここで銀ちゃん見捨てたら後が本当にめんどくさいよ?」
「まあ、だろうな」
 こうなってはもう腹をくくるしかない。洗顔を終えた頬を一つ軽めに張った。

 午前の将棋は特に荒れる局面も無く一本調子のまま終了。見せ場といえば少しばかり寄せが複雑だった辺りであろうが、如何せん響が無表情で淡々と指しきったもので、解説も盛り上げようがないといった雰囲気。テレビは点けていたものの、酒のつまみになることもなく、一応用意しておいた将棋盤には駒すら並べられることもないまま、番組は両界の棋戦情報番組へと切り替わった。
「今週は碁だっけ?」
「碁回の方が女綺麗な分見てて楽しいよな」
「千代達が行った分そっちの方が勝ってるだろう」
「親バカっつーんだよ、そういうのは」
 好き放題に言いながら、こたつに潜ってあたりめなんぞをちゅーちゅーしゃぶる三人組。日曜の昼前からこの状態では人として最底辺の誹りも免れまい。
 番組では鑑連がタイトルを防衛した先月の対局が取り上げられており、七大タイトルを通算六七期獲得という記録について云々と語られているが、
「昨日は幾ら負けたんだ?」
本人はそんな事など知ったことでないという風に、銀乃介に土曜競馬の戦果を尋ねており、
「十六、七かな。今月スカンピンだ」
とてつもない額を平然と答える銀乃介も正気でない。
「なんだ情けない、どうせなら百万くらい負けて来い」
「無茶言うなっつーの」
「私も付き合いで一度だけ買ったがな、万馬券に百万突っ込んで大負けしておいた。御陰でその後はすっぱりやらずに済んでいる」
 銀乃介は感銘を受けたように、なるほどなあとしみじみ呟いたが、間違っても良い話ではないだろう。そもそもまともな競馬ファンであれば百円の応援馬券でも楽しめるものだ。
 呆れ半分で聞いていると、
「響も今度連れてってやろうか? 代理で買ってやんぞ」
「社会勉強としては悪くないかも知れないな」
「いや、犯罪だって」
酔っぱらいの戯言にしても大概である。
『立花名人本因坊の名は間違いなく歴史に残るでしょう……歴代家元、道策や丈和と並べても何ら見劣りしない、本当に偉大な方です』
 テレビから届くコメンテーターの発言は、響がこうして立花家に入り浸っていなければ同意できるものだったのだろうか。しかし碁界における超人としての鑑連より先に、目の前の酔っぱらいを知ってしまった身としてはどうにも共感しかねる。
 そうしているうちにも番組は進行し、
『さて、その立花名人本因坊ですが、昨日の世界棋王戦でも見事勝利し、四強戦への進出を決めました』
と、昨日の今日で話題に上った。
『今大会では特に不振の日本勢ですが、正に日本の碁を背負っている方ですから。是非ともこのまま優勝して頂きたいですね』
『情けないですよ、立花君一人に任せきりの現状では実に情けない。若手も何をボヤボヤしているのか、さっさと彼を無冠に叩き落とすくらいのことをせんといかんよ』
 碁界の長老らしい、白髪頭の老人が言うと、銀乃介が、
「威勢の良いジイサンだな、もう八十近いんだろうに」
気持ちの良いものを見たとでも言いたげに、笑い混じりである。
「鍋島先生か……私に引退させられたようなものだからな、言いたくもなるだろう」
 酔っぱらいらしい懐の深さかと思いきや、
「尤も、私なら十八の若造にタイトルを奪われるような下手は踏まんがね」
返す刀でばさりと斬り落とす。鼻の頭が酒で赤く染まっていなければ、立派に渋い男の姿であったろうと惜しまれる。
 つくづく損な出会いをしたものと思うと同時に、この距離感が有難いとも感じてしまう複雑さ。吐きたくなった息の代わりに、手元の酒に口をつけて紛らわしていると、
「響は、昨日どうだった」
問われてしまい、実物の顔は見ないままに、
「足りないモノは十分に解ったよ」
尊敬できる非実在師匠の姿を心の中に浮かべながら答えた。
「そうか……ならば後は自分でどうにかしろ」
 普段の振る舞いはともかく、勝負師としてはこの上ない師がついているのだ。ここまで助言を貰っておいてこの上おめおめと負け続けているようではそれこそ無様と、
「ところで、小刀とかある?」
「小刀……碁好きの刀工がくれた小脇差ならあるぞ」
「じゃ、次の時にちょっと貸して」
必勝の意気を身に刻む覚悟は、響の内に既にある。









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